メール・チャット・電話・オンライン会議・対面…職場でのコミュニケーション法一つとっても、ここ十数年で選択肢が圧倒的に増えました。こうした選択肢の増加は、働く個人に利便性を生み出す一方で、気ぜわしさや疲労の原因にもなっています。では、増加し続ける選択肢に対して、働く個人はどのような戦略をとればいいのでしょうか。今回のテーマは「多動力」。多くの選択肢を軽快に渡り歩くことを可能にし、人生のリスクヘッジにもなるものですが、多くの場面で多動力は誤解され、有効活用されていないと指摘します。無限のように増えていく選択肢を前に、快適に働き、つながる方法について考えます。
「多動」の価値の上昇
前回 、ITの発展によって選択環境を圧倒的に拡張できることになったが(無限性)、我々自身が人間であるという制約(有限性)から解放されているわけではないので、無限性と有限性の板挟みになって職場も頭の中も「騒がしく」なってしまっていることを説明した。
「だったら、拡張した選択環境を使いこなせる能力を身に付ければいいじゃん」というのも、一つの立場(選択能力の極大化を目指す)であろう。その急先鋒(せんぽう)は、実業家の堀江貴文氏の「多動力」である。彼が執筆した『多動力』(幻冬舎)はベストセラーとなった。
いくつもの事業を同時に手掛ける実業家の堀江氏は、いったいどのように仕事をしているのか。その疑問に答えたのが、本書である。2017年に刊行されたが、今読んでも様々な発見がある本だ。
まず、この本の秀逸なところは、「多動」という言葉の価値を大きく転換させた点である。多動とは、一般的に注意力が散漫で物事に集中できない、というネガティブな意味で使われていたが、この本は、時代に合った新しい能力として再定義したのだ。
堀江氏も、「この『多動力』。かつては、マイナスでしかなかったかもしれない。『多動力』を仕事に生かす場面は少なく、おかしな人だと思われていたはずである」と述べている。
しかし、インターネットによってビジネス環境は変わったというのである。インターネットというものが産業のタテの壁を溶かしてしまい、どんな事業も会社も共創したり、競合したりする「水平分業型モデル」になったのだ。
なぜ「多動」が人生戦略として有効なのか?
「VUCAの時代」という言葉は、Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字をつなげたものであるが、これこそが水平分業型モデルによって生まれたビジネス環境と言えよう。そのような環境の中で、一つのことをコツコツと続けること、またじっくり究めることは、実は危険な選択である。
本連載の関心に引き付けて言い換えれば、「業界」の中の垂直的分業、「組織」の中の上下の関係が崩れてくれば、コミュニケーションのチャネル数の増加が止まらなくなる。だからこそ、一つの「業界」や一つの「組織」でコツコツと積み上げるという従来のやり方では、この過剰チャネルの環境に対応できない。むしろ積極的に、不真面目に見える「越境者」になることが求められる。
要するに、水平分業型モデルとは、次々に新しい共創と競合のフィールドが生み出されることなので、越境者は、その新規フィールドを素早く理解、もしくは越境者自身がそのフィールドを生み出すべきなのだ。
そして堀江氏が主張する「越境者」に最も必要な能力が、次から次に自分が好きなことをハシゴしまくる「多動力」である。
ところが、人は、変化を受け入れなくなる。簡単に腰を下ろし、固まる。堀江氏が理想とするのは、好奇心で動いてしまう子供だ。毎日を夢中に過ごす子供であり続けることが、多動力の理想像なのである。
多動型読書論 津田左右吉的読書のすすめ
多動力と聞いて私が思い出したのは、津田左右吉(そうきち)だ。東洋史・東洋思想史において独自の研究を打ち立てた孤高の大学者である。『津田左右吉全集』(岩波書店)の全28巻、別巻5冊は圧巻である。飛鳥時代から奈良時代という上代の文献学的考証では、数々の新しい発見を示した。1939年に起こった津田事件は、左右吉の研究が天皇に対する不敬罪に当たると攻撃され、一部著作が発禁処分とされ、さらに早稲田大学教授も辞職させられたという事件であった。このような弾圧を経ても左右吉の研究は、戦後に巨大な知的資産として残ったのである。
