これまで19回にわたって、多様化する働き方・職場で感じてしまう「働きづらさ」と、日本企業の停滞の根本原因を探求してきた本連載。最終回である第20回では、私たちが、さまざまな課題を抱えながらも、ステレオタイプではない日本独自の特長を生かして「よりよく働く」を実現する方法、そして企業、ひいては日本社会が「より活気づく」ための処方箋となる「本質的な科学の言葉」に迫ります。
「会議室よりも現場」 知を生かすには
前回は、9割が到達し得る能力である「知的熟練」と、1割しか到達し得ない「工程設計力」という「二重の能力観」を職場で共有し、適切な育成と選抜を行うことで日本企業の競争力は復活し得ると主張した。
「現場主義」という言葉は、日本の企業経営を語る際、一つの理想として、しばしば用いられてきた。知的熟練にせよ、工程設計力にせよ、それは大学や大学院で生産工学を学んだ技術者の能力ではなく、実際に作業をする生産労働者がその経験を通じて身に付けた能力として位置付けられている。
かつて1998年公開の『踊る大捜査線 THE MOVIE』で、織田裕二が演じる青島俊作刑事が本部キャリア組に向かって無線で叫んだ「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ!」という台詞(セリフ)は、多くの働く人たちの共感を呼んだ。
この例からも分かるように、現場主義は、ものづくり産業に限らず、多くの職場に当てはまる。例えば、遠藤功『新幹線お掃除の天使たち 「世界一の現場力」はどう生まれたか?』(あさ出版、2012年)は、東京駅に到着した新幹線が再び関西に向けて出発するまでの短時間(約7分!)で、素晴らしい掃除の協働体がつくられていることを発見している。
日本の現場主義とは、計画と実行を分離するのではなく、現場の作業者が仕事を遂行するなかで獲得した知識を協働の中で積極的に生かしていくべきだという思想的立場なのだ。
私もまた、この立場を選択したい。しかし、日本の職場で繰り返し見いだされ、さまざまな文化的コンテンツのなかでも繰り返し描かれてきた現場主義も、それが単なる美談として語られるならば問題をはらむ。というのも、その場合には、先述した「1割の選抜」という厳しさが見えなくなり、「現場である以上、それだけで正しい」という暴走を招きかねないからである。
イノベーションの旗を振っても、変わらなかった日本企業
「二重の能力観」に基づく「現場主義」は企業競争力の重要な一要素ではあるが、それだけでは不十分だという批判も残る。現場主義とは基本的な作業の効率性を追求する創造性であり、例えば、事業戦略や製品開発のような創造性とは違うからである。
例えば、ジェームズ・マーチは、組織内における学習を「探求」(exploration)と「深化」(exploitation)に分けるべきだと主張する※1。「探求」は、新しい知識やアプローチの獲得を目指した知識創造であり、「深化」は、既知の技術や知識やノウハウを共有し、それらを連結する知識創造である。
後者は、まさに現場主義における創造性を意味しているが、企業は「探求」も行わねばならない。オライリーとタッシュマンは、既存事業の改善(深化)と革新(探求)をどのように両立させるかを問い、「両利きの経営」という理想を提示したのだ※2。特に日本企業では、「深化」は得意だが「探求」は下手だという現状認識になる。
だからこそ、日本経済の調子が悪くなった1990年代後半以降、「探求だ、イノベーションだ」という旗が振り続けられてきた。威勢のよい話であるが、現在に至るまで、その効果はどうだったのか。旗を振っている本人は気分がよくても、現状はあまり変わっていないのではないか。
旗振りと同時に、ずっと変わらないのは既得権維持の保身者がいるからだという批判もよく耳にする。これは、一面において正確な認識なのかもしれないが、前回の連載で私は、職場の本質を肯定的に言い当てる科学の言葉を探すと宣言していた。
私は、能天気な楽観も嫌なのだが、当事者でもない人間による批判もまた嫌なのだ。
※2 チャールズ・A・オライリー、マイケル・L・タッシュマン(著)、入山章栄(監訳)、冨山和彦(解説)、渡部典子(訳)、2022年『両利きの経営〔増補改訂版〕 「二兎を追う」戦略が未来を切り拓く』東洋経済新報社。
コントロール不能な「現場」しかない現場主義
日本の職場に対して、少し角度を変えて解像度を上げてみよう。
例えば、探求が弱いという認識とセットで行われる批判として、「日本企業はブルーカラーの生産性は高いが、ホワイトカラーの生産性が低い」という意見がある。つまり、部下は頑張っていても管理職は無能だと思われている。そもそも協働の生産性を個人に分解することはできず、連載の第4回でも紹介したように、管理職は罰ゲーム化しているのだが……この批判は繰り返されている。
「計画と実行の統合」という現場主義は、組織のヒエラルキー構造を踏まえれば、圧倒的な数の計画者を生む。計画者という言葉が少し硬すぎるならば、協働体への参加(権)の拡張と言ってもよい。
