栃木県内で3つのゴルフ場を経営する鹿沼グループ(栃木県鹿沼市)。福島範治社長が、その苦難と再生の道のりを著した新刊書籍『負債1400億円を背負った男の逆転人生』を基に、特につらかった出来事を赤裸々に記す短期集中連載。企業再生の要点、後継者としての心の持ち方、古参幹部との接し方などを学ぶ。その第3回。
1999年の副社長就任から4年ほどして、かすかな光が見えてきた。以前は給与の遅配が当たり前だったが、支給日に遅延なく払えるようになり、私自身も「今月の生活費はどうしよう……」と悩むことがなくなった。さらにうれしかったのは、メインバンクの足利銀行とサブバンクに返済を再開できるようになったことだ。
一方、外部環境は厳しさを増していた。気がかりなのは足利銀行の経営状況だった。2003年5月、足利銀行は2期連続赤字決算になったことを発表。その後、金融庁の業務改善命令を受け、長期に及ぶ金融庁検査が入った。
私は、以前から「危機管理リスト」を作成していた。絶対に会社を守るという覚悟を形にするために「父が死んでしまったら」「社員が大量に辞めてしまったら」「完全にキャッシュアウトしたら」など、あらゆる危機に対応するシミュレーションを書き出していた。その中に「足利銀行の支援がなくなってしまったら」という想定もした。それが現実になった。
同年11月29日、ついに足利銀行の一時国有化が発表され、栃木県内に激震が走った。私も体が硬直した。すぐさま同行本店に向かった。融資担当部長が応対してくれ、「こんなことになってしまって申し訳ない」と頭を下げられた。必死で闘ってきたにもかかわらず、抗(あらが)うことのできない金融庁の決定に対する悔しさが伝わってきた。
我々こそ、申し訳ないと思った。一蓮托生という言葉が適当かどうかは分からないが、いつ潰れてもおかしくない会社を長く支援してくれた。足利銀行の担当行員との面談では、いつも「地域のためですから」という言葉をもらった。いつか自分たちが地域のために恩返しするのだと心に誓った。
借金を返済し続けても、メインバンクの行く末が分からない中では、言葉は悪いが捨て金になりかねない。加えて、足利銀行の行内では早晩、「残す企業」と「捨てる企業」の選別が始まるだろう。「鹿沼グループは捨てる」となれば、これまでの努力が水の泡になる。その前に打って出るほかない。当時、不採算事業を手放し、経費削減にも努め、20%以上の営業利益が上がるようになったが、巨額負債の抜本的な解決策も必要だった。
父に自己破産を迫る
覚悟を決め、民事再生法の適用を申請することにした。弁護士や会計士とチームを編成し、Xデーを04年3月31日に決めた。再生計画資料の準備など、やるべきことは山積みだった。山場の1つが父の自己破産申請である。
この頃、父はほとんど会社に行かなくなっていた。マンションで私の妻子や母と同居し、車椅子生活を送っていた。父とは毎日顔を合わせていたが、会話はなかった。一緒に暮らし始めた当初は、私が帰宅すると「今日はどうだった?」「お客さん、いっぱい入ったか?」などと聞いてきたが、資金繰りについて父が勝手に経理部長に指示するので、私が感情的になったりして次第に距離が空いた。
父が現役だったときには自宅にほとんどいなかったが、晩年、車椅子生活の父と一緒に暮らすことになるとは不思議なものだ。家にいてほしいときにはおらず、いてほしくないときには父がいる。会社に入り、父の実像や会社の内情を知り、父に対して怒りの感情や不満を抱くようにもなった。「誰のせいで苦労していると思っているんだ」。声には出さずとも、心の中でそう毒づいていた。
父との関係性が思わしくない中、いよいよその日が来た。車椅子の父の横に座った。「足利銀行の一時国有化を受け、会社を残すために民事再生を申し立てることにした。経営責任を取る必要があるので、社長を辞任してほしい」。ストレートにそう伝えた。
父は頬づえをつき、目をつぶっていた。畳みかけるように、最も言いにくかったことを伝えた。「経営者として責任を果たすために、自己破産をしてほしい」。すると父は「うん」とだけ言って、委任状にサインしてくれた。
