生成AIの進化により、マーケティングの戦術実行は急速に自動化されつつある。この変化への対応策として、積水ハウス イノベーション&コミュニケーションCMO兼CDDOの木田浩理氏は、「M字型戦略マーケター」という新たな人材像を提示する。従来理想とされてきた「T字型人材」との違いはどこにあるのか。M字型のマーケターを育成するには、どのようなステップを踏めばいいのか。新著『ザ・マーケティング・イシュー 10年後も必要とされる日本企業の課題と解決策』の内容を踏まえながら解説していただいた。[日経クロストレンド 2026年5月19日付の記事を転載]

木田浩理氏
画像のクリックで拡大表示
木田 浩理(きだ ひろまさ)氏
積水ハウス イノベーション&コミュニケーション
CMO(最高マーケティング責任者)兼CDDO(最高データ&デジタル責任者)

慶應義塾大学 修士(政策・メディア)。NTT東日本、日本IBM、アマゾンジャパンなどにおいて、営業、マーケティング、データサイエンス領域に従事し、大手損害保険会社CMO、一般社団法人金融データ活用推進協会理事、データサイエンティスト協会理事などを歴任。一般社団法人日本エビデンスベーストマーケティング研究機構 代表理事、上智大学大学院応用データサイエンス学位プログラム非常勤講師

周辺領域を自力で極める「T字型」の限界

これまでマーケターも含めたビジネスパーソンの理想像は、1つの深い専門性(縦棒)と幅広い周辺知識(横棒)を持つ「T字型人材」とされてきました。しかし木田さんは『ザ・マーケティング・イシュー』において、「このモデルを自力で維持しようとすることには、2つのリスクが伴う」と書かれています。まずはそのリスクについて、教えてください。

木田浩理氏(以下、木田) 一つは、習得コストの高騰と時間の欠乏です。マーケティングの専門領域はあまりに細分化され、かつ一つひとつの専門性が高度化しています。広告運用、CRM(顧客情報管理)、リサーチ、データ分析、UX(ユーザー体験)デザインなど、マーケティングに近い領域だけでも専門性は多岐にわたります。さらに財務や法務といった経営・管理領域まで視野に入れると、すべてを自力で極めようとするのは無理があります。

 もう一つは、「I字型(特定領域特化型)」にとどまることで、サイロ化が進みやすくなるリスクです。T字型の人材を目指そうとしても、習得すべき領域が広過ぎるため、結果として慣れ親しんだ自分の専門領域に意識が向きやすくなる。その結果、自分の担当範囲の改善にはつながっても、事業全体の利益への貢献という視点が持ちにくくなり、局所最適が生じる可能性があります。

 こうした状況を踏まえ、『ザ・マーケティング・イシュー』では、AI(人工知能)という外部脳を前提としたモデルへの移行が必要ではないか、という提案をしました。

 現状、多くのマーケティングの専門部署は、一領域を深く習得させる育成方法を採用しています。一つの専門領域を深めることは、プロフェッショナルとしての重要な基盤です。一方でAIの登場によって、基礎力を備え、各領域について一定の知識を身に付けておけば、細かな情報の探索や整理、実務上の補助はAIで補える時代になりつつあります。

AI時代に必要な「M字型戦略マーケター」とは

そこで提唱されたのが「M字型戦略マーケター」という新しい人材像ですね。

木田 はい。M字型戦略マーケターは、T字型を否定する概念ではなく、AI時代に合わせて進化させた現実解です。T字型との最大の違いは、専門性を深めるプロセスにおいて「AIという媒介」を前提としている点にあります。自分一人で何もかもを習得しようとするのではなく、AIを使って複数の専門領域の実務を回し、それらを事業戦略へと統合・翻訳する能力を重視します。これは、専門知と事業課題をつなぐビジネストランスレーター的な役割にも近いものです。

 本書ではマーケターに焦点を当てて説明していますが、M字型というコンセプトは、マーケターに限らず、様々な職種、例えば私のもう一つの専門領域であるデータサイエンティストにも当てはまると考えています。