一方、日本企業とは対極と思われているアメリカ企業では「計画と実行の分離」が原則なので、管理職は計画に集中できている。なぜなら、ジョブ・ディスクリプション(職務記述書)によって参加(権)を制限された人材(実行のみの人材)は管理しやすいからである※3。前回でも私は、「1割の選抜」が難しいと書いたが、アメリカ社会は日本以上の学歴社会なので、入社時点で学歴・学校歴によってキャリアとノン・キャリアに振り分けられる。
日本の職場では、本連載でも何度か取り上げてきたように※4、分権化された構想力という下から湧き上がる共創を促すことがリーダーに求められる。たくさんの参加者たちの動機付けに細心の注意を払い続けなければならない。だからこそ、管理職の負担は増えるのだ。
そんな負担にも限界が訪れ、従業員の参加権の範囲を制限するしかないということになれば、管理職の仕事は楽になるのだろう。しかし、同時に日本的な集合的創造性も消えてしまうのだ。
そもそも日本的創造性の可能性は、わらわらと人々が好き勝手に参加・構想している現場主義の中から生まれる。例えば、日本が誇る漫画やアニメは秋葉原やコミックマーケットに集まるオタクたちの祭に、そして世界料理のRAMENはラーメン店の出店ラッシュによる雑然とした多様性によって支えられている。
ところで、日本人にとって、このような下から湧き上がる集団は、自分たちが作為的につくったものとは思われず、何か自然発生したものに見えているのではないか。創造的共創でもあり、無計画な暴走でもあるような「現場しかない現場主義」には、部分の構想力はあっても全体のデザインがないのだ。あえて上から全体をデザインしようとすれば、集合的創造性が消えてしまうのだ。そのメカニズムをつかむためには、機能主義ではなく、深層の文化主義による考察が必要だ。
深層にある「つぎつぎになりゆくいきほひ」
自然と作為(本稿では計画)についてとことん考え抜いた思想史家に丸山眞男がいる。その出世作『日本政治思想史研究』(東京大学出版会、1952年)において、江戸時代における思想史の転換を読み込む。具体的には、朱子学の「自然」的秩序の社会観から徂徠(そらい)学において社会は「つくられるもの」という「作為」の論理に転換する。つまり丸山は、日本の近世に西洋と同じような近代の萌芽(ほうが)を探ろうとしたのだ。
この「作為」の概念は、先ほどから説明している「計画と実行の分離」という思考につながる。組織も事業も誰か計画(設計)者がいるという基本認識は、「作為=つくる」論理なのだ。
その後、丸山はこの問題を掘り下げて、1972年には「歴史意識の『古層』」(『忠誠と反逆 転形期日本の精神史的位相』(ちくま学芸文庫))を書き上げた。丸山は、歴史の時間軸を拡張して日本文化の深層を探ろうとする。そして、各国の世界創成神話は、「つくる」「うむ」「なる」という3つの基本動詞によって整理できるという仮説を提示する。西欧のユダヤ・キリスト教に代表される「つくる」論理に対して、日本の「なる」論理を対置したのだ。
「つくる」論理では、つくるもの(主体)とつくられるもの(客体)が明確に分かれる。この客体には物質だけでなく、組織やルールも含まれる。一方、「なる」とは、有機物のおのずからなる発芽・成長・増殖のイメージになり、主体と客体が連続的に捉えられている※5。
さらに丸山は、「つぎ」「いきほひ」という言葉の探求を続けて、日本の歴史意識の古層をなし、しかもその後の歴史の展開を通じて執拗な持続低音(Basso ostinato)として響き続けてきた思惟様式を抽出した。そして、それは「つぎつぎになりゆくいきほひ」と名付けられた。そのフレーズは、先述した「現場しかない現場主義」の動きそのものである。
「作為された自然」で現場主義を取り戻す
『日本政治思想史研究』の丸山眞男は、「なる」論理に対して、「つくる」論理を発見(再導入)するべきというメッセージを発していると読み解ける。しかし、その後の古層研究においては、「なる」論理は、日本社会の深層において鳴り響き、もはや「宿命」と呼ぶべきものだ。
社会の深層を「なる」から「つくる」に変更するのは困難かもしれない。では、我々が日本の社会を変えることはできないのか。
冷静に確認すれば、現場主義が日本企業の強さでもあったように、「つぎつぎになりゆくいきほひ」は良い時もあれば悪い時もあるという二面性である。だったら、我々にできることは、より良い方向へこの自然発生をかじ取りすることではないか。
私の考える日本の職場(社会)の理想は、「つぎつぎになりゆくいきほひ」を「変えられない宿命」として受け入れ、職場構想力を持っているリーダーたちが良い方向にかじ取りをすることなのだ。
それは、成り行きに任せる「自然」でもなく、上から目線の「作為」でもなく、「作為された自然」をつくり出す「わざ」と呼ぶべきだ。日本的な「つくる論理」とは、「良い『つぎつぎになりゆくいきほひ』をつくる」という入れ子構造なのである。
日本的「つくる」論理にたどり着いた時点で、この連載を終わりたいと思う。この連載が、使い古された現場主義の埃(ほこり)を払い、紡ぎ直して職場における新しい「論理」と「わざ」が生まれることにほんの少しでも貢献できればと願う。
◆今日のひと言◆
「職場の宿命を受け入れながら、それ自体を良い方向にかじ取りする」という入れ子の発想が職場を変える。
