メンバーシップ型の雇用は、しばしば「日本らしさ」として語られます。しかし、その解釈は多分に歪(ゆが)んだ日本人のステレオタイプの影響を受けていると、法政大学の梅崎教授は指摘します。私たちは、自身をどう捉えているのでしょうか。そして、ステレオタイプ抜きで見たならば、「日本的雇用」は何を指しているのでしょうか。日本人らしい職場・日本人らしい働き方に迫ります。

メンバーシップ型雇用に見る「日本らしさ」

  前回 の連載では、日本の雇用システムを、欧米の「ジョブ型」と対比して「メンバーシップ型」と呼ぶ二項対立的な語りに対して、表層的な「心情共同体」を強調しすぎているという批判を述べた※1

 実際には、「メンバーシップ型」の深層には相互の「必要」によって結びつく「協働共同体」という実体がある。むしろこの実体があるからこそ、表層に「心情共同体」が成立し得る。こうした二重構造こそが日本的雇用システムの特質なのだ。

 さて、ここで私は、あえて「表層的」という言葉を使った。というのも、メンバーシップ型という言葉が語られるとき、安易な文化主義的アプローチ(=解釈)が滑り込みやすいと感じたからだ。

 もちろん、文化主義的アプローチそれ自体が常に誤りだと言うつもりはない。だが、ジョブ型を「個人主義」「契約社会」、メンバーシップ型を「集団主義」「慣習社会」と呼ぶような文化による解釈が生まれやすく、それはステレオタイプなのだ。そして、このような文化的違いを強調する二項対立のステレオタイプ化は、我々があらゆる日本人論を語る際に、繰り返されてきた定型でもあった。

※1 「終身雇用」や「年功序列」という言葉は、本当に長い間、日本的雇用システムの特徴として語られてきた。この言葉が初めて登場したのは、ジェームズ・アベグレン(James Christian Abegglen)が1955~56年に日本の工場を文化人類学的手法で調査し、1958年に刊行された『The Japanese factory: Aspects of its social organization』である。もともと工場に限定された事実発見なのだ。そして、lifetime commitmentという心情の言葉は、経営学者の占部都美によって「終身雇用」と訳された(『日本の経営』ダイヤモンド社)。事実(fact)とは乖離(かいり)した心情の言葉が、憧(あこが)れ、理想、そして批判の対象として生き延びてきたのだ。

私たちの持つ「日本人像」はどこからきたか

 日本人論をメタ分析し、その歪みの構造を明らかにした研究として、『日本人論の方程式』(杉本良夫、ロス・マオア共著、ちくま学芸文庫)がある。同書が整理するところによれば、日本人特殊説は、内容的にはほぼ同型の主張を反復してきた。典型的には、次の3点である。

(1)独立した「個(人)」が確立していない。
(2)帰属集団に自発的に献身する「集団主義」がある。
(3)社会において「調和」重視の原理が貫徹している。

 メンバーシップ型という言葉が、直ちに上記の意味内容を含んでいるわけではない※2。問題は、定義ではなく、その言葉が日本社会でどのように受け取られ、どのようなイメージを喚起するかである。私たちはメンバーシップ型という言葉から、この3点を連想してはいないだろうか。だが、そうした連想を裏づける経験的根拠はどこにあるのか、と問われると答えは曖昧だ。

 根拠が曖昧であるにもかかわらず、それでも日本人特殊説がなくならないのはなぜか。要するに、この種の「言説」には需要があるのだ。

 対外的には、「日本人はこうあってほしい」というオリエンタリズムが働くことがあるだろう。また対内的にも、需要の構造は想像しやすい。要するに、簡単に議論ができるのだ。日本人を褒めるにせよ貶(けな)すにせよ、「日本人とは○○だ」という文化的に統一された像があれば、複雑な現実をいったん棚上げして話ができる。その「楽」を選び、複雑な構造を平板なイメージに還元してしまう点を、私は「表層的」と批判したいのである。

