香港のタンザニア人コミュニティーには、私たちとはまったく違う人間観や価値観を持つ新しい信用経済が生まれていた――。UX(ユーザーエクスペリエンス)を探究し、企業や政府へのアドバイザリーを行う藤井保文さんがお薦めするのは、 『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』 (小川さやか著/春秋社)。UXを実践するためにも役立つといいます。
UXにつながる「人間理解の極致」
この連載で取り上げる3冊のうち、今回紹介する『チョンキンマンションのボスは知っている』と第2回で紹介する『働くことの人類学【活字版】 仕事と自由をめぐる8つの対話』(松村圭一郎、コクヨ野外学習センター編/黒鳥社)は、内容的にかなり深いつながりがあります。
僕が専門とするUXについてお話しするときによくある勘違いなのですが、「体験を作り、提供する」際には、「おもてなしの精神」や頭の中のアイデアをベースにすると思われがちです。しかし、実際には、顧客やユーザーを理解するところから始めます。
文化人類学者の方々は人を理解することを専門にしていますが、これら2冊には「人間理解の極致」を見たような気がします。UXについて考えるに当たって非常にためになることが書いてあり、自分たちの立ち位置を改めて確認できて、大きな刺激を受けました。今は「多様性」の重要さがしばしば語られていますが、実際に人間がいかに多様な生き物であるかがよく分かるんです。
文化人類学では、「参与観察」といって、対象となるコミュニティーや民族に何年間か入り込んで、内側からその人たちを観察するという取り組みが行われます。その集団の一員となって観察することでより理解を深めるわけですね。『チョンキンマンションのボスは知っている』は、香港に住むタンザニアから来た商人に著者が2年間密着して書かれています。
「常識」とはまったく違う価値観
この本では、僕らとはまったく違う人間観や価値観を持った集団の中で、「私たちの考え方では発想し得ないような、新しい技術を使ったテクノロジーベースのコミュニティーが生まれているのではないか?」という指摘がされています。
タンザニアでは、人間観が僕たちとまったく違うようです。顕著なのが「信用」について。僕らは誰かを信用するかどうか、過去の行いなどをベースに「個人」ごとに判断していますよね。「過去にこういうことをしてきた人だから信用できる/できない」といった感じです。
でも、タンザニアでは、「この人は今、信用できる状態にある/ない」というように、その判断が過去の実績ではなく、瞬間の状態に依存するんです。つまり、「この人は商売が今好調だから信用できる」といった判断ですね。誰もが信用できないし、誰もが信用できるともいえる。
一方で、今はいい状態にある人たちが、そうでない誰かを支えるといったことも行われています。例えば、香港でタンザニア人が亡くなると、そのときにお金を持っている余裕のある周囲の人が祖国の生まれた町に返してあげる。これが思想や宗教の上で重要なことなんだそうです。その際には、日本のLINEのようなデジタルプラットフォームを駆使し、瞬間的なコミュニティーをつくって支援を行っています。
著者の小川さやかさんは、そこには現代だからこそ成立する新たな信用経済みたいなものが生まれていると述べています。僕らが常識だと思っているのとはまったく違う価値観にテクノロジーが融合することで、想像もつかないような形の信用経済が生まれる。この本を選んだのは、タンザニア以外の場所でもそういう新しい経済構造があり得るのではないか、という切り口が面白かったからです。
「負い目」がたまらない社会
自分たちの日常生活に当てはめて考えると、香港のタンザニア人コミュニティーがどれだけ特異なものかが分かります。例えば、フリーマーケットアプリで物を買おうとしたとき、出品者にネガティブな評価がたくさん付いていたら取引を避けますよね。でも、タンザニア人たちはそうした基準では信用に関する判断をしていなくて、あくまでも現在の商売が好調かどうかといった現在の状態を重視します。
つまり、タンザニア人のコミュニティーには信用スコアといったものがなく、「信用を積み重ねる」行動には価値がありません。でも、そのときいい状態にある人には多くの人が賛同して、共に利益を得られるような仕組みができている。
今の僕らの社会では、「負い目」がたまっていきます。「僕はこの人に借りがある/貸しがある」といった負い目によってアクションが生まれ、基本的にビジネスはこうした信用と負い目の蓄積に基づいて行われています。でも、タンザニア人のコミュニティーでは、個人に信用を蓄積させないため、負い目という概念自体がないんですよ。
結果として、個人の信用を蓄積して取引の下地にするのではなく、今いい状態にあって信用できる人に相乗りして全体の状態を良くしていくという、僕らが想像し得るものとはまったく違う形のコミュニティーが生まれています。
なぜ個人と信用を切り離せるか
僕らのコミュニティーでは、そこに長く属しているベテランの方が評価が蓄積されていて、信用されがちです。インターネットが出てきたときに、この年功序列みたいな価値観が崩れ、多様性が生まれました。それでもやはり「古参」と「ニワカ」みたいな力関係が生まれるなど、コミュニティーは固定化していくし、それを嫌う人は多い。
タンザニア式のコミュニティーではこういう問題は解消されるはずです。しかし、表面的な部分だけをまねして個人と信用を切り離すと、例えば匿名性の陰に隠れて誹謗(ひぼう)中傷を行うといった現在のネットで起きているような問題が拡大するだけです。
タンザニア人にそうした問題が起きないのは、全体を良くしていくという価値観が徹底されている上に、まれに悪いことをする人がいても、ある程度までは許容するという下地があるからです。この本を読むと、「この新しいコミュニティーの形態や経済構造を僕らも実践できるんだろうか?」と考えさせられます。
理想形として夢想したところで実現できないと思う一方、タンザニア人の間では現実に存在しているわけです。いってみれば、先に述べた負い目を個人に刻印しない社会や人間観ですね。誰にも「良くない状況」は発生するし、自分も例外ではない。「明日は我が身」という言葉がありますが、それを当然のこととして受け入れて成立している社会があるという点が面白いと感じました。
取材・文/稲垣宗彦 構成/山田剛良(日経BP 技術メディアユニット クロスメディア編集部) 写真/加藤 康