タネが危ない 』(野口勲著/日本経済新聞出版/2011年9月刊)は、今年6月に15刷となり、10年超のロングセラーとなっている。日本唯一の固定種タネだけを扱う著者の野口勲さんのお店には、近年タネの注文が急増。背景には世の中の不安感があるようだ。そのおかげで、野口さんは一時手放した手塚治虫作品コレクションを買い戻せるようになった。「火の鳥」の看板を掲げる「意味のあるタネ屋」として、これからもタネの命をつないでいく。

タネの注文が殺到

編集部(以下、──) このところタネの注文が急増しているそうですね。

野口 勲さん(以下、野口) 2020年3月30日付の「ワシントン・ポスト」にこんな記事を見つけました。「注文の猛攻撃は新型コロナウイルスの恐怖のなかで種子会社を巻き込む」というタイトルです。

 米ミズーリ州マンスフィールドにあるベーカークリーク・エアルームシーズ社に、1日4500件ものタネの注文が殺到し、準備が間に合わないためにウェブサイトを閉鎖してタネの補充に追われたとのことです。

『タネが危ない』を読んで店にやって来る人は多い
『タネが危ない』を読んで店にやって来る人は多い

 このすぐ後、野口のタネも他人事ではなくなりました。4500件とは桁違いですが、当店は1日の注文が200件を超すともうお手上げです。

 2020年4月は新型コロナの緊急事態宣言が出て、会社や学校へ行けなくなった時期です。1カ月間に前年同月比300%に当たる注文が殺到しました。もともと繁忙期とオフシーズンの差が大きい業種ですが、今春も発送が間に合わなくなったため、4月11日以降、オンラインショップを閉鎖。5月4日に3000件の発送を完了して、ようやく峠を越しました。

 何が起きるか不安な世の中、コロナ禍で自分と家族の命を守るために必死になった結果がこういう現象をもたらしたのだと思います。当店にも「どんな時代になるのか不安なので、安全安心なタネを育てることにしました。できればタネを採りたい」という声が寄せられます。

 語弊があるかもしれませんが、消費者は「消費者の立場」に固執しないでいただきたい。昔のように自分で食べるものは自分で作ろうよ、と言いたいです。自給自足する人が自家採種することが、野菜にとっても米や麦にとっても、幸せなことだと思います。

 とりわけIT業界で働く方々からの注文が増えています。家庭菜園にとどまらず、農業を始める人も多いです。自分のやっている仕事は“生産活動”と言えるのかという疑問を持ちながら、都市郊外や田舎でリモートワークするうち、いつの間にか農業が本業のようになった人も珍しくありません。

デマに踊らされる人々

種苗法の改正や種子法廃止の影響もありましたか?

野口 最近、1人のお客さんが大量注文してくることが時々あるのが気になって、なぜかなと思っていたのですが、ある問い合わせ電話で分かりました。「改正種苗法の施行(2021年4月)で自家採種が禁止になるから、今のうちに固定種のタネを買っておけ」と、ネットで騒いでいる人がいるようなのです。

 あるユーチューバーが、「食糧危機がやって来る! 固定種のタネを確保しろ!」とあおっていて、その動画を見たらしい人が、通常1人500~5000円ほどの注文金額なのに、10万円以上の大量注文をしてきました。

 住所を見ると、東京都内のマンション住まいです。こんなに買ってどうするのかと思っていたら、その人から「タネを長期保存するにはどうしたらいいでしょう? 真空パックして冷凍保存すればいいんでしょうか?」と、問い合わせメールが入りました。

 僕はあきれて、「タネの長期保存はできません。タネは生き物ですから呼吸しています。真空パックになんかしたら死にます。すでに死んでいる肉や魚ではないのです」と答えました。

 「冷蔵庫の棚に紙袋のまま保管してください。3、4年は保存できるでしょう。キャンセルならいつでも受け付けます」と付記しましたが、「キャンセルはしません。注文通り着払いで送ってください」という返信が届いたので、発送しました。1人分のタネをそろえるのに、スタッフ1人が丸1日かかってしまい、本当に参りました。