「M字型」を構成する具体的な要素について教えてください。

木田 M字型戦略マーケターの「M」は、「Multi(多領域)」「Medium(媒介)」「Merge(融合)」という3つの要素からきています。イメージとしては、60点以上(中程度)の知識をマルチに保有し、媒介としてのAIを使いこなしながら複数の領域の知見を統合し、新しい価値を生み出していく人材です。

 詳細は本書で説明していますが、M字型人材において最も重要なのが、「Medium(媒介)」という概念です。これには中程度の知識(Medium Knowledge)と、道具あるいは媒介としてのAI(Medium AI)という2つの意味を持たせており、2つが合わさることで、強固な実務基盤が形成されると考えています。

 M字型の人材は、AIによって知識の壁を越え、自分の仕事が経営目標にどうつながるのかを常に考え、領域を越境していく姿勢を持っています。この「越境する力」も重要なキーワードです。

M字型のマーケターを育成するためのロードマップも公開されています。

木田 このロードマップは、翻訳スキルの対象を段階的に広げていくための道しるべのようなもので、5つのステップで構成されています。

 翻訳や越境といっても、同一部署の隣のチームから、経営層との接続まで、いろいろなレベルがあります。いきなり「経営視点を持とう」と言っても難しいので、自分たちが抱えている等身大の課題から入って、スモールサクセスを経験してもらいたい。その中で越境に必要な視野の広げ方を体感してもらいたい、というのがロードマップを作った狙いです。

図表3-3 5段階の育成ロードマップ例 全体像
画像のクリックで拡大表示

 ただし、こうしたロードマップは機械的に導入しても、機能するものではありません。まずは経営層や人事部門を含めて、マーケティング部門の役割は宣伝活動ではなく、事業を成長させる機能の一つという共通認識を形成することが必要です。

 一方、現場に対しては、一人でその分野をすべて抱え込まなければならない、という思い込みを和らげ、越境する文化を築いていくことが求められます。

育成を担当する管理職向けに、このロードマップのおすすめの使い方はありますか。

木田 各ステップを忠実になぞるよりも、自身の部署のボトルネックに応じて強弱を付けながら取り組むことをおすすめします。「マーケティング部署の各チームのサイロ化が課題」と認識しているのでしたら、ステップ1を厚くすべきですし、営業やカスタマーサポートといった他部門との断絶が大きい場合は、ステップ2に着手すべきです。育成の全体像が見通せるので、自社の育成対象者がどこで目詰まりを起こしているかを確認する手がかりとしても、お使いいただけると思います。

「育成方針なし」「個人任せ」のリスクは高まっている

マーケターの育成については、計画やコンテンツの整備が追い付かず、個人の自主学習に委ねている企業も少なくありません。AIの普及に伴って、どのように整備していくべきでしょうか。

木田 「個人任せ」のリスクは高まっていると思います。AIによって知識へのアクセスが容易になった分、共通言語や評価軸がない組織では、自己流のAI活用がバラバラに拡大再生産される可能性が極めて高いからです。

 組織として「共通概念」を明確に埋め込む必要があります。例えば「エビデンスベーストマーケティング」や「ファクトに基づいたデータマーケティング」といった、北極星のような指針が必要です。AIによって情報へのアクセスは容易になりましたが、共通の判断軸がなければ、結局は声の大きい人の経験則や従来の慣習が優先されてしまう可能性があります。それでは、AIの価値を十分に引き出せません。ファクトやエビデンスに基づいて議論する文化があって初めて、AIという強力なツールを正しく使いこなす土台ができます。

一方、AIがこれだけ進化すると、若手のスキル習得のスピードも劇的に速くなるのではないかと考えられますが、この点についてはいかがでしょうか。

木田 初期の立ち上がりは速くなるでしょう。知識へのアクセスは劇的に容易になっていて、業務に特化した知識も、AIである程度は補えます。未経験領域の構造理解や仮説の整理も速くなります。

 ただし、今後マーケティング部門やマーケターに必要とされる役割、つまり「つなぐ部署」「越境人材」としての在り方を考えると、自分の担当範囲だけ詳しければよいわけではありません。本書の第4章を担当された池田紀行(トライバルメディアハウス社長)さんが提唱している「売上の地図」のような構造が頭の中に描けていて、個々の業務がどの要素に効くのかを理解している必要があります。

