少子化が急速に進んでおり、2022年の出生数は80万人を割りました。そうしたなかで、「人口が減っても、豊かに暮らせる社会を構築すればよい」という議論がありますが、本当に可能なのでしょうか。少子化や人口減少の問題に詳しい日本総合研究所の藤波匠さんが、架空の対談形式で解説します。書籍『 なぜ少子化は止められないのか 』(日経プレミアシリーズ)から抜粋、再構成。

日本総合研究所の応接室。某新聞社論説委員の斎藤と、日本総合研究所の上席主任研究員、藤波が話をしている。藤波は、これまでも少子化に限らず様々なテーマでたびたび斎藤の取材を受けており、旧知の仲。斎藤も、論説委員として社説のテーマに幾度も少子化を取り上げており、知識は十分だ。

金銭的なゆとりがないことで少子化に

藤波 「少子化対策は今さら手遅れ」という人が必ず続ける言葉があります。

斎藤 ああ、なんとなく分かりますよ。それは「人口が減っても、豊かに暮らせる社会を構築する方向に政策の軸足を向けるべき」という感じですね。

藤波 その通りです。私は、「豊かに暮らせる社会」を目指すことは大賛成ですが、その前の「人口が減っても」が気になります。本当に人口が減り続ける中で、豊かさを維持することが可能なのかという極めてシンプルな疑問なんです。

 そもそも論なんですけれど、ここでいう「豊かに暮らす」には、経済的な豊かさだけでなく、心の豊かさや時間的なゆとり、好きな場所で好きなことをして暮らすというような、多くの意味を含んでいると考えられますよね。ここには、GDP(国内総生産)では計測できない人と人のつながりとか、足るを知ることで得られる心の満足というものも含まれているわけです。

 私の名刺にはエコノミストと書かれていますが、こうした考え方を否定する気はありませんし、決してGDPが高ければ幸せとも思ってはいないんです。日本には、GDPにカウントできないすばらしい価値があることは理解しているつもりです。先祖から受け継いできた多様な文化や美しい景観、国民の公共意識の高さや勤勉さなどです。

 ただ、それらがあれば十分だと思っているわけではありません。目の前に、長期にわたる低成長の結果生じた経済的な二極化があり、特に若い世代では、低賃金や不安定な経済環境に甘んじている人たちが多くなっています。

 また、今さら経済成長なんて、という人だって、国民の豊かさって、ある程度の金銭的なゆとりや、最低限の経済的自立というようなものの上に立脚するという考えには同意してくれるんじゃないかな。若い人たちがそうした金銭的なゆとりが得られないから、出生意欲が低下し、少子化になっているわけです。

斎藤 人口が減る状況下では、経済を大きくすることが難しいため、若い人たちへのしわ寄せがますます大きくなるということですね。

国民の豊かさはある程度の金銭的なゆとりの上に成り立っている(写真/Shutterstock)
国民の豊かさはある程度の金銭的なゆとりの上に成り立っている(写真/Shutterstock)
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藤波 基本的考え方はそういうことなんです。連載第3回 「少子化 移民の賛否以前にそもそも外国人が来てくれるのか」 でも触れましたが、豊かさを気持ちの問題だけにせず、ある程度の経済的裏づけのもと、「人口が減っても豊かに暮らす」ことができる社会を構築するためには、確固たるアダプテーション戦略が必要だと思います。アダプテーションとは、適応や順応、影響緩和という意味で、ここではある程度の人口減少でも豊かに暮らすための戦略という意味合いで使っています。今後、出生数が多少回復したとしても、大きな流れとして人口減少は避けられないため、少子化対策の成否にかかわらずアダプテーション戦略は不可欠となります。

 ただ、アダプテーション戦略として、デジタル・トランスフォーメーション(DX)の推進や、街をコンパクトにして効率的なまちづくりを目指すコンパクトシティ、移民などが考えられますが、結局、経済成長を不可欠とするようなことが結構あって、「人口が減っても豊かに暮らす」というのは、極めてナローパス(細い道)です。個人個人が所得が低くても心豊かに暮らしていくというのと、国全体の豊かさとは、次元が異なると考えるべきではないでしょうか。

