「ベンチャー企業の生態系がこの1冊で分かる」。ハードウエア・スタートアップのShiftall(シフトール)を率い、パナソニックの新規事業開発にも深く関わる岩佐琢磨氏が薦めるのは 『ゼロ・トゥ・ワン 君はゼロから何を生み出せるか』(ピーター・ティール、ブレイク・マスターズ著/関美和訳/NHK出版) 。この本で自分の考えや行動を裏付けることができ、勇気をもらったといいます。

理論と経験談のバランスのよさ

 学者の方が書かれているビジネス書はまるで教科書のように正論ばかりで、「言っていることは分かるけど……」と素直に受け取りがたいものを感じることがあります。一方、起業家の方が書かれたものは、「自分はこうやってうまくいった」という成功体験に終始している自伝のような本が少なくありません。その点、『ゼロ・トゥ・ワン』はその中間のバランスをうまく突いているところがいいですね。

 学術的な視点もありつつ、起業の実践的なノウハウも解説されているところがこの本の優れている部分だと思いますし、僕が気に入っている最大の理由です。その印象を一言で表すなら「地に足が着いている」。起業家として成功を収めた著者が、方法論や具体的手法についてしっかりと語っているところがよかったですね。

 国内の方が同じような視点で書かれた本もありますが、『ゼロ・トゥ・ワン』はシリコンバレーで実績を上げたピーター・ティールが執筆を手掛けているところもポイントの一つです。インターネットを利用した決済サービスの先駆けともいえるペイパルを起業した伝説の人ですから。

 この本については、アメリカで出版された当時から注目していたのですが、英語だとどうしても読むのに時間がかかるので、忙しいときはなかなか手が着けられません。なので、邦訳が出たときに、すぐに飛びつきました。

『ゼロ・トゥ・ワン』はシリコンバレーの著名な起業家、ピーター・ティールが共同執筆者
『ゼロ・トゥ・ワン』はシリコンバレーの著名な起業家、ピーター・ティールが共同執筆者
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 邦訳が刊行されたのは2014年9月。僕が創業したCerevo(セレボ)は、2013年までは10人程度の社員数だったのが、この年に大きく資金調達をして社員を一気に増やし、60人くらいの規模になりました。10月の終わりには、秋葉原にできたばかりだったコワーキングスペース「DMM.make AKIBA」内にオフィスを移転したのですが、この本を読んだのはちょうどその前後くらいでした。

 僕は、悩んでいるときには本を読まないんです。読むのは「アクセルを踏んでいくぞ」と考えているときですね。この本を読んだときがちょうどそのタイミングでした。ちなみに、今もちょうどそのタイミングで、メタバース(仮想空間)とVR(仮想現実)という事業の柱が立ち、「ここから一気に攻めるぞ」と意気込んで戦闘モードに入っています。だから最近は読書量が増えていますね。

本書に背中を押してもらった

 この本は、新しく何かを生み出す会社を立ち上げるにはどうすればいいか、というテーマで、スタンフォード大学で行われた講義をもとにしたものです。僕は、まさにここに書かれている通り、何か新しいことをゼロから生み出す仕事をしたいと思っていましたし、それが得意であるという自信もありました。

 実際に2014年以降、セレボはまったく新しい商品をいくつか生み出していくことになるのですが、そういった会社のあるべき姿を、起業の世界でゴリゴリにやってきた人はどう見ているのか、どう考えているのかをこの本から知ることができました。

「『ゼロ・トゥ・ワン』に書かれている通り、何か新しいことをゼロから生み出す仕事をしたいと思っていました」と語る岩佐琢磨さん
「『ゼロ・トゥ・ワン』に書かれている通り、何か新しいことをゼロから生み出す仕事をしたいと思っていました」と語る岩佐琢磨さん
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 特に参考になったのは、資金を出すベンチャーキャピタル(VC)の側がどう考えていて、投資を受ける側の事業者はどういう心構えでいればいいのかというマインドセットや、将来を見据えた目標設定の部分ですね。

 僕もVCから資金を調達し、それをもとに事業を展開していましたから、この本で分からないことを調べるというよりも、半分は「その通りだよね」という感じで、自分の考えや行動、決断の裏付けを取るような意識で読んでいました。

 ただし、一口にベンチャーやスタートアップといっても、日本とアメリカでは事業の規模感が大きく違いますし、起業家が100人いれば100通りのやり方があるのは当然です。この本でダメと書かれていることが、必ずしも自分に当てはまるかどうかは分かりません。僕はこの本でトップクラスの成功例を知って、自分の立ち位置を確認しました。そして、やっていることが間違っていないという安心感や前に進むための勇気が得られたんですね。

ベンチャーの生態系が分かる

 先にも触れましたが、この本が優れているのは、著者の体験だけではなく、投資家、企業、起業家の関係性などとともに新規事業の在り方を体系立てて説明しているところです。僕にとっては答え合わせだった部分も、多くの人にとってはまだまだ知らない世界だったりするでしょう。いろんな立場の人にとって役立ち、気づきが得られる本ではないでしょうか。

「自分の考えや行動、決断の裏付けを取るような意識で読んでいました」
「自分の考えや行動、決断の裏付けを取るような意識で読んでいました」
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 起業がテーマの本でいうと、『起業のファイナンス ベンチャーにとって一番大切なこと 増補改訂版』(磯崎哲也著/日本実業出版社)も非常によい本です。例えば、友人が起業すると言い出したときに本をプレゼントするなら、絶対に『起業のファイナンス』を選びます。

 この本は書名の通り、資金をどう調達するか、資本をいかに成長させるかという方法論に特化していて、まさに起業をする人に向けた本です。『ゼロ・トゥ・ワン』は、それよりももっと幅広く、起業家や投資家とはどんな人たちで、どのような考えを持って事業を進めているのかといった全体像を知ることができます。いうなれば、「ベンチャー企業の生態系がこの1冊で分かる」本ですね。

 だからといって、具体的なアドバイスがないかというと、そんなことはありません。「CEOの給料は15万ドルを超えてはいけない」とか「取締役の数は3人が理想的」とか、著者の経験に基づく細かい忠告も入っているのが面白いところです。冒頭でも述べましたが、バランスがうまく取れている本ですね。

取材・文/稲垣宗彦 構成/山田剛良(日経BP 技術メディアユニット クロスメディア編集部) 写真/加藤 康