 だったら、一度、文化主義的アプローチを封印し、ルールや慣習には合理性があるという機能主義的アプローチで日本的雇用システムを徹底的に分析してみてはどうだろう。

※2 ジョブ型とメンバーシップ型という対比は、2009年に刊行された濱口桂一郎氏の『新しい労働社会 雇用システムの再構築へ』(岩波新書)によって一般化した。その後、2021年に刊行された濱口氏の『ジョブ型雇用社会とは何か 正社員体制の矛盾と転機』(岩波新書)では、日本企業では、ジョブ型が誤解されて広まっていることを指摘している。ではなぜ、誤解されるのか。それは濱口氏の厳密な雇用のルールの議論も文化主義的に解釈されてしまったからなのではないか。

日本的雇用システムの「合理性」

 小池和男は、「知的熟練論(小池理論)」によって、1980年代後半から1990年代にかけて学界のみならず社会的にも大きな影響力をもった経済学者である。優れた研究者や膨大な研究成果は数多く存在するが、自前の理論を打ち立て、それが固有名詞として流通するところまで到達する例は少ない※3

 知的熟練論の出発点は、雇用システムの合理性を、工場の組み立てラインにおける「熟練」という内側から捉え直すことにあった。以下では、小池がどのように合理性を見いだしたのかを整理してみたい。

 生産ラインを長時間観察していると、ときおり「停止」が起こることに気づく。機械と機械が複雑に連結している場では、こうした異常や変化が全体の「流れ」を止める。したがって、現場の効率性は、停止をいかに短時間で復旧させるかにかかっている。

 知的熟練論では、この異常や変化への対応を「ふだんと違った作業」と呼び、平常時の「ふだんの作業」と区別した。重要なのは、効率を左右する決定的局面が、平常運転の作業ではなく、むしろ例外的な事態への対処に現れるという発見である。加えて、この「異常と変化」への対処は、ナイトの不確実性(uncertainty)概念を援用して整理された※4。不確実性とは、事前に発生確率すら測定・予想できない現象である。

 なお、この原理は工場に限定されない。どのような職場でも、仕事の効率性とは、この不確実性にすばやく対処して、仕事の「流れ」を止めないことにある。

 ただし、外部の調査者がこの「流れ」を把握することは容易ではない。知的熟練論では、詳細な聞き取り調査ならば可能だと考えた。そして、具体的な異常や変化を観察可能な現象と考え、不確実性はそれに対応する抽象概念と位置付けたのだ。

※3 小池理論の達成は、海外理論の紹介にとどまらない体系的教科書である『仕事の経済学[第3版]』(東洋経済新報社、2005年)によく示されている。
※4 Knight, F. H. (1921) Risk, Uncertainty and Profit. Boston and New York, Houghton Mifflin Company(桂木隆夫・佐藤方宣・太子堂正称訳『リスク、不確実性、利潤』筑摩書房、2021年)を基に、変化と異常への対応を不確実性という概念へとまとめたのは、小池和男・猪木武徳編『人材形成の国際比較 東南アジアと日本』(東洋経済新報社、1987年)の猪木武徳氏による。

不確実性への合理的な対処法とは

 では、不確実性には、誰が、どのように対処することが合理的なのだろうか。

 ひとつの解は、作業者には一切触れさせず、異常はすべて技術者へ報告させるという方式である。20世紀初頭にF. W. テーラーが提唱した科学的管理法(テーラーリズム)は、徹底した「計画と実行の分離」を核としていた。

 しかし小池は、この合理性に疑問を投げかけた。大きな異常であれば技術者の介入が不可欠だが、頻度の高い小さな異常に対しては、現場の作業者が即時に対応したほうが復旧は早い。小池が見いだした協働とは「計画と実行の統合」なのである。そして、これは作業者の知的熟練を前提とする。標準化によって作業範囲を狭め、各人を限られた工程に特化させることで分業の効率性を高める管理とは、方向性がまったく逆なのだ。

 知的熟練とは、作業の経験範囲を広げることで、工程の前後関係を理解し、不確実性に対処できる能力だ。当然、OJT中心の育成には時間もかかる。

 以上をまとめると、知的熟練論の要点は、(1)熟練、(2)協働、(3)育成の三者が、機能的に結びつく相互連関としてモデル化されている点なのだ。加えて、この相互連関を支えるサポート・システムとして、企業別労働組合に基づく労使協議制や、作業者(ブルーカラー)にも昇進・処遇の展望を開くインセンティブ設計が位置づけられた。

