2025年のノーベル経済学賞の受賞者は米仏の3氏に決まった。ノーベル経済学賞には第1回(1969年)以来、50年を超える歴史があり、2025年を含め累計で99人の受賞者が生まれた。今回の「BOOK Selection」ではノーベル経済学賞の最近の傾向、歴史や展望などを、「経済学の書棚」でもおなじみの前田裕之氏が2回にわたり解説する。後編ではノーベル経済学賞の歴史を振り返りつつ、同賞の将来を展望する。

50年を超える賞の歴史を振り返る

 ノーベル経済学賞には第1回(1969年)以来、50年を超える歴史があり、2025年を含め累計で99人の受賞者が生まれた。後編ではノーベル経済学賞の歴史を振り返りつつ、同賞の将来を展望する。

 受賞者の一覧表を眺めてみよう。初期の頃では、ポール・サミュエルソン(1970、以下カッコ内は受賞年)、フリードリヒ・ハイエク(1974)、ミルトン・フリードマン(1976)、2000年以降では、ジョセフ・スティグリッツ(2001)、ポール・クルーグマン(2008)、ベン・バーナンキ(2022)らは、経済学にあまり関心がなくても知っている人は多いだろう。

 その一方、2025年の受賞者も含め、そのほとんどは経済学の関係者以外には存在を知られていないのではないか。受賞が決まると一時的に脚光を浴びるが、そのうちに世間からは忘れられた存在となりがちだ。

経済学の基礎を作った学者たちが受賞

 中央大学教授の瀧澤弘和氏は『 現代経済学 ゲーム理論・行動経済学・制度論 』(中公新書/2018年8月刊)で、最近のノーベル経済学賞の受賞者の傾向が大きく変化してきたとの見方を示す。

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 瀧澤氏によると、1980年代までは、(1)経済分析の基礎をなす経済モデルの開発や計量的な分析手法の開発や応用に貢献、(2)米国とソ連が対立する中で、政府の役割に関する論争に独自の知見で貢献、(3)完全競争市場の「一般均衡理論」と呼ばれる市場メカニズムの精緻な数理モデルや数理計画法の発展に貢献、のいずれかに該当するパターンが多かった。

 1990年代に入ると、米ソ冷戦が終わって体制論争には決着がつき、一般均衡理論のモデルはほぼ完成した。この頃から経済学界に新風を吹き込んだのが、ゲーム理論や行動経済学、神経経済学といった分野であり、とりわけゲーム理論の関連分野での受賞者が目立つようになったと分析している。

学界に新風を吹き込んだゲーム理論

 ゲーム理論は現代ミクロ経済学の柱であり、さまざまな方向に枝分かれしながら発展している。複数のプレーヤーが互いの出方を読みながら行動する様子を、数式を使って分析する。現状では応用範囲は限られており、経済学界でのウエートの大きさと世間の認知度との間にはギャップがある。

 2012年の受賞者、アルビン・E・ロス著『 Who Gets What(フー・ゲッツ・ホワット) マッチメイキングとマーケットデザインの新しい経済学 』(櫻井祐子訳/日本経済新聞出版/2016年3月刊)は、ゲーム理論の一分野であるマッチング理論とマーケットデザインの入門書だ。

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 同書によると、コモディティの市場では、「誰が何を手に入れるか」は価格によって決まるが、現実の社会では、モノやサービスの配分を価格では調整できない例は多い。そんなとき、限られた資源をどのように人々に配分するか、さまざまな好みを持つ経済主体をどのように引き合わせるかを研究するのがマッチング理論であり、うまく配分できる制度を設計するのがマーケットデザインである。

 ロス氏は「マーケットデザインを、これほど多くの人たちに尊ばれてきた『自由市場』の概念と折り合わせるには、どうすればいいだろう?」と問いかけながら、マッチング市場の仕組みや利点を丁寧に解説している。

 2017年の受賞者、リチャード・セイラー氏は『 行動経済学の逆襲(上・下) 』(遠藤真美訳/ハヤカワ文庫/2019年10月刊)で、行動経済学が生まれた経緯を紹介している。行動経済学は今や「経済学の成長分野」として認知されているが、そうなるまでの過程で「従来の手法を擁護する伝統的な経済学者とは何度となく衝突した」と述懐している。こうした努力が実を結び、行動経済学の認知度は高まったが、セイラー氏をよく知っている人は少ないだろう。

