地政学リスク、気候変動、サイバー攻撃、パンデミック、サプライチェーンの分断など、21世紀型のリスクに保険が産業として追いつけているのか。『 2050年の保険業界 膨張するリスクに挑む構造改革 』の著者であり、保険業界に精通する戦略コンサルタントの福島渉氏に話を伺った。
保険業界の21世紀のリスクとは何か
『 2050年の保険業界 膨張するリスクに挑む構造改革 』の中で「新しいリスクに、保険業界が対応できていない」と警鐘を鳴らされていますね。
昨今の世の中に急速に拡大している、気候変動、サイバー攻撃、パンデミック、地政学リスクなどの新しいリスクに対して、保険では十分に対応しきれていません。
例えば、サイバー攻撃の発生件数は年々増加の一途をたどっており、2022年には前年から約4割も増加したとされています。企業が被る損失額も桁違いに拡大しており、データ侵害1件当たりの平均コストは実に約500万ドル(約7.5億円)に近づいています。
被害がそれだけ大きければ、当然サイバー保険の需要も高まっているはずですね。
確かにサイバー保険市場は急速に拡大していますが、2024年時点で見ても、市場規模は保険料ベースで100億ドル台半ばにとどまっています。世界的な保険グループであるチューリッヒ保険グループの報告によれば、グローバルなサイバーリスクによる経済損失の見積額に対して、約0.9兆ドルもの「プロテクションギャップ(保険でカバーされていない経済的損失)」が存在すると指摘されています。言い換えれば、世界中で起きているサイバー損失の「99%近くが未保険」というのが、現状です。

サイバー空間だけでなく、現実社会でも新たな巨大リスクが次々と顕在化しています。
現代の新たな巨大リスクの筆頭である「パンデミックリスク」も、実は民間保険による補償が極めて乏しい分野です。新型コロナウイルスの経験が痛烈に示した通り、パンデミックは世界中で「同時に」経済活動を停止させます。
ロイズのシナリオ分析では、将来の深刻なパンデミックにより、5年間で10兆米ドルを超える世界経済損失が発生し得るとされています。しかし、企業向けの休業損害保険(BI保険)では感染症やパンデミックが免責とされているケースが多く、実際に保険で補償された損失はごく限定的でした。結局、損失の大部分は企業自身や政府が直接負担せざるを得ず、民間保険だけでは埋められない大きなギャップが露呈しました。
中東やウクライナ情勢など、地政学リスクについてはいかがでしょうか。
地政学リスク、および貿易・政治的リスクについても同様です。近年、紛争や経済制裁、資源ナショナリズムなどによって、国境を越えた投資や取引の不確実性が極めて高まっています。政治リスク保険や信用保険の市場は数百億米ドル規模に達していますが、紛争や経済制裁といった事象には、契約上の除外や厳しい引受制限が設けられているのが通常です。そのため、地政学的ショックが発生した際、実際には補償されない損失が一気に表面化しやすい構造となっています。
さらに厄介なのは、これらサイバー、パンデミック、自然災害、地政学といったあらゆるリスクを包含して影響を受ける「サプライチェーンリスク」です。企業の供給網が複雑かつ相互依存的になった結果、特定地域のインフラ障害が世界規模の生産停止を引き起こします。しかし、こうした新しいタイプのリスクに対して、残念ながら現在の保険が対応できているのはごく一部に過ぎません。
保険業界が対応できない2つの要因
数世紀にわたってリスクを引き受けてきた保険産業が、なぜ現代の新しいリスクには対応できないのでしょうか。
これらのリスクに保険が十分に対応できない背景には、決定的な要因が2つあります。
1つ目は、「保険料を算定するための十分な過去のデータ(ヒストリカルデータ)が存在しない」ことです。それはこれらのリスクがここ数年で急激に拡大・変容してきたことに起因します。
保険という仕組みは本来、過去に「どの程度の頻度」で事故が起き、「どのくらいの損害」が発生したのかという過去のデータをもとに、将来の損失を確率論的に見積もる科学です。例えば自動車事故や火災、あるいは一定の自然災害であれば、長年にわたって膨大なデータが蓄積されており、精緻な統計モデルを構築することが可能でした。
しかし、サイバー攻撃手法の高度化、未知の感染症が拡大する様態、刻一刻と変わる地政学的緊張は、短期間で状況が劇的に変化しますし、過去のデータが少ない。データがあったとしても、現在の状況を適切に反映していないため、保険会社は将来の損失を、高い信頼性で予測し、適正な価格(保険料)をつけることが極めて難しくなっているのです。
2つ目の要因はそもそもこのようなサイバー攻撃、パンデミック、地政学といったリスクは、これまで保険が対象としてきたリスクとは根本的にリスクの性質が異なるということです。これまで保険が対象としてきたリスクは、たくさんのサンプルが集まると発生確率が一定に安定するという、いわゆる「大数の法則」が成立していました。
その分かりやすい例が保険料率の算定です。人間は個人個人がいつ死ぬか分かりませんが、日本全体でみるとだいたい80歳前後で亡くなる人が多いので、生命保険では保険料を合理的に定めることができるのです。
一方、サイバー攻撃、パンデミック、地政学といったリスクは事象(被害)の連動性が高いため、サンプルを増やすとリスクも膨張するという特性があります。このようなリスクには確率統計論を基礎としたこれまでのアプローチは通用しにくくなっており、仮にデータが蓄積したとしても、合理的な保険料を算定することが困難であり、これまでのような保険の仕組みが成立しない可能性が高いのです。
つまり、これまで保険産業が培ってきた「科学」そのものが通用しなくなっているのですね。
その通りです。過去の統計や大数の法則といった、20世紀まで完璧に機能していた数理的な科学だけでは、21世紀に拡大する相互接続された巨大リスクを捉えきれません。
だからこそ保険産業は、従来のアプローチの限界を受け止め、新しいテクノロジーの活用や、政府・異業種との共創といった「全く新しいリスクマネジメントのあり方」を創造しなければならない局面に立たされているのです。
取材・文/永野裕章(日経BOOKSユニット)、市川史樹(日経BOOKプラス編集) 写真/洞澤佐智子
地政学リスクや気候変動、サイバーテロなど新しいリスクが頻発する今、保険業界はどのように進化すべきか、戦略コンサルタントが提言。「損失補填」から「社会のレジリエンス」を担う産業へ、その道筋を描きます。
福島渉著/日本経済新聞出版/3300円(税込み)