 また、これは若手に限った話ではありません。中途入社者や他部門からの異動者にとっても、他部門との信頼形成や、会社に存在する文脈の理解には一定の時間がかかります。AIによって知識習得の初速は上げられても、組織内の信頼関係や暗黙知の理解は一朝一夕には身に付きません。こうした人間にしか担えない部分の育成は、より時間をかけて、重点的に行うべきだと思います。

木田氏
画像のクリックで拡大表示

本書の中では、M字型の人材育成プログラムを進めるには、経営層や人事部門とマーケティング部門の役割について再確認しておくことが必要とアドバイスされていました。うまく巻き込むためのコツはありますか。

木田 企業で新しい取り組みを進める際には、正しいことを説明するだけでは十分ではない場面があります。特に大きな組織では、まず小さな成果をつくり、「確かに効果がありそうだ」と周囲に認識してもらうことが重要です。その成果が他部門からも見える形になると、「他でもうまくいっているなら、自分たちも取り組んでみよう」という社会的証明が働き、組織内に広がりやすくなります。

 大きな組織では、スモールサクセスが一つ生まれると、それが周囲に伝播(でんぱ)していくという現象です。新しい取り組みを立ち上げたときには、まずどこか一つの部門でサクセスストーリーをつくってみる。そうすると自然に広がるだけでなく、上への報告ネタにもなります。部門長から経営層、経営会議へと階層を上がることで、個別の取り組みから組織としての取り組みへと位置付けられていく。このメカニズムを理解しているかどうかで、動き方が変わります。

 センスメイキング理論にも通じる話ですが、組織の文脈や意思決定の流れを理解し、その中で取り組みの意味付けを行っていくことが、大きな組織で変化を広げる上では有効だと思っています。

技術教育以上に重要な「判断力」と「倫理観」の磨き方

AI時代の人材育成における重要な要素として、「倫理観」や「判断力」を挙げています。知識として教えるだけでは身に付きにくい要素ですが、組織的に育成を行うにはどのように取り組めばいいのでしょうか。

木田 日々の実務の中で、「その判断は本当に適切か」を「問い続けること」を組織の文化として埋め込む必要があります。具体的には、3つのバランスを常に意識することが有効です。

 第1に、「短期の利益と長期の価値」のバランスです。目先の数字だけでなく、ブランドや事業が将来的に持つ価値を損なわない判断ができるか。第2に、「効率性と公正性」のバランスです。AIによる自動化で効率を追求する一方で、そのプロセスや結果が公平であるか、倫理的に問題がないか。第3に、「データ活用とプライバシー」のバランスです。利便性のためにデータを活用する際、顧客の信頼を裏切っていないか。

 組織文化という点では、現場メンバーがAIの出力に違和感を抱いた際に、それを口に出せる状況であることが大切です。そのために、管理職には心理的安全性が担保された環境を整えることが求められます。地道ではありますが、これは重要な仕事だと思います。

最後に、AIとの付き合い方についてお聞きします。AIのトレンドはDX(デジタルトランスフォーメーション)以上に流れが速く、情報量も膨大です。マーケターにおすすめしたいキャッチアップの方法はありますか。

木田 私自身、日々流れてくる情報や主要メディアには目を通していますが、全部を細かく追う必要はないと思っています。大切なのは、新しいモデルやサービスが出たときに、「自社のどのボトルネックにどう効きそうか」を想像しながら見ることです。

 マーケターにとって重要なのは、技術トレンドを追うこと自体を目的化しないことです。何ができるのかを漠然と捉えるのではなく、顧客理解、施策設計、分析、部門間連携といった具体的な業務を想定し、業務フローのどこに組み込めるかを考えることをおすすめします。

木田氏
画像のクリックで拡大表示

(写真/村田和聡)

日本のマーケティング界で活躍するエキスパート11人が、実務の最前線で避けては通れない「重大な課題(イシュー)」を明らかにし、その解決策を提示する。編著者は日本マーケティング学会の元会長で、ブランディングの研究の第一人者でもある中央大学名誉教授・東京大学講師の田中洋氏。

田中洋 編著/日経BP/3850円(税込み)