栃木県内で3つのゴルフ場を経営する鹿沼グループ(栃木県鹿沼市)。福島範治社長が、その苦難と再生の道のりを著した新刊書籍『負債1400億円を背負った男の逆転人生』を基に、特につらかった出来事を赤裸々に記す短期集中連載。企業再生の要点、後継者としての心の持ち方、古参幹部との接し方などを学ぶ。その第1回。

 「バブルとともに隆盛を極めた企業集団」「栃木新聞社の経営にも乗り出し、政界にまで影響力を持つといわれた異色の企業グループ」。後に民事再生法を申し立てたとき、地元の「下野新聞」にそう形容された。父が経営する鹿沼グループはバブル経済のピーク時、売り上げは100億円に達していた。

 父は名誉欲と事業欲からさまざまな業態に手を出し、アスレチッククラブ、新聞社、六本木のレストラン、タイのコーヒー農園と30近い関連会社を所有し、美術品の収集にも目がなかった。不動産も買いあさった。

1992年の鹿沼グループの会社パンフレット。栃木県内にはゴルフ場だけでなく、栃木新聞社や鹿沼自然盆栽公園も保有。東京都内で会員制倶楽部も運営していた。海外展開も積極的で、タイではコーヒー農園、貿易会社、旅行会社を経営していた
1992年の鹿沼グループの会社パンフレット。栃木県内にはゴルフ場だけでなく、栃木新聞社や鹿沼自然盆栽公園も保有。東京都内で会員制倶楽部も運営していた。海外展開も積極的で、タイではコーヒー農園、貿易会社、旅行会社を経営していた

 しかし、バブルがはじけるのと同時に会社は傾いていく。収入は激減し、ゴルフ会員権も売れない。本社の給与支払いは1994年頃から遅延し、税金の滞納が始まり、銀行の元本はもちろん、利払いすらできない状態に追い込まれた。

 関連会社の閉鎖や事業の切り離しなど、さまざまな手は打ったがダウントレンドは止められず、父は悩んでいた。そして母と私がいる東京の自宅で倒れた。97年の年末のことだ。

 私は父の実子だが、父と母は籍が入っていない。私は大学時代にそれを知った。出生のことや母が置かれている立場を考えても、自分が父の後を継ぐことはないと考えていた。小学生のときからラグビーに熱中し、大学卒業後は第一勧業銀行(現みずほ銀行)で懸命に働き、頭取表彰を3回受けた。

 バンカーとして組織や社会に必要とされる人間になる。当時27歳の私はそう覚悟を決めていた。しかし父が倒れてから間もなくして、足利銀行から一本の電話がかかってきた。足銀はメインバンクとして、鹿沼グループにおよそ350億円を融資していた。

 「後継者不在では、メイン銀行としてこれ以上支援ができない」と担当者は言った。鹿沼グループは経営危機にある。そんななか、経営者が倒れた。社内をまとめられる人はいない。「だからあなたに、後継者として来てほしい」ということだった。

 散々迷った末、私は鹿沼に入社することを決断する。98年12月、銀行マンとしてお金を貸す立場から、巨額の負債を抱える側へと大きく立場が変わった。しかし入社してからしばらくは、その決断を後悔する場面が幾度もあった。

給与遅配が常態化

 入社日に総務・経理担当の専務のところへ行くと「鹿沼カントリー倶楽部経営企画室課長」という肩書の辞令と給与の説明があった。転職前、足銀には「せめて銀行員時代と同じ月額給与にしてほしい」と依頼していた。実際、給与はその通りの金額になっていた。銀行ではヒラ社員だったが、鹿沼グループでは課長級の給与水準に当たるという。中小企業と大企業の差を肌身で知った。

 衝撃的だったのはこの後だ。専務から「給与の支払いはずっと遅れているからね」と言われた。「えっ」と聞き返すと「聞いていないの?」と返された。聞いていたら転職しないよ、という言葉が喉まで出かかった。

 当時本社を置いていた東京・京橋のビルには100人以上の社員がいた。各部署に挨拶をして回ったが、誰が誰だか分からない。せっせと名刺は交換したが、常に違和感があった。当時正社員382人に対して、役員はなんと56人もいたし、みんな新聞や雑誌を読んでいた。経営の危機にあるという雰囲気は皆無で、緩慢な空気が会社全体を支配していた。

 自分たちのせいではない。すべては社長のせいだ。その社長の息子が来たところで何ができるのだ。そう思っていたのだろう。足銀の手先だと思った役員も多かったはずだ。身内ではなく完全に外様、アウトサイダーだった。

 正直、もっと歓迎されると思っていた。自分だって、意を決して銀行を辞めてきたのだ。「よく来てくれましたね」くらい言ってくれてもいいのではないか。そんな思いが沸々と湧いたが、再生のために新設された経営企画室は、私のほか、足銀などからの出向者で構成する部外者集団であり、社員からは色眼鏡で見られていた。

ゴルフ漫画の金字塔とされる『風の大地』の舞台になった鹿沼カントリー倶楽部(写真=天神木 健一郎)
ゴルフ漫画の金字塔とされる『風の大地』の舞台になった鹿沼カントリー倶楽部(写真=天神木 健一郎)

