プラセボ効果は期待や思い込みによって生じるが、ダイエットなどに取り組んでいる人にとって、「健康に良い」という期待は、時に逆効果になることがある。「健康的」「低カロリー」という期待は満腹感を妨げる恐れがあるからだ。プラセボ効果研究の第一人者、カリン・イエンセンの最新刊『 予測脳 Placebo Effect 最新科学が教える期待効果の力 』(中村冬美・翻訳)から一部抜粋して、健康的な食事と期待効果について解説する。
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高いワインを味わうと脳は喜ぶ
本連載の第1回目で高級ウイスキーの瓶に入った安酒を飲んで大満足した叔父の話をした。では、値段の高い酒と安い酒をテイスティングしたときの、脳の活動の違いを見ることはできるのだろうか。
実際のところ簡単とは言えないが、数人の研究者がそれに成功している。ドイツのボンで、fMRI(磁気共鳴機能画像法)の装置の中でワインのテイスティングをしてくれる赤ワイン好きの人を募集した。狭い装置の中で身体を固定されたまま試飲するのは大変難しそうだが、研究者たちは特製の「ワイン注入機」を作製し、被験者には細いチューブを口にくわえてもらい、そこに少量のワインを流し込めるようにした。
被験者は試飲前に毎回、そのワインが3ユーロ、6ユーロ、18ユーロのどれであるかを示す値札を見せられる。その後、被験者の口にワインが送り込まれ、飲み込む前に8秒間、舌を動かし口の中で転がしながら十分味わうよう指示を受けた。
そうすることで、味を正しく評価する時間を確保できる。実は、被験者に提示した値段に関係なく、チューブを流れてくるのは毎回同じワインだった。実験中、被験者の脳の活動を測定した。
残念ながら、被験者はワインを口の中で転がす際に頭を動かしすぎたためほぼ半数の脳画像は使えなかったが、30人分の脳画像は確保できた。分析の結果は、高い値札をつけたほうが、同じワインに安い値段をつけて提示した場合よりも、被験者は大きな喜びを感じていることが分かった。同時に、「高い」と思っているワインを飲んだときのほうが、脳の報酬系が活発になっていることも確認できた。
高級ワインを飲んだときやゲームに勝ったときなど、人は大きな喜びを感じるとき、脳内では報酬系の活動が活発化する。このとき、快楽に関連する神経伝達物質であるドーパミンの放出が増加する。麻薬が人工的な快楽をつくり出すのと同じように、「好きだ」と認識していることを楽しむとき、身体は自然とドーパミンを放出する。
このドイツのワイン実験では、自分が飲むワインに価値を見いだすことで期待が生まれ、脳の報酬系の神経細胞が活性化することが示された。また他の研究では、嗅覚と視覚も同様に期待感の影響を受け、その人の感じ方が変化するだけでなく、脳内の測定可能な生物学的反応にも変化が生じることが分かっている。
同じ匂いでも説明によって「不快な匂い」に
言葉による説明は期待を生み出し、私たちの経験の一部を形成することもある。それは広告が得意とするところだ。英オックスフォード大学の研究者は、実験室で人工的につくった匂いを「チェダーチーズ」または「体臭」として提示したとき、嗅いだ人の脳内で何が起こるかを調べる実験をした。
結果は、同じ物質なのに被験者は「体臭」のほうが「チェダーチーズ」より不快に感じた。また、こうした被験者の主観だけでなく、脳の嗅覚中枢で活動の変化も観察された。つまり、嗅覚をコントロールする器官は、明らかに期待による影響を受けている。
言い換えれば、私たちの身体は感覚器から届いた刺激に常に同じように反応するわけではなく、同じ匂いでもどう説明されるかによってまったく違う印象を受けることがある。
今日、食べ物と健康の関係についての関心が非常に高まっているが、一方では世界の多くの人が肥満に悩んでいる。不健康な食習慣や運動不足は深刻な問題を引き起こし、人類に苦しみをもたらしている。
不健康な食事を減らすのが難しい理由
その解決策ははっきり分かっているのに、どうしてそれを実行するのは難しいのだろうか。不健康な食事を減らし、より多く運動することに、高度な知識や技術は必要ない。それなのに、なぜ私たちは、不健康な生活を続けているのか。その答えは、人の心理は複雑であり、空腹と満腹の調整という一見単純に思えることに、実は脳と身体のさまざまな部分が関与する複雑なメカニズムがあるためだ。
減量を試みたことがある人なら、「甘いものを食べない」という簡単なルールを守るのがどれだけ難しいか、よく知っているだろう。意志も知識もあるのに、なぜかうまくいかない。不健康な生活習慣の問題を理解するための良い出発点は、期待の役割に注目することだ。
