2025年のノーベル経済学賞の受賞者は米仏の3氏に決まった。今回は「イノベーション主導の経済成長の解明」が授賞理由となった一方で、日本人の受賞はまたしてもなかった。今回の「BOOK Selection」ではノーベル経済学賞の最近の傾向、歴史や展望などを、「経済学の書棚」でもおなじみの前田裕之氏が2回にわたり解説する。前編では、今回の受賞者による著書を取り上げ、授賞対象となった研究業績の根底にある考え方を確認する。そのうえで、ノーベル経済学賞を受賞するための条件も探る。

米仏の3氏が受賞

 2025年のノーベル経済学賞の受賞者は米ノースウエスタン大学のジョエル・モキイア教授、仏コレージュ・ド・フランスのフィリップ・アギヨン教授、米ブラウン大学のピーター・ホーウィット教授の3氏に決まった。「イノベーション主導の経済成長の解明」が授賞理由で、賞金の半分をモキイア氏が受け取り、残り半分をアギヨン、ホーウィット両氏が分ける。

 前編では、今回の受賞者による著書を取り上げ、授賞対象となった研究業績の根底にある考え方を確認する。そのうえで、過去の受賞者の著書も参照しながらノーベル経済学賞を受賞するための条件を探る。

 経済学者たちは長年、経済成長の持続性や経済成長の原動力を巡って論争を繰り広げてきた。

経済成長の時代は終わったのか

 「1970年代前半に経済成長は終わり、もう戻ってこない」と説くのは米ノースウエスタン大学のロバート・ゴードン教授だ。3Dプリンターや人工知能(AI)にはかつての電気や内燃機関ほどの影響力はなく、2016年の時点で、今後25年間の経済成長率は年0.8%程度と予測した。

 対照的な見方を示すのが、ゴードン氏の同僚でもある経済史学者のモキイア氏であり、レーザー技術、医療、遺伝子工学などさまざまなイノベーションが世界に普及し、経済が再び成長する明るい未来を描き出す。

 モキイア著『 知識経済の形成 産業革命から情報化社会まで 』(長尾伸一監訳、伊藤庄一訳/名古屋大学出版会/2019年9月刊)は「知識経済」の観点から見た経済史で、英国において産業革命が起きた要因を導き出している。モキイア氏の主著(原書の発刊は2002年)である。

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 同書によると、「有用な知識」は「命題的知識」(自然界の規則性の「発見」に当たる。「Ω型知識」と命名)と「指図的知識」(実際の行為を指図するテクニックを指し、「発明」がこれに当たる。「λ型知識」と命名)の2つからなる。両者はばらばらな状態だったが、18世紀後半の産業革命では両者がかみ合い、経済成長が軌道に乗ったとの仮説を提唱する。

啓蒙主義と科学革命が生んだ産業革命

 その下地になったのが16~17世紀に啓蒙主義の一環として広がった科学革命だ。啓蒙主義は人々が変化を受け入れる風土を育んだ。科学者たちは、正確な測定方法、制御された実験、再現性を求めるようになり、命題的知識と指図的知識のフィードバックが改善した。産業革命期の英国では、科学と技術が相互に密接な関係にあり、そこから発明と改良が生まれた。

 産業革命の要因分析から抽出した知識経済論は、モキイア氏の楽観的な未来予測の土台になっている。世界各国が科学技術の競争を繰り広げる現代社会では、イノベーションは瞬く間に世界中で受け入れられ、普及する。「過去150年の間に、知識のための知識の相対的な重要性が低下し、経済的な関心がますます重要になってきた。命題的知識の探究の多くは、産業界で認識されたニーズによって直接触発され、動機づけられている」。さらに、AIの発達は命題的知識と指図的知識のフィードバック強化につながる。

 アギヨン、ホーウィット両氏は持続的な経済成長の背後にあるメカニズムを解明する数理モデルを構築した。経済成長理論の分野では、ロバート・ソロー(1987、以下カッコ内は受賞年)、フィン・キドランドとエドワード・プレスコット(2004)、ポール・ローマー(2018)各氏らに続く受賞だ。

 ソロー氏は全要素生産性(TFP)の概念を打ち出し、技術進歩が成長のカギを握ると主張した。技術進歩は経済成長モデルの外で決まる「外生的な」要素だと考え、どのように決まるのかは解明しなかった。これに対し、ローマー氏は成長要因を経済の内部要因で説明する「内生的成長理論」を構築し、アイデアの集積(スピルオーバー効果)が重要だと強調した。ローマー氏は成長の原動力であるイノベーターの優遇措置を提案した。

「創造的破壊」を成長モデルに組み込む

 アギヨン、ホーウィット両氏が作ったのはローマー氏とは別のタイプの「内生的成長理論」のモデルだ。企業の設立件数と倒産・撤退件数や特許件数との関係を分析し、「創造的破壊」のプロセスを定式化した。特許にはイノベーションを促進する効果があるが、特許の保護期間を長くしすぎると新規参入を阻む恐れがある。特許を保護してイノベーションを促し、多くの人々のアイデアを取り入れる余地を残すバランスの取れた政策が必要だと説く。

 両氏は、企業者による「創造的破壊」が資本主義発展の原動力だと唱えたオーストリアの経済学者、ヨーゼフ・シュンペーター氏のアイデアから着想を得ている。アギヨン、セリーヌ・アントニン、サイモン・ブネル著『 創造的破壊の力 資本主義を改革する22世紀の国富論 』(村井章子訳/東洋経済新報社/2022年11月刊)は、シュンペーター氏が提示したイノベーションに関する命題を起点に、世界各国の経済成長の歴史を検証する本だ。

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 「停滞から成長への移行」、「競争と成長の関係」、「中所得国の罠(わな)」、「長期停滞」、「イノベーションが不平等に及ぼす影響」の「5つの謎」を、データを示しながら解き明かしていく。