 こんなお客様が増えてきたこともあり、繁忙期には袋詰め作業と発送が間に合わなくなりました。「本日のご注文は発送まで1カ月かかります」と自動返信するようにして、少し落ち着きました。

 種苗法改正で変わるのは、最近登録された品種の増殖や海外流出防止などに関することで、家庭菜園で育てる野菜とは無関係です。また、当店で販売しているような昔からの品種は、誰も育成権を占有していないので、自家採種しても法に触れることはありません。

 2018年に種子法が廃止になったときにも、注文が急増しました。種子法の対象は米や麦、大豆などの穀物だけ。都道府県ごとに農協が独占していたタネ流通が自由化されただけで、タネ屋としては穀物のタネも扱えるようになり、歓迎すべきことでした。しかし、「種子法廃止によって、タネが自家採種できなくなる」というデマに踊らされて、店にやって来る方が相次ぎました。

タネは保存できない

 ビル&メリンダ・ゲイツ財団が支援してノルウェーでやっている「世界種子貯蔵庫」のように、タネは保存できると思っている人もいるようです。しかし、日本のジーンバンク(つくば市)で1980年代から保管して20数年経過したタネを、東京の種苗会社が発芽させようとしたところ、「F1の片親探しのため1品種5000円払って10数品種分けてもらったけど、芽が出たのは1つだけ。あとはまったく芽が出なかった。つまり死んでいた」そうです。代謝を止められた命は、たとえタネという形状であっても、そんなに長生きできるものではないようです。

 2000年前の「大賀ハス」が発芽したという情報も独り歩きして混乱気味です。大賀ハスの場合、たまたま包まれていた土壌の水分が適度に保たれて、わずかに呼吸できたという偶然が奇跡につながったんだろうと思います。

 タネは生き物です。高温多湿の夏に酸素呼吸を活発にして、生命力(ミトコンドリアの力)が低下します。だから当店では入荷のたびに発芽試験をし、発芽率を確認して販売しています。

野口さんが飯能の商店街から現在の場所に移られた頃は、ネットと店の売り上げがほぼ同じになり、「もうこれからはネットの時代だ」と判断されたそうですね。

野口 狭い地域のお客様をホームセンターと取り合っても勝ち目がないので、商品を固定種だけに特化して、全国に向けてネット販売を始めました。おかげさまでこのところ急速に伸びて、顧客名簿は11万人を超えました。

野口勲さん(右)とスタッフの千明(ちぎら)剛さん
野口勲さん(右)とスタッフの千明(ちぎら)剛さん
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 商店街で店売りだけをしていた頃は、売り上げ減少に仕入先への支払いが追いつかず、大事に持っていた手塚治虫漫画コレクションを次々お金に換えるような、タケノコ生活をしていました。今は高価な復刻本を買い、コレクションに足せるようになりました。これはネットのお客様と毎日働いてくれる従業員たちのおかげです。

「意味のあるタネ屋」として

手塚治虫コレクションが並ぶ野口さんの漫画部屋
手塚治虫コレクションが並ぶ野口さんの漫画部屋
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 漫画部屋にこもって手塚作品をながめていると、『火の鳥』の第1回作品になる原稿を、初代編集者として受け取った日のことを思い出します。先生と共にいたのはわずか2年ですが、30歳で家業のタネ屋を継いでから、改めて手塚先生と先生が残した漫画と自分がつながっていると感じます。

 僕が編集者としてくっついていたとき、手塚先生は1日3時間も寝ればいいほうでした。1週間ほとんど一睡もされないこともありました。これでは命を削っているのも同じで、60歳で亡くなってしまいました。

 手塚先生は、海外に行くときには事前に描きためていました。ファクシミリがない時代は、国際電話でスタッフに指示を出していました。まさに天才で、漫画のアイデアは無限に生まれ出てくるようでした。

 店の屋根に「火の鳥」の看板を掲げている「意味のあるタネ屋」として、今後もタネの命をつないでいかなければなりません。この店も手狭になってきたので、若い人たちが働きやすいように、近くに新たな土地を物色中です。

野口さんの店には「火の鳥」が掲げられている
野口さんの店には「火の鳥」が掲げられている
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取材・文/工藤憲雄 構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集部) 写真/木村輝