「これがメタバースだ、と言える理想形が描かれた作品です」。ハードウエア・スタートアップのShiftall(シフトール)を率い、パナソニックの新規事業開発にも深く関わる岩佐琢磨さんがお薦めするのは、スティーブン・スピルバーグのSF映画『レディ・プレイヤー1』の原作、『 ゲームウォーズ(上)(下) 』(アーネスト・クライン著/池田真紀子訳/SB文庫)。本書から読み取れるメタバースのあるべき姿を語ります。
メタバースの理想形を表現
欧米や日本の漫画やアニメ、特撮、ディープなSFなどのポップカルチャーがこれでもか、と詰め込まれたスティーブン・スピルバーグのSF映画『レディ・プレイヤー1』。アーネスト・クラインの『ゲームウォーズ』はその原作小説です。
作品の舞台となるのは近未来の2045年です。環境汚染や気候変動などで荒廃していた世の中で、その現実から逃避するように世界的に多くの人々が夢中になっているのが、メタバース世界「OASIS」です。その創始者であるジェームズ・ハリデーが死後に遺したビデオメッセージには、OASIS内のどこかに隠された「イースターエッグ」を最初に見つけた者に、すべての遺産を譲るという彼の遺言がありました。
OASIS内では「パーシヴァル」と名乗る主人公、ウェイド・オーウェン・ワッツはそのイースターエッグ探しに夢中になっている一人。友人である「エイチ」やミステリアスなヒロイン「アルテミス」らと共に、遺されたハリデーのエピソードを再検証し、そこに隠されたヒントをもとにイースターエッグの謎を解き明かしていきます。
本としてこの作品をお薦めしていますが、ぜひ映画も見てください。小説と映画では違っている点も結構ありますが、どちらもエンターテインメント作品として非常によくできています。しかし、この本を取り上げた理由はそこではなく、今話題となっているメタバースという概念が示す、一つの理想形がここで描かれているところにあります。「これがメタバースだ」と言えるものがしっかりと表現されているのです。

仮想空間の描き方で優れている点
作中に登場するOASISのなかで、人々は「アバター」と呼ばれる現実とは違う姿をしたキャラクターとなり、さまざまなゲームに興じたりするだけでなく、ユーザー同士の友情をはぐくんだり、恋愛を体験したりしています。現実世界にある人間としての営みが、ほぼすべて、より制約のない形で繰り広げられているのです。
現在のインターネットでは、一般のユーザーが、さまざまなサービスを利用してお金を稼ぐことが可能になっています。OASISのなかでも、ゲームなどを通じてユーザーがお金を稼ぐことができ、そこで稼いだお金は現実世界での買い物などにも利用が可能です。
現実の経済活動とOASISのなかでの経済活動が完全にリンクしていて、OASISでお金を稼ぐことは現実世界でお金を稼ぐことと同義です。むしろOASISのなかで稼ぐ方がより重視されていて、現実世界のお金をOASISのなかで溶かし込んでいったりする人まで描かれています。
この現実の経済活動が仮想空間とリンクしている点が重要です。『ゲームウォーズ』では、OASISの存在とそこでの活動が持つ価値を世界中の人たちが認めていて、それを巡って、現実世界で人の命に関わるような争いまで起きています。生臭い部分も含め、こうした表現にこそ、僕は「これがメタバースだ」と感じさせられます。
1990年代前半のインターネットと同じ
前述のように、今はインターネットで一般ユーザーがお金を稼いだり、公開した動画で世界中に名前が知られたりするといったことが珍しくなくなっています。しかし、1990年代前半、インターネットの黎明(れいめい)期に、「これからはインターネットで、個人がヘタすると億単位のお金を稼ぐ時代が来るんですよ」と言ったところで、ごく一部を除けば信じる人なんていなかったでしょう。
僕は今のメタバースは、1990年代前半のインターネットと同じような状況にあると思っています。今後、いつになるかは分かりませんが、技術が発展し、メタバースが広く知れわたって多くの人が参加し、そこに現実世界とリンクした経済までもが包含される時代が来ると考えます。ただ、多くの人はまだ信じられない状態でしょう。
そういった来るべきメタバースのイメージが理解できない人が『ゲームウォーズ』を読んだり『レディ・プレイヤー1』を見たりすると、「確かにこれはあり得るかもしれない」と感じるに違いありません。つまり、それだけこれらの作品が、“現実としてあり得る未来の一つ”と“完全なフィクション”の間の絶妙なところをうまく突き、巧みに描いていると思います。

“もう一つの世界”で幸せになれる
『ゲームウォーズ』の主人公ウェイドは恵まれない家庭に生まれた青年で、なかば現実逃避のような形でOASISでの「イースターエッグ」探しに熱中し、最初の功績を上げた瞬間に、世界中の全ユーザーから注目を浴びる存在になっていきます。
OASISのようなメタバース世界はいまだ実現できていませんが、現実世界でうまくいっていなくてインターネットの世界の方を重要だと捉えている人、インターネットのなかの方がより輝いている人は今でもいますよね。そういった境遇にある人は、インターネットで表現できることが増えれば増えるほど、活躍の場や手段が多彩になり、より生き生きとしていくと思うんです。
インターネットの登場以前、パソコン通信の時代におけるコミュニケーションは、サービスやサーバーごとにユーザーが分断され、文字だけのコミュニケーションでした。それが、インターネットになって垣根がなくなり、今では音声や動画で世界中に向けて自己表現が可能になりました。本当に有名になったりお金を稼げたりする人はごく一部ですが、「そこそこ有名」といったレベルになるのはだいぶ簡単になりました。
そう考えると、やっぱり表現の幅は大事です。インターネットの登場で広がった表現方法が、メタバースでさらに広がると僕は思っています。ウェブとブラウザーのなか、2次元だった表現が、メタバースでは3次元となり、ボディートラッキングによって身体の動きまでもそこに投影できるようになれば、より多くの可能性が生まれるはずです。
また、バーチャルな世界では、現実世界にある制約から解放される部分も少なくありません。例えば、現実世界では右利きの人が多数を占めるため、駅の自動改札のような施設やハサミなどの道具も、多くは右利きの人にとって使いやすいようにできています。メタバースでは、初めからそういった身体的な制限を受けにくい世界をつくり出すことができます。

身体的な話に限りません。「より住みやすいところに引っ越しをする」ことは現実世界では結構大変ですが、自分にとって「より住みやすいもう一つのバーチャルな世界」を持つというのは決して悪いことではないと思います。
「リア充」「ネト充」といった言葉がありますが、その比重はどうであれ、充実している、幸せだと感じられる人が増えれば犯罪も減るでしょうし、経済も上向くでしょう。100人のうち25人が幸せではないと感じていたとして、その25人のうち何人かが「もう一つの世界」を持つことで幸せになれるなら、それは悪いことではないと僕は考えます。メタバースにはそうした可能性があると思うんですよね。
取材・文/稲垣宗彦 構成/山田剛良(日経BP 技術メディアユニット クロスメディア編集部) 写真/加藤康