心豊かに暮らすために経済成長は不可欠

斎藤 いや実は、40代のころ、子育てから手が離れた後には、富山の実家に帰って自給自足的な暮らしもいいなと考えたことがあったんですよ。まあ、だれしも一度くらいはそうした気持ちになることってあるじゃないですか。妻にそれとなくいってみたら、1人で行ってといわれたけれどね。こうしたことは、個人的な心豊かな暮らしであって、国の豊かさとは異なるということですね。

藤波 まあ、そういうことです。斎藤さんの実家がどんなところか知らないのでなんともいえないんですけれど、例えば日本海側の特に富山辺りに多い散居村(*1)だったら、広大な田んぼの真ん中で年老いた斎藤さんが暮らし続けるために、様々なサービスや公共投資が必要となります。一番分かりやすいのが道路ですね。最寄りの幹線道路から斎藤さんの家までの道路を斎藤さんしか使わないとしても、行政が維持し続けるわけです。その公共投資は、結局だれかが生み出した富でまかなわれるわけですよ。その多くは、おそらく回り回って若い世代が負担していることになります。

 だからといって地方に帰っちゃいかんとかいうつもりは毛頭なく、個人個人が自らの求める豊かさを目指して行動することは自由だと思うんですけれど、国全体としては、やはり金銭的な面でも豊かになっていくことが必要だといいたいんです。年配者も若い世代も、一人ひとりが心豊かに、将来に対して不安なく暮らすためにも、一定の経済成長が不可欠だと思います。

 今どきかっこう悪いのでいいたくはないんですけれど、経済成長は七難隠すんです。いろいろな問題があっても、経済成長しているうちは、なんとか回していけるんです。

 斎藤さんは、中国共産党が、なんであれほど自国の経済成長率を重要視していたかは、お分かりですよね。

*1 散居村とは、主に富山県の砺波平野などでみられる居住形態。複数の家が集まって集落をつくるのではなく、1軒1軒が一定の距離を保ち屋敷林に囲まれた家を建て、家の周りの田畑を耕作するスタイル。新田開発の効率性の観点から、このような居住形態となったとされる。散村とも。

斎藤 ええ、つい最近まで、成長率が6%を下回ると、豊かさから取り残された国民が不満を募らせ、その矛先が共産党に向くため、共産党の一党支配が維持できなくなるという考えがあったからです。一定の経済成長が実現されているうちは、体制や人権などに多少の不満があっても暴動にはならないということですね。

低成長のツケを押し付けられた若い世代

藤波 日本は中国とは違うから、6%などという高い成長率の目標値を設定する必要はないし、バブル時代のような「熱狂」が必要だとも思っていません。厳密にいえば、生産性を高めて、賃金を引き上げていくということです。特に、生産性の低い産業や企業が、より高い賃金を支払っていけるようにすることは不可欠です。ただ、生産性の低い企業だけを成長させることは現実的ではないので、国全体の経済成長が必要というような表現をしているんです。

 経済成長して富が生み出されるから相互扶助ができるし、公共投資もできるわけです。生まれてこの方、経済成長期を知らない若者も増えましたけれど、バブル世代の私よりも年配の人で、もし「もう経済成長なんかいらないでしょ」とか、「心豊かに暮らしていければ十分」などという人がいたら、怒鳴りつけてやりたいですよ。「あんたはもう十分かもしれないけれど、過去30年の低成長のツケを若い世代に押し付けてきたということを少しは理解しろ」とね。

若い世代は、過去30年の低成長のツケを押し付けられてきた(写真/Shutterstock)
若い世代は、過去30年の低成長のツケを押し付けられてきた(写真/Shutterstock)
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 若い人たちが、自給自足で生きていきたいとか、心の満足度を追い求める暮らし方を模索するのとは、意味が違うんですよ。すでに高齢者となっている方やこれから高齢者となる私たちは、この30年間、ある意味若い人たちの犠牲の上に豊かさを維持し続け、これからも彼らが生み出した余剰によって生きていくわけです。

 年配者は、そうしたことを理解し、残された時間を、若い人たちが将来に希望を持てる社会を築いていくのに使うことが必要なのではないでしょうか。

日経プレミアシリーズ
なぜ少子化は止められないのか
なぜ少子化は止まらないのか。どのような手を打てばよいのか。若者の意識の変化や経済環境の悪化、現金給付の効果など、人口問題の専門家が様々なデータを基に分析、会話形式で分かりやすく解説します。

藤波匠著/日本経済新聞出版/990円(税込み)