なぜ、この学者を思い浮かべたかというと、中国文学者でエッセイストの高島俊男の読書論を読んでいたからである(『ノーサイド 特集:読書名人伝』文藝春秋、1995年5月号)。
高島氏は、津田左右吉と同じ東洋史の学者であり、京大支那学の礎(いしずえ)を築いた内藤湖南(こなん)を挙げて2人の読書法を比較している。両者には、専門の近さ、圧倒的業績、学歴エリートコースを歩んでいないという共通点はあるが、氏によれば、その読書法は全く違う。
湖南は「絨毯(じゅうたん)爆撃方式」である。和漢のありとあらゆる書物を組織的かつ網羅的に読んでいき、精密な頭脳に整理しながらインプットしていく。この方法は、一般的な研究者の読書であろう。ただ湖南の情報量や精密さが圧倒的だったわけだ。
注目すべきは左右吉先生である。高島氏は、「気まぐれ原始人方式」と呼び、次のように紹介する。
「今日ちょっとゲーテを原書で読みかけたと思ったら、つぎの日は賀茂真淵にとりかかっている。そのつぎの日は何が何でもフランス革命の研究だと意気ごみ、またつぎの日は史記精読の志をおこす。支離滅裂である。(中略)恒常的逆上状態。それも読むはしからみんな忘れてしまう。(中略)そうした読書をつうじて、世の中の誰にも似ないまったく自分独自の思想が形成されてきたのだ、と後年の津田はいばっている。」
両者とも大学者なのであり、高島氏もどちらのやり方でもよく、性格に合った方法が一番と書いているが、AI進展の現代では、軍配が上がるのは津田左右吉のほうではないか。
湖南の方法は、情報の収集と整理の効率性を重視したバランスがよいやり方であるが、「気まぐれ原始人方式」は、今ここにおける動機への偏重がある。つまり、圧倒的な多動力なのだ。
同時選択かつ多接続への罠(わな)
ここまで読んできた人は、私が、多動力によって拡張した選択環境を使いこなせると考えていると思うかもしれない。しかし実は、堀江氏や津田左右吉のように多動力を機能させるには、前提となる要素があることを忘れてはいけない。
堀江氏は、「初めからいくつものことに手を出すのではなく、まずは『何か“一つのこと”にサルのようにハマる』ことだ」と書く。そして「何か一つのことに極端なまでに夢中になれば、そこで培った好奇心と集中力が他のジャンルでも同じように生かされる」と説明する。
多動とは、同時選択ではない。なんとなく、誘われて色々なことを始めて、同時にいくつものことをやることになったが、どれも中途半端になり、結果的に多接続で意識が分散してしまう状態とは違うのだ。
「ハマる」とは、好奇心に基づく集中なのだから、外側か見れば、落ち着きがない人に見えるかもしれないが、好奇心という内発的動機に従うことで、「ハマって飽きる」の繰り返しが、何かにハマり続けるという「集中の持続状態」を作り出しているのである。
『多動力』という本の影響を受けながら、その実態は、同時選択の多接続で動機もまた低く分散しているだけという最悪の状態に陥っている人は多いのではないか。
YouTubeやTikTokが生み出す「むなしさ」の正体
大変恐ろしいことに、ITによって生み出されたチャネルが過剰な情報化社会は、好奇心を育ててくれるというよりも、その場限りの注意を刺激されるアテンション・エコノミー(注目経済圏)と化している。1時間ほどYouTubeやTikTokに薦められるままに、動画を見続けた後、「さて、私は、本当に心の底からこの動画を見たかったのだろうか」と思うことは多い。
YouTubeやTikTokだけではない。世の中にある受動的娯楽への多接続は、我々から能動性を奪っており、熱中からは程遠い、ダラダラとした緩い常温の関心を作っているだけである。
「好奇心があればよい」という言い方は、理想に対してあまりにも属人的な要因を重視しすぎなのではないかと、私は思う。我々は好奇心を育てる環境についても議論を続けねばならないのだ。
過剰なチャネル数という環境は、好奇心に対して最悪なのだ。次々と現れる刺激に対する即時的な反応だけが自分の中に生まれてしまうからである。
いかに環境を整え、好奇心という動機を育てるかという問いは残ったままなのである。
◇きょうの一言◇
「ハマって飽きる」を高速回転できる人が勝つ。
