「複数人が集まることは、高いクリエイティビティを発揮するために必須」ということは、これまで本連載でも紹介してきました。しかし一方で、「他人と働くよりも一人のほうが気楽」と感じたことのある方もいるのではないでしょうか。実はこうした本音の裏側には、「個を尊重しすぎるあまり、相手の意見に異を唱えられない」という昨今の集団が抱える問題が隠れていると、法政大学の梅崎教授は指摘します。より高いクリエイティビティを発揮するためのコミュニケーション空間のあり方を考えます。
そもそも<公共>とは何か
前回、現代日本社会における共創的な公共(co-creative public)の存在を問うた。この言葉には、完全な私的空間やインターネットに代表される匿名者たちの盛り上がりとは違う、でも新しい知識が創造されるようなコミュニケーションの場があるべきだという理想や期待を込めている。もちろん、メンバーシップを限定した閉鎖的な集団とも違うものだ。
この連載で公共哲学について深掘りするつもりはないのだが、ほんの少し踏み込んで公共について考えてみたい。
はじめに、我々が身近で体験しているコミュニケーションの空間を整理してみよう。例えば、これらの空間の違いを次のように喩(たと)えたらどうだろうか。
私的空間 →「個室」
閉鎖的な仲間空間 →「スナック(できれば会員制)」
匿名性の空間 → 「インターネット空間」「盛り場」「ストリート」
最後の、インターネット空間の喩えは、前回にも紹介した2ちゃんねるやX(旧Twitter)などを例に挙げれば分かりやすい。だが、インターネットに限らず、そこそこ大きい「盛り場」とか「ストリート」とかも容易に匿名になり得る。つまり、匿名性の集団とは、田舎に対する都市の特徴であり、インターネット空間は、そもそも都市的な空間なのだ。インターネットが広がることで、人間社会の中で都市的な匿名の空間が急増したと考えることができるのだ。
これら3つの空間は、私が期待する共創的な公共とは違う。では、公共の空間は何に喩えればよいのか。すぐにイメージされるのは、役所、地域の自治会だが、正直に言えば、それらは共創からはほど遠いという感想しか浮かばない。
<公共>が持つ3つのイメージ
この公共という言葉を理解するための文献として、齋藤純一氏の著作、その書名もずばり『公共性 シリーズ思考のフロンティア』(岩波書店、2000年)がある。この本の用語説明は我々の公共への理解を深めてくれる。
まず、齋藤氏は、公共の意味は3つに分けられると説明する。第一は、「国家に関係する公的な(official)もの」という意味である。公共事業や公教育、および公安国家などのように法や政策などを通じて国民に対して行う活動だ。
第二に、「すべての人びとに関係する共通のもの(common)」という意味である。私利・私心と対比されて、公共の福祉、公益、公共地などのように妥当すべき規範という意味がある。
この公共は、第一の公共のように上からの押し付けの義務や権力とは考えられない。だが、規範は共通されるがゆえに、ある種のメンバー内に圧力が発生する。我々が、共同体という言葉を使ったとき、その言葉にはcommonというイメージと、個人の自由に相反するというイメージがある。
第三に、「誰に対しても開かれている(open)」という意味である。これは、私の言葉では前回の連載でも取り上げている「参加開放性」と同じである。プライベート(private)とは対比される公開の場としての公園などのパブリック・スペースがイメージされる。
「OPENでCOMMON」は実現可能か
要するに、公共が意味することは多義的なのだ。そして齋藤氏は、3つの意味での「公共」は互いに抗争していると指摘する。第一の分類である国家による公共事業が非公開で進められることは多く、それに対してジャーナリストが公開を迫るというような「公共的な」活動が行われることもある。
加えて、第二の公共と第三の公共の間には悩ましいジレンマがある。齋藤氏は、「『共通していること』はほとんどの場合『公共性』を一定の範囲に制限せざるをえず、『閉ざされていないこと』と衝突せざるをえない局面をもつ」と記している。
この指摘は、私がこれまで説明してきた「開示開放性」と「参加開放性」(※連載第12回参照)の両立困難と関係している。何でも話せるという開示開放性は、限定されたメンバーが相互信頼できているという「共有された規範」があるから存在できる。その規範が崩れた空間では、我々は自己開示ができない。我々が理想とする<共創的な公共>とは、匿名性に頼らず、2つの開放性を両立したコミュニケーションの場だ。