スタンフォード大学の気鋭の心理学者アリア・クラムは、食と健康と心理についての講義で聴衆を魅了する。彼女は、期待が満腹感にどう影響するか、さらには期待が食習慣にどんなプラスの影響を与えるかを研究している。
被験者に2種類のラベルを貼ったミルクセーキを飲ませた彼女の研究は大きな注目を集めた。被験者は空腹であることが前提であり、実験前に朝食をとってはいけないと指示されていた。1種類目のミルクセーキは「センシシェイク(『賢いドリンク』という意味)」と名づけられ、明るいパステル調のラベルにはいかに低カロリーであるかが書かれていた。
もう1種類のほうは「インダルジェンス(『免罪符』という意味)」と名づけられ、別の日に行われた実験で使用された。ラベルには「デカダンス(退廃)こそ甘美」というコピーとともにクリーミーで大きなデザートの写真があり、高カロリーであることを示す情報も載っていた。実は、この2種類はまったく同じ飲み物だった。
こうして被験者をだます目的は、栄養成分について異なる期待を抱かせ、それが被験者の心理学的、生理的反応にどんな影響を与えるかを見るためだ。実験の結果、ミルクセーキに含まれるカロリー量の認識が、飲んだ後の満腹感に影響を与えることが分かった。被験者は、高カロリーと表示されたミルクセーキを飲んだ後のほうが、期待感のせいで低カロリー表示のものより満腹感を覚え、高カロリー表示のほうが低カロリー表示のものよりもおいしいと感じていた。
低カロリーを強調すると満腹感が下がる
この研究で最も興味深いのは、2種類の表示の違いによって、グレリンと呼ばれる食欲を刺激するホルモンの反応が異なったことだ。人は空腹になると胃から血液中にグレリンの分泌が促進され、「おなかがすいたから食べよう」という信号を脳に送る。食事をして空腹が満たされるとグレリンの値が下がり、満腹感を覚える。
ミルクセーキ実験では、被験者が飲み物を摂取する前、摂取中、摂取後に、グレリンの値を測定した。飲んだのは同じカロリーのものだったが、被験者が「デカダンス」ラベルのミルクセーキを飲んだときのほうが、グレリン値は下がった。このように、食品のカロリーの高さを期待しただけで、低カロリーを期待するよりも生物学的により大きな満腹反応を示すことが明らかになった。
ニセ表示のミルクセーキ実験は、食欲と期待に関するいくつかの問いに答えてくれたが、同時に新しい疑問も湧く。「健康的な食事は、身体の反応に逆らうことなのか?」「健康的で低カロリーの食事をしようと努力すると、期待と食欲ホルモンであるグレリンに目的を阻まれてしまうのか?」「期待効果は、健康的な食生活や生活習慣に取り組もうとする人を妨害するのか?」
アリア・クラムと研究チームは、研究室の外の現実社会で、ヘルシーな食品に「デカダンス」ラベルを貼り、期待効果が人々の食習慣にプラスの影響を与えるかどうかを検証するという奇抜なアイデアを追跡研究として実施することにした。
リバースサイコロジーを活用する
米国のある大学から、秋学期の間、学生食堂のメニューに記載された野菜料理の説明を自由に変えていいという許可をもらった。そこで、メニューにある野菜料理に「低カロリー」または「やみつきのおいしさ」と表記し、約2万8000人の学生がどんな選択をするかを分析した。結果は「やみつきのおいしさ」を選ぶ学生が多かった。
しかも、少しだけ罪悪感を誘いそうなこのうたい文句にしたことで、食堂で出される野菜の総量は以前よりも増加した。つまり、食べ物の見せ方を少し工夫するだけで、学生たちは健康的な食事をするように変わったわけだ。
言い換えれば、研究者は一種のリバースサイコロジー(言われたことと反対の行為をしたくなる心理)を応用し、人々に不健康な食事をしていると思わせて、健康的な食事をするよう誘導したのである。何だか世の中の真理に背くような話だが、私たちが思っているほど人は合理的ではない。もし人々に健康的な食事をさせたいなら、何が健康的かを理性に訴えるよりも、不健康な食べ物に使う表現(例えば「禁断の味」)を使って、健康的な食べ物への欲求をつくり出す必要がある。
アリア・クラムによると私たちはメニューを見るとき、行間を読んでいるという。メニューにヘルシーと書かれていると、「それほどおいしくない」「おなかが満たされない」という印象を持ってしまう。健康的な食事が犠牲のうえに成り立っているとしたら、肥満と不健康が増加するのも無理はないだろう。
非論理的な話に聞こえるかもしれないが、こうした矛盾は人間がいかに複雑であり、健康促進の効果を予測することがいかに難しいかを物語っている。また、身体の機能の多くが非常に柔軟であり、痛みや肥満など現代社会が抱える健康上の大きな問題の背景に期待感があることは、とても興味深い。

カリン・イエンセン(著)、中村冬美(訳)、日経BP、1870円(税込み)