腹違いのきょうだい

 入社後に、会社の実態を知るにつけ、私はこう思うようになった。「普通の企業にならなくてはいけない」。鹿沼グループは「普通」とは程遠かった。豪放磊落で、ワンマン経営者だった父が興した会社は組織の体を成していなかった。役員には親戚が多く名を連ね、全役員の印鑑は父が保管して、すべてを独裁していた。

 しかし、後継者としてのそんな熱意に冷や水を浴びせるような出来事がいくつも襲いかかる。入社してしばらく後、足銀から出向していた経営企画室長は「(経営企画室の)4人の間で隠し事はなしにしましょう」と言った。実際、銀行に提出する報告資料なども私に閲覧させてくれた。私の家系図も全員に共有された。

 そのとき初めて、私に母親が違う弟がいることを知った。一瞬、目の前が真っ暗になった。5歳上の腹違いの兄がいることは知っていた。兄の存在を知ったのは、父が脳梗塞で倒れて入院した病院でのことだった。鹿沼グループの関係者に連れられてその兄が病院にやってきた。母が対応したのだが、当然「あなたは誰ですか」というやり取りになったと聞いた。

 私が病室に着いたときには兄は既に帰っていて、母が父を詰問していた。父は泣きながら「おまえたちと一緒になる前の家族なんだ」などと説明していた。母は以前から薄々勘づいていたようだが、私は何も知らなかった。

 とはいえ私も30歳近かったので、努めて平静を保とうとした。兄は私より年上だし、母と知り合う前にいろいろあったのだろうと余裕ぶった気持ちでいた。しかし、まさか腹違いの弟もいたとは……。

 何より驚いたのは、その人の誕生日だ。私の1つ下、つまり1971年だったのである。「おまえたちと一緒になる前の家族」ではなく、「同時並行の家族」だったということか。父に騙された……。強い憤りを感じた。

 「これは何なんですか!」。怒りに任せてそうぶちまけて会社を出た。行くあてもないので1人映画館に入り、トム・ハンクス主演の『プライベート・ライアン』を観た。血なまぐさい映画で、さらに鬱屈とした気分になった。

 私には知らないことがあまりに多かった。ちなみにこの15年後、私には腹違いの5歳下の妹がいることも判明する。

 次から次へと明らかになる創業ファミリーと鹿沼グループの実態。私は日本経済新聞日曜版の求人欄を見るのが習慣になった。「銀行出身35歳以下募集」という見出しを見ると、心が動いた。

福島範治(ふくしま・のりはる)
福島範治(ふくしま・のりはる)
1970年東京都生まれ。93年青山学院大学経営学部卒業後、第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。98年、父親が社長を務める鹿沼カントリー倶楽部に入社。経営企画室課長を経て、99年代表取締役副社長。足利銀行の一時国有化を受け、2004年民事再生法の適用を申請。代表取締役を退任し、執行役員副社長に。スポンサーを入れずに自力再生を成し遂げ、08年代表取締役社長に就任。鹿沼グループ代表として栃木県内で3つのゴルフ場を運営する(写真=鹿沼グループ提供)

日経ビジネス電子版 2025年3月4日付の記事を転載/「日経トップリーダー」2025年3月号の記事を基に構成]

ゴルフ漫画の金字塔「風の大地」の舞台で起きた胸熱企業ドラマ! 債権者4万人以上。栃木県最大の負債額1400億円を抱えて経営破綻した鹿沼グループは、老舗ゴルフ場の鹿沼カントリー倶楽部などを経営するほか、「栃木新聞社」の経営にも乗り出し、バブルとともに隆盛を極めた企業集団だった。メインバンクの足利銀行が連れてきた非嫡出子の元銀行マンの後継者は組織力・財務力・事業力・精神力をどう再生したのか。

福島範治著/日経BP/1870円(税込み)
創刊55年を超える日経ビジネスでおそらく史上初となるゴルフコンペを開催します。1日目は経営者向けのセミナーと交流会。2日目にコンペを実施します。場所は栃木県鹿沼市の鹿沼カントリー倶楽部。名作ゴルフ漫画「風の大地」の舞台になったゴルフコースです。特別ゲストとして日経ビジネスで「チップス」を好評連載中の作家・真山仁氏が登壇します。

【講師紹介】
真山 仁 氏(作家)
1962年大阪府生まれ。 87年に同志社大学を卒業し、中部読売新聞に入社。89年に退職し、フリーライターを経て、2004年に『ハゲタカ』( ダイヤモンド社) でデビュー。近著は『タングル』(小学館) 。現在「日経ビジネス」で、米中の覇権争いで揺れる台湾、そして日本や世界の半導体産業の行方に焦点を当てたハゲタカシリーズ最新作「チップス」を連載中。
福島 範治 氏(鹿沼グループ 代表取締役社長)
1970年東京都生まれ。93年青山学院大学卒業後、第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。98年、父親が社長を務める鹿沼カントリー倶楽部に入社。99年副社長。足利銀行の一時国有化を受け、2004年民事再生法の適用を申請。代表取締役を退任し、執行役員副社長に。スポンサーを入れずに自力再生を成し遂げ、08年代表取締役社長に就任。

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