私はそれまで、自分こそが経営の厳しい状況を切り盛りしていると思っていたが、それは勘違いだとその瞬間気づいた。私が1歳くらいのとき、住んでいたアパートの階段で撮った写真がある。幼い私が笑顔の父に抱っこされている。この写真と同じだ。5年間、私は父の懐で経営をさせてもらっていたのだ。事実、父がいなくなった後、私は経営者の責任の重さを思い知ることになる。

こうして3月31日のXデーを迎えた。翌朝、地元紙の下野新聞に大きく掲載された。 「バブルとともに隆盛を極めた企業集団が、ついに倒れた。老舗ゴルフ場の鹿沼カントリー俱楽部などを経営する『鹿沼グループ』4社の民事再生法申請。足利銀行や系列ノンバンクの大口融資先だった同グループに、足銀の経営破たんのショックはあまりに大きかった。(中略)『来るべき時が来た』と従業員。『鹿沼の経済界はどうなるのか』。地元に衝撃が走った」(04年4月1日付)。
鳴りやまない電話
ニュースを見たゴルフ場会員からの問い合わせは日に日に熱を帯びた。朝から電話が鳴りやまない。そのほとんどがクレームだった。罵詈雑言や「カネを返せ」という怒声が電話口で響いていた。
電話応対チームは民事再生手続きの専門家ではない。普段はゴルフ場でお客様を接客している人たちだ。受話器を握り締め、もう片方の手に持ったQ&Aの資料を見ながら皆、必死に耐えていた。
電話に耐えられない場合は手を挙げて弁護士を呼ぶというルールにしていたが、中には手を挙げっぱなしのスタッフもいた。「大変申し訳ありません」「心からお詫び申し上げます」と、彼らは私の代わりに電話口で謝ってくれた。「社長を出せ」「副社長を出せ」という声が聞こえてくる。私も応対したかったが、弁護士から電話には出ないように言われていた。
各ゴルフ場でも対応に追われていた。プレーに来た会員から今にもつかみかかる勢いで怒鳴られた社員もいた。スタッフに責任はない。どうか許してやってほしいと思った。そして再生を絶対に成し遂げ、苦労をさせている社員たちに恩返しをすると誓った。
毎晩、電話応対を終えた夜の8時頃から弁護士と会議をした。10時過ぎに解散し、残務を終え、軽く食事をしてホテルに戻ると体が動かなかった。小さなビジネスホテルの部屋のベッドに横になり、考え事をしていると、あっという間に朝になった。
ある日、弁護士の1人が「副社長、ホテル暮らしはどう?」と声をかけてくれた。当時の私はストレスから暴食に走り、体重が120キロ近くあった。小さなユニットバスに入ると湯があふれてしまうので「お風呂が小さ過ぎて入れません」と真顔で答えた。その先生は大笑いし「そりゃあ、かわいそうだね。よし、今日はこれで終わりにしてご飯を食べに行こう」と誘ってくれた。
新橋ガード下のイタリアンに行った。数カ月間はお互い飲みに行くという雰囲気すらなかったので、思いがけない飲み会に「ああ、弁護士先生もお酒を飲むんだ」と不思議な感覚を抱いたのを覚えている。店に入り、高級そうなワインを2杯飲んだところで頭がクルクルと回り、倒れそうになった。思わずトイレに駆け込み、激しく嘔吐した。便器を抱えながら涙目になり、「こりゃダメだ」と感じた。思っている以上に、心身ともに極限の状態にあった。

[日経ビジネス電子版 2025年5月12日付の記事を転載/「日経トップリーダー」2025年5月号の記事を基に構成]
福島範治著/日経BP/1870円(税込み)
【講師紹介】
真山 仁 氏(作家)
1962年大阪府生まれ。 87年に同志社大学を卒業し、中部読売新聞に入社。89年に退職し、フリーライターを経て、2004年に『ハゲタカ』( ダイヤモンド社) でデビュー。近著は『タングル』(小学館) 。現在「日経ビジネス」で、米中の覇権争いで揺れる台湾、そして日本や世界の半導体産業の行方に焦点を当てたハゲタカシリーズ最新作「チップス」を連載中。
福島 範治 氏(鹿沼グループ 代表取締役社長)
1970年東京都生まれ。93年青山学院大学卒業後、第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。98年、父親が社長を務める鹿沼カントリー倶楽部に入社。99年副社長。足利銀行の一時国有化を受け、2004年民事再生法の適用を申請。代表取締役を退任し、執行役員副社長に。スポンサーを入れずに自力再生を成し遂げ、08年代表取締役社長に就任。
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