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 京都大学教授の根井雅弘編著『 ノーベル経済学賞 天才たちから専門家たちへ 』(講談社選書メチエ/2016年10月刊)は、ノーベル経済学賞の変遷(1969~2015年が対象)を検証する本だ。

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加速する経済学の専門分化

 根井氏によると、1970年代は経済学のほとんどの分野に足跡を残した「大物」、80年代はケインジアンとマネタリストの対立に象徴される、激しい論争を乗り越えた研究者たちが受賞した。90年代になると、ケインズ経済学の退潮、新古典派経済学の優位、ゲーム理論の浸透、情報や制度の経済学の台頭などが鮮明になり、そのような流れを反映した受賞者が多くなる。経済学の専門分化が進み、その分野の研究者しか受賞者の仕事を評価できない例が増えたのもこの頃からだ。

 2000年代になると、この傾向はさらに加速する。根井氏は「受賞者の名前を聞いても専門家以外どんな人だったかすぐには思いつかない場合も少なくない」という。

 もっとも、対象分野の専門家以外には、ほとんど存在を知られていない研究者が受賞するのは、経済学賞に限らない。自然科学系の受賞者を見て、もともとよく知っていたという人は少ないはずだ。

 経済学者であれば、ときの政権に協力して政策決定に関与したり、メディアに露出して経済についてコメントしたりすれば、知名度は高まる。根井氏が指摘するように、経済学賞の草創期(1970年代)には、研究者として優れた業績を残しつつ、社会でも活躍する「大物」がたくさんいた。2000年以降の受賞者においても、そうした存在は皆無ではないが、ごく限られている。

 既存の体系の中で新規性のある研究を積み上げるのが、現在の経済学者の王道だ。専門分化が進む学界の中で活動する研究者たちは、専門分野以外の問題に目を向けたり、時間を割いたりする余裕がないのかもしれない。

 これから経済学はどこに向かうのか。経済学界では、2000年ごろから「データ分析」を重視する傾向が強まり、ノーベル経済学賞にもその影響が表れている。コンピューター・データ処理技術の向上と、新たな分析手法の発達が背景にある。

 経済学では「理論と実証」が車の両輪であり、実証分析にも力を注いできた学問ではあるが、経済理論が主役であり、実証分析は理論の正しさを裏付けるための手段であった。

 ところが、ランダム化比較試験(RCT)や統計的因果推論といった新たなデータ分析の手法が登場すると、経済理論を介さなくても物事の因果関係を解明できる研究が成立するようになり、経済学界に劇的な変化をもたらしている。

いつしかノーベル「データサイエンス」賞になるのか

 2019年の受賞者、アビジット・V・バナジーとエステル・デュフロ氏は『 絶望を希望に変える経済学 社会の重大問題をどう解決するか 』(村井章子訳/日経ビジネス人文庫/2024年4月刊)で、「よい経済学と悪い経済学」について論じている。

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 2人がイメージする「悪い経済学」は「貿易は万人にとってよいことで、あらゆる国で成長が加速する。あとは個人のがんばりの問題だ」と主張するような経済学だ。既存の経済理論にとらわれ、紋切り型の主張を繰り返す経済学者を厳しく糾弾する。

 RCTを活用して発展途上国の貧困問題に取り組んできた彼らは「よい経済学は無知とイデオロギーに打ち克ち、防虫剤処理を施した蚊帳をアフリカで売るのではなく無償で配布させることに成功し、マラリアで死ぬ子供の数を半分に減らした」と力説する。

 ここ数年で急速に高度化が進んでいるAI(人工知能)は、データ分析を重視する傾向に拍車をかけるにとどまらず、経済学界を激変させるかもしれない。2025年の受賞者、ジョエル・モキイア氏は、AIは経済学が分析対象とする経済社会に大きな変化をもたらすとの認識を示すが、それと同時に経済学の分析手法にも大きな影響を与える可能性がある。AIの柱である機械学習には、2つの事象の関係を「予測」する機能があるが、この機能は既存の経済学における「回帰分析」に相当する。

 回帰分析は経済理論をデータで裏付けるための伝統的な手法であり、これに挑戦状をたたきつけたのがRCTや統計的因果推論である。AIのインパクトはRCT以上に大きく、AIの精度がさらに高まれば、経済理論の存在意義はなくなると主張する論者もいるほどだ。ノーベル「経済学」賞をノーベル「データサイエンス」賞に衣替えする日が来るかもしれない。

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