このような用語の整理を踏まえると、例えば、自治会などの「共通のもの」を重視するような集団は、どうしても参加者の同質化を促す傾向があることがわかる。つまり、「共同体」は公共とは異なり、参加者の「個性が現れてこない」という欠点がある。
「議論の気まずさ」に、私たちはどこまで耐えられるのか
「個性が現れること」は開示であるが、この開示については追加的な説明が必要だろう。開示には「安心して悩みを語れる」という意味もあるが、「本音の意見を発言し、自分の立場を鮮明にすること」も含む。当然、その結果として対立や批判も生まれるかもしれない。それを踏まえて議論を深めることができるかが問われる。すなわち、熟慮と議論を組み合わせた「熟議」の場になるべきなのだ。
しかし、社会学者の石田光規氏は、『「人それぞれ」がさみしい 「やさしく・冷たい」人間関係を考える』(ちくまプリマー新書、2022年)という若者の友人関係を扱った著作で、熟議が成立しない理由を解説する。
個々人の選択を尊重する「個を尊重する社会」は、もちろんそれ自体は否定できないのだが、そのような価値観が主流の社会になると息苦しさが生まれる。誰かの希望や選択に対して、否定的な意見、もしくは反対の意見を言うことを躊躇(ちゅうちょ)するからだ。
つまり、「人それぞれ」という配慮の空気に縛られてしまうのだ。全員が相手の考えや行動を否定しないように細心の注意を払った結果、どんどん誰も本音が言えない社会になっていく。
だからこそ、匿名コミュニティで普段言えないことを一方的に発言し、ソロ活動で落ち着くのだ。石田氏は、この個人化した社会の問題を次のように喝破する。
「互いに傷つけないよう、あるいは、場を乱さないよう配慮する関係性は、高度なコミュニケーション技術を要するため疲れます。だからこそ、多くの若者は『友達といるより一人が落ち着く』と考えます。(p.53-54)」
要するに、配慮するだけの関係では<共創>は生まれない。本当の熟議につながるための開示開放性が必要なのだ。
メンバー一人ひとりが価値観や知見を述べ(つまり個性の発揮)、批判も含む議論が自然発生することで組織内の多様さと創造が結合するのだが……。
<共創的な公共>を歴史的パースペクティブの中に位置づける
<共創的な公共>の前提条件を検討すると、その実現がいかに難しいかが分かる。この実現の困難は歴史的にも証明されている。
ドイツの社会哲学者ユルゲン・ハーバーマス(Jürgen Habermas)は、18世紀の西欧社会において形成された「市民的公共圏」を詳細に検討している※1。理性的な話し合いを通じて公論が形成されるという、この市民による公共性が成立した典型的な場所として、彼はイギリスの「コーヒーハウス」やフランスの「サロン」などを挙げている。その場では、身分差を超えた議論が生まれた。一方、古代ギリシャの都市国家(ポリス)においては、「アゴラ(広場)」を中心に議論が展開される「ギリシャ的公共圏」が存在していた。
こうして私たちは、<共創的な公共>の空間をイメージできる「コーヒーハウス」「サロン」「アゴラ」という3つのキーワードを得ることができた。
しかし注意すべき点は、これらの言葉が示す場所のイメージは、今の日常的イメージとは大きく異なることである。
ハーバーマスも指摘するように、市民的公共圏は19世紀の段階ですでに構造転換を迎えている。議論に参加する主体であった市民は、次第に意見を「述べる人」から情報を「消費する人」へと変容し、討議を担う「参加する市民」は、メディアを前にした「観客」へと位置づけを変えていく。その結果、かつてのような開放的な熟議の場は、名前とその場所は残ったが、その内実は消滅していったのだ。
理想をつくり、理想を実現する
歴史的パースペクティブにおいて、私たちが<公共>と呼ぶものは、限られた時代に一瞬だけ立ち現れた現象であると同時に、古典の世界にかろうじてその痕跡を見いだすことができる「精神的な継続」なのだ。
現実と理想を把握するために、以下の表を作成した。他者のコミュニケーションを想定しないので判断不可能な個室/ソロ活に対して、3つのコミュニケーション空間/個人があり、それぞれを「〇あり、×なし」で比較できる。アゴラ/市民の組み合わせが、実現できるかどうかはともかく、我々の「理想」になるのだ。
だから、我々に残された道は、<ギリシャ的公共圏>や<市民的公共圏>のイメージを掘り起こし、現代におけるその不在を強く意識することによって<理想の存在感>を高めることではないか。そして、自らの職場でこの理想空間が生まれるチャンスを虎視眈々(たんたん)と探すべきではないだろうか。
◆今日のひと言◆
理想のコミュニケーション像を、まずはチームで共有せよ。