 つまり、ポスト・テーラーリズムの合理性が日本企業で完成したのだ。この説明に「調和の心」といった文化の印象論を持ち込む余地はない。

「合理性への執着」という非合理性と公共的動機

 ところで、私には、小池和男(以下、小池先生と呼びたい)とは面識があり、学恩がある。雇用システムを、一貫した機能主義の枠組みで体系的に説明してみせるという野心と、それを成立させてしまう知力があり、その両方に圧倒された。それだけでなく、同時に小池先生には「おそれ」に近い感情を抱いていた。それは、単なる知的優劣への認識ではない。

 知力だけならば、自分より優れた人が周囲にいくらでもいたし、私は「自分は自分」と割り切る分別も持っていた。私がよりどころとしてきたのは、たとえ成果に直結しなくとも、研究対象には好奇心を持ち続けられるという確信である。

 それにもかかわらず、小池先生に対して「おそれ」を感じたのは、個人の内発的な好奇心とは別の、より強い公共的な動機が見えたからだ。個人の好奇心が学問の燃料であることは確かだ。だが世の中には、その燃料を超えた推進力を持つ人がいたのだ。

 この動機の輪郭(りんかく)が、ふと分かる瞬間があった。宮台真司氏による、師である小室直樹氏についての語りを知ったときである。小室氏は、テレビでの言動や私生活の逸話によって奇矯な人物像で語られがちだが、学問的にはむしろ正統派であり、近代社会科学の諸学問を徹底的に学び、機能主義(さらには構造−機能主義)によって社会の合理性を説明しようとした学者である※5

 その一方で、小室氏は、宮台氏に「人が凄(すさ)まじく合理的であろうとする執着が、合理的であるはずがない」と語ったという。

 合理性への執着それ自体は、合理性では説明できない。小室氏の場合、その非合理な動機は、血肉化したナショナリズムであった。典型的な軍国少年であった彼にとって、「日本はなぜ負けたのか」は決定的な問いとなり、次に負けないためにはどうすればよいかが課題となる。日本社会を文化主義的アプローチで説明できたとしても、それだけでは、また負ける「文化的な日本」のままなのだ。むしろ、徹底的に合理性で説明し、改良すべき点は改良すべきなのだ。

 このエピソードを手がかりに、私は自分の小池先生への「おそれ」を理解できた。知的熟練論にも、合理性への執着があったのだ。

 さらに、ここから先は仮説にすぎないが、世代という要因も関係しているのかもしれない。小池先生と小室氏は1932年生まれだ。敗戦の意味を「敗者」として抱え込むほどには大人ではなく、他方で「被害者」として記憶するほど幼くもない。そうした中間の年齢で経験した敗戦は、本人の中では「不戦敗」のままなのだ。だから、戦後日本を「次は負けないように」つくりかえるという、公共的な動機が育ったのではないか。

 例えば、歴史学(伊藤隆)や政治学(佐藤誠三郎)、文学(石原慎太郎・江藤淳)の領域にも同じ動機を感じさせる1932年生まれの人がいる。

※5 村上篤直『評伝 小室直樹 上・下』(ミネルヴァ書房、2018年)。

改めて日本的雇用システムを問い直す

 ところが、現在、日本的雇用システムの評価は低い。私にとって強靱(きょうじん)に見えた知的熟練論も、1990年代後半以降の長い不況期に入ると、その説明力の無力化が目立つようになる。

 だが、私は、この理論がダメだと捨て去ることはできなかった。恩義ではない。私にとって、知的熟練論に代わる日本的雇用システムを説明する「体系的な」理論が見つからなかったからだ。だからこそ、知的熟練論に何が足りないのかを考え続けることは、そのまま、日本企業がふたたび成長を取り戻し得る可能性を考えることになった。

 そして、ギリギリまで機能主義的に考え抜いた果てに、私はなお、文化主義的アプローチを捨てきれないと思う。もちろん、安易な「日本人論」へと滑り落ちる危険はある。必要なのは、深層的な文化主義なのだ。

 次回は、代替的な理論に向けて、非力を顧みず、思考を重ねていきたい。

◆今日のひと言◆
安易な「日本的」に踊らされている限り、目指すべき「働きやすい社会」は見えてこない。

(イラスト:PureSolution/stock.adobe.com)
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