世界のトップYouTuberたちに伍すると目された「YouTuberロボット」が突如姿を消してから5年。SE(システムズエンジニア)として働く主人公の元に届いた1本の動画から、「YouTuberロボット」の壮大な問いかけが始まる——。世界とは、人類とは、愛とは何か、答えの出ない問いを架空のYouTuberに託した物語。新作 『多頭獣の話』 (講談社)について著者の上田岳弘氏に話を聞いた。(聞き手=金澤英恵)
YouTuberは新時代の象徴でありあだ花
上田さんの最新作 『多頭獣の話』 (講談社)には架空のYouTuberがたくさん登場します。前作の 『K+ICO』 (文藝春秋)はUber Eats配達員とTikTokerの女子大生が主人公でした。今回も「現代ならでは」の人物設定にされたのですね。
主要人物にYouTuberを選んだのは、おっしゃるように彼らが「今現在」を象徴する存在だからです。米国のMrBeast(ミスター・ビースト)はYouTubeだけで約3億人以上のフォロワーがいます。彼のような人物が持つ、社会に与える影響力は計り知れません。エンターテインメントからチャリティーまで幅広く活動している彼の存在はまさに新しい時代の象徴といえるでしょう。
一方、YouTuberが栄華を極めた時期もあったけれど、最近ではほころびが出るなどして陰りが出始めているようにも見えます。時代を象徴するからこそ、どこかあだ花でもあるYouTuberについて、今のタイミングでしか書けないことがあると。
登場するYouTuberは世界を変えることを望んでいます。そうした大きな力を「YouTuberという職業」に与えたのはなぜでしょうか。
作中でも書いていますが、あるときふと、太宰治が現代に生きていたら最初から小説家を目指すことはしなかったのではないか、と感じたんですよね。太宰が現代人なら、少し前ならキャリア初期にはお笑い芸人やロック歌手を目指していたかもしれない。あるいはここ10年内に20代前半の若者として生きていたらYouTuberになっていた可能性もある。彼の破滅的な人生はまさに劇場型であり、今なら「炎上系」とでも言うべき人たちのように、世間の注目と膨大なフォロワー数を集めていたかもしれません。もちろん、それがいいかどうかは別の議論ですが。
太宰が生きた時代の「小説家」は、その時代のインフルエンサーだった。表現者として瞬間的な大きな影響力を獲得できるという点では、現代のYouTuberには共通する部分があります。しかし、一口に影響力といったとき、その力は何のためのものなのか、という疑問が浮かびました。YouTuberという存在を通して、影響力とは何かを探ってみたのです。
犠牲を生まない「行動の不在」こそが善か
「影響力とは何か」について、YouTuberを通じて見えたことはありますか。
この小説を書くために、3年ほどYouTubeを熱心に見ていました。興味深かったのが、アーティストの村上隆さんとYouTuberのヒカルさんの対談です。動画の中でヒカルさんは「僕の一番の魅力って、間違いなく若さと勢いだと思うのです」とおっしゃっていた。社会一般で言われる「勢い」は「あいつは勢いだけ」などの揶揄(やゆ)に使われる場合もある。けれどもこの動画を見て、「勢い」は「影響力」とほぼ同義なのかもしれないと感じました。影響力という言葉は彼自身もよく使っていますが。
YouTuberやインフルエンサーと呼ばれる人たちの勢い、あるいは影響力は、実生活を元手にしつつ、浮遊するように現代を覆っている。しかもテクノロジーにのって効率的に影響力を行使し、さらなる力を求め続ける。そのことで人間性から乖離(かいり)していく。そのため一部のYouTuberは狂っていく。こんなイメージが僕の中で湧きました。
「人間性とは何か」を問いかけるやりとりが本作で何度も登場します。ある登場人物が発した「善とは行動の不在です。行動しない。そうすれば犠牲は生まれない」という言葉に時代感が色濃く出ています。
SNSで何か意見を表明すれば必ず反対意見が出てきます。宇多田ヒカルさんの歌ではないけれど、誰かが笑った次の瞬間、誰かが泣いている姿が見えてしまう。良くも悪くも、行動に対する反作用が可視化される社会になってしまった。だから、「善とは行動の不在である」という言葉に、自分も他人も傷つけないという意味で納得できる部分もある。しかし同時に「本当にそれでいいのか」と思いますよね。
行動しない、さらに言うと「自分のことを誰にも何も知らせず、静かに人生を終える」ことが善だとしたら、生きるモチベーションとは何でしょうか。僕自身は色々なことをしていますが、小説を書いている時間が幸せなので、読む人がいなくなってしまうことは恐怖でしかない。