イノベーションの負の側面にも注目

 イノベーションがもたらす負の側面にも着目し、失業や健康への悪影響に対応するセーフティーネットの整備、「資本主義を望ましい形で規制し、より包摂的で弱者に優しく、かつ環境に配慮する方向へ導く」市民社会の確立などを希求する。

 2025年は日本人が生理学・医学賞と化学賞を受賞した。ノーベル賞の歴史の中で経済学賞だけは、いまだに日本人が受賞していない。数年前から米プリンストン大学の清滝信宏教授の名前が候補として挙がっているが、2025年も受賞には至らなかった。王立科学アカデミー内に設置される選考委員会はどんな基準で受賞者を選んでいるのだろうか。

ノーベル経済学賞を受賞するには

 2014年の受賞者、ジャン・ティロール著『 良き社会のための経済学 』(村井章子訳/日本経済新聞出版/2018年8月刊)は現代経済学の全体像を眺望できる入門書だ。

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 ティロール氏は産業組織論、規制政策、ゲーム理論、ファイナンス、マクロ経済学など幅広い分野で第一級の研究業績を誇る突出した存在であり、早い段階から「いつかは受賞するだろう」との評判だった。

 同書には、経済学者たちの仕事ぶりを詳しく紹介するパート(第Ⅱ部「経済学者の仕事」)がある。「誰のどの研究がすぐれているのかが多くの人にわかり、その分野で学ぶ学生にとっては指針にもなる」のは同一分野の専門家による論文の査読(ピアレビュー)だと断言する。格が高いジャーナル(学術専門誌)のほとんどは米国に本拠があり、査読を担当する専門家のハードルをクリアする論文の本数が増えれば、学者としての評価が上がる。

 フランスに拠点を置くティロール氏は米国中心の評価基準や業績審査の実態に疑問を呈しつつも、その基準を満たす努力を続けた結果、ノーベル賞を受賞したのだ。

 経済学賞選考委員会が審査の対象とするのは、授賞時の30年程度前の研究業績だとされている。候補者の研究が経済学界に与えたインパクトや評価をじっくりと見極めるためだ。研究者にとっては「学界の潮流をにらみ、どの分野の研究に取り組むのか」が極めて重要になる。

「資本主義や市場経済に対する信頼」が前提

 ただ、どの分野を選ぶにしても、米国のメインストリーム(主流派)経済学は「資本主義や市場経済に対する信頼」を前提に論理を組み立てているのは言うまでもない。ティロール氏は、「経済学者は、市場の失敗の原因究明と公共政策によるその修正方法の模索にかなりの時間を費やしてきた」が、それでも「大方の経済学者は、さまざまな欠点を認識したうえでなお、市場を支持している」と説明する。

 気候変動や経済格差の広がりに直面する人々の間で、資本主義や市場経済、さらには市場原理を重視する経済学に対する風当たりが強まっているものの、経済学者たちは、岩盤は揺らいでいないとみているようだ。

 2018年の受賞者、ウィリアム・ノードハウス氏は『 グリーン経済学 つながってるけど、混み合いすぎで、対立ばかりの世界を解決する環境思考 』(江口泰子訳/みすず書房/2023年1月刊)で、環境問題は「外部性」と「公共財」という「市場の失敗」をもたらす2つの要因が重なって起きていると指摘する。

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 主流派経済学の枠組みの中で議論を展開し、(1)気候変動の事実を市民が受け入れる、(2)温室効果ガスの排出価格を適切に設定する、(3)世界各国がグローバルな協調行動をとる、(4)政府と民間がエネルギー部門の技術革新に精力的に取り組む、の4つの措置を求めている。

 ノードハウス氏は自身が唱える「グリーン思考」に否定的な考え方にも言及する。その中の一つが、「生物中心」や「環境価値」を唱え、人間の選好はあまり重視しない「ディープ・グリーン」だ。「地球を搾取し、悪化させるシステム」を批評家がすべて解体したあと、「人間の文明にはほとんど何も残っていないだろう」と「グリーン懐疑派」の主張を退ける。

 ノーベル経済学者たちは「さまざまな問題を抱えているにせよ、資本主義や市場経済に優るシステムは存在しない」と認識している。社会主義への移行を説くマルクス経済学者や、資本主義や自由主義を否定する論調が濃い学者はこれまで受賞していない。

米国での評価が大事なのか

 2024年の受賞者、ダロン・アセモグルとジェイムズ・A・ロビンソン氏は『 国家はなぜ衰退するのか 権力・繁栄・貧困の起源(上・下) 』(鬼澤忍訳/ハヤカワ文庫/2016年5月刊)で、長期的な経済発展の成否を左右するのは政治・経済制度の違いであるとの認識を示す。包括的な政治制度(その極限が自由民主政)と包括的な経済制度(開放的で公平な市場経済)の組み合わせが持続的な成長を可能にし、収奪的な政治制度(権威主義的な独裁制など)や収奪的な経済制度(奴隷制、中央指令型の計画経済など)は持続可能性がないと訴えている。

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 同書は彼らの十数年にわたる研究の集大成を一般向けに紹介する本だ。数多くの理論や実証分析の裏付けがあり、安易に市場を礼賛する本ではないが、賞の前提条件を満たしている研究の一つだとの見方もできる。

 ノーベル経済学賞を受賞するためには、米国の経済学界で自身の評価を高める努力をするしかない。学界の潮流を見極めつつ、「新分野を開拓した」と評されるような突き抜けた存在になるのは容易ではないが、清滝氏をはじめ、米国の経済学界で活躍する日本人は増えている。ノーベル経済学賞は決して手が届かない存在ではない。

(後編へ続く)

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