「人間の基本的な前提」を覆す変化
主人公の家久来(かくらい)はサラリーマンでいわゆる仕事人間ですが、後輩だった人から「ロボット」と揶揄され、「何もわからない。それでいいですよ。それでこそ家久来さんだ」と言われます。ですがその後輩は家久来を肯定しているようにも見えます。この物語における「ロボット」は社会の歯車、思考停止、あるいは社畜といった、よくある揶揄としては使われていないように感じました。
僕自身、巨大なプラットフォームに対して抵抗感があります。けれど、現代のスピード感の中では、世の中が提示するプラットフォームに乗っかり、ロボットのように対処しなければ日常生活が回らない面がある。「自分だけ流れに乗らない」選択はデメリットが多すぎ、現実にはほぼ不可能です。それならどう対処すべきなのか。この作品を書きながら答えを探していたという気もします。
「プラットフォーム」と呼ばれるものを使用せずに生活することはもはや想像できないかもしれませんね。
GAFAのような巨大プラットフォーマーと各国政府とは今のところ切り分けられています。両者は利害の不一致も受け入れつつ、社会の一部を担っている。ただ、プラットフォームマーに為政者が介入し、大きな意志を形成してしまったらどうなるのか。そうした脅威とは常に隣り合わせだと感じます。それでもなお、「受け入れるしかない」「抗うにはデメリットが多すぎる」という気分が広まっている。
多くの人がロボットにならざるを得ない。だからこそ、「影響力を持つ人が何を考えるのか」が非常に重要だろうと。そもそも影響力を持つこと自体が難しいし、もしかしたら、純粋に影響力を求める人だけが影響力を持てるのかもしれない。そんなことを思い浮かべながら書き続け、最終的に「それではよくないのでは」と、問題の本質にたどり着いた手ごたえがありました。
一部ロボットにならざるを得ないがそれでも巨大なプラットフォームに飲み込まれたくない、自分自身を保ちたいというのが人間の本能でしょう。僕もそのうちの一人です。そうした葛藤を描くとき、あるいは葛藤の中にいるとき、現代とはいったい何なのか、人間性や生きる意味とは何か、といったことの本質が見えてくるのではないでしょうか。
脳とコンピューターを直接つなぐテクノロジーの開発も進んでいます。自分とは何か、肉体とは何か、人間の葛藤はこれまで以上に深くなりそうです。
原始社会で人々は150人ほどの単位で生活していました。そこから徐々に集団が大きくなり、宗教が生まれる。そのとき、司祭はまだいませんでしたが、宗教は徐々に確固たる存在になっていく。一方、集団が大きくなるにつれて王権が発生し、やがて国同士が結びつく。権力は上から下へ、つまり神から人間に降りていきました。さらに、民衆が王政に対抗したフランス革命のように、権力が人々に分散されていく流れも出てきました。
権力が遷移していく過程と並行して技術も発展し、武器が進化して、新たな医療技術が発見されるなどもした。ここまでの発展は、「人間という生命体の基本的な前提」を覆すほどのものではありませんでした。ところが現代では、その前提を覆すかもしれないテクノロジーが続々と生まれています。
僕たちが今、非常に大きなターニングポイントにいることは間違いない。現代に登場した、個人が発信者となるYouTubeのようなプラットフォーム、そのプラットフォームに乗っかる周辺の市場、いずれもその象徴かもしれませんね。
意識しているか、していないかはさておき、何かに影響力を行使されている、息苦しい状況に我々はいる。その中にあって、本作の中にある、「自分に起こることすべてに意味があって、無駄な現象は起こらない」といった言葉が印象的です。上田さんご自身もそう考えていらっしゃいますか。
僕自身、偶然自分に起こったことには意味があると感じてしまうタイプです。そもそも決定論的に世界が進んでいるとは思っていません。18世紀には、全ての物理計算ができれば未来も見通せるといった、「ラプラスの魔」と言われる決定論的な見方がありました。しかし、量子論的な見地から実際にはそうではないと分かってから、偶然の意味や価値が見直されてきた。
決定された運命をなぞる人生など考えただけでもつらい。だからこそ、「決まっていないことが多い」という事実が私たちに希望や救いを与えてくれる。僕の作品でも、分からないことがあるからこそ喜びにつながるということを、微に入り細にわたり伝えていきたいと思っています。
取材・文/金澤英恵 構成/谷島宣之 写真/小野さやか




