「勝てるギャンブルだと思っていました」。自分の直感を信じ、暗号資産の世界に飛び込んだナタリー・ティエン。暗号資産取引所FTXで広報責任者に任命されたが、創設者であるサム・バンクマン・フリードは広報の必要性をまったく信じていない。ところが一度テレビに出演すると、サムの風変わりな振る舞いはたちまち人々を惹きつけていく。巨額のカネを集めた後、破綻したFTXの真相に迫る『1兆円を盗んだ男 仮想通貨帝国FTXの崩壊』(マイケル・ルイス著/小林啓倫訳)から抜粋・再構成。
若い女性を大量採用する暗号資産取引所
サム・バンクマン・フリードのもとで働く人々のほとんどは、明らかに資格や経験に見合わない職種に就いていた。ナタリー・ティエンも例外ではない。彼女は台湾の中流階級で育ち、両親が娘に望んでいたのは、金持ちと結婚することだけだった。小柄で人当たりが良く、従順で、笑うときは手で口を覆う癖がある。彼女は、両親から低く評価されていると思っていた。大学を卒業すると、両親を見返すために、夫ではなく仕事を探すことにした。自分の決断に自信を持てなかった彼女は、採用面接を受ける前には常に、自己紹介文を書いて丸暗記した。最初の就職先は英語教育会社で、完全に退屈な仕事だった。そして2018年、28歳の年に、彼女は暗号資産に出会った。
その前年、ビットコインの価格は1000ドルから1万9000ドルへと、ほぼ20倍に急騰し、日別取引量も正確に把握できないほど大幅に増加した(2017年当時の状況を最も正確に記録していたのは暗号資産取引所コインベースで、彼らの取引量は前年の30倍に急増していた)。アジアの全域で、毎月のように新たな暗号資産取引所が誕生し、ギャンブル参加者にサービスを提供した。
そうした取引所はどこも資金力があり、若い女性を大量採用した。いちばん急成長していた取引所の出した求人には「営業職募集:美人、巨乳、ライブストリーミングの経験あり、2000年以降生まれ、雑談が得意」とあった。2018年には、多くの若いアジア人女性がこうした条件を満たそうと躍起になっていた。しかしナタリーのとったアプローチは違った。彼女は1カ月かけて、暗号通貨とブロックチェーンに関するありとあらゆる情報を読み漁った。そこには「暗号通貨とブロックチェーンは詐欺だと書いてありました」と言う。
ナタリーもそれを心配していたが、いざ業界に足を踏み入れると、今度は別の種類の衝撃を受けることになる。暗号資産に携わる人々のなかに、ビットコインとは何かを説明できる人がほとんどいなかったのだ。それだけでなく、企業のほうも、事業内容とその理由を理解していなかった。取引所が大勢の従業員を雇ったのはカネが余っていたからで、数が多ければ一流の取引所に見えるからだ。ナタリーは自分の能力が無駄になるのではないかという気がしたが、働き続けた。暗号資産が次の重要なビジネスになる予感がしたからだ。「勝てるギャンブルだと思っていました」
すべてが5倍の会社
2020年6月、彼女がアジアで2番目の暗号資産取引所で働いていたとき、FTXの募集を耳にした。他の取引所同様、FTXもナタリーを1回面接しただけで採用し、彼女はFTXの49人目の従業員となる。FTXと他の取引所との違いは、主に経営者であるサム・バンクマン・フリードと他の経営者の違いによるものだった。ナタリーがこれまで暗号資産業界で出会った男性の興味はほぼカネと女性にあったが、サムの興味はどちらにもなかった。もっとも彼の興味がどこにあるかを理解するのには時間がかかった。
ここではすべてが5倍だと彼女は思った。5倍の仕事、5倍の成長、5倍のカネ、5倍の責任。いつも働いていろとか、仕事以外の生活はないなどといわれるわけではないが、普通の生活を送ろうとする人は、ただFTXを辞めていく。ナタリーは残り、FTXの香港オフィスに移って数カ月で、広報責任者に任命された。
それはおかしな話だった。彼女には広報の経験がなかっただけでなく、FTXには広報部門がなかったからだ。「私が入社したとき、サムは広報の必要性を信じていませんでした。それはまったくのナンセンスだと思っていたのです」
ナタリーは当初、ジャーナリストと話すべきだとサムを説得しようとし、ジャーナリストに対しても、サムと話すべきだと説得しようとした。「2020年7月の時点では、サムに興味を持っているジャーナリストはいませんでした。ゼロです」。
暗号資産に対する熱狂は、1637年ごろのアムステルダムを彷彿(ほうふつ)させた。当時はチューリップの球根1個が、レンブラントの絵の3倍の価格で取引されていたのである。FTXで取引される暗号通貨の規模も、日に日に膨らんでいた。ナタリーはジャーナリストとサムに対して、粘り強く働きかけた。
あちこち動く視線の先にあったもの
2021年5月11日の朝、サム・バンクマン・フリードは初めてテレビに出演する。トレーディング用のデスクに座り、コンピューターの画面越しに、ブルームバーグTVの2人の女性リポーターと話した。サムの黒い巻き毛はあらゆる方向に伸びていた。サムの髪形を形容するのに、正確な説明を諦めて「アフロ」と呼ぶ人もいたが、それはアフロではない。ただの乱髪で、サムの外見がすべてそうであるように、こうしようと決めたというより、何も決めないと決めた結果なのだ。
彼はいつもと同じもの、つまりしわくちゃのTシャツとカーゴの短パンを着ていた。むき出しの膝は1秒に4回の速さで上下し、目は左右にせわしなく動き、インタビュアーと視線が合うのはただの偶然。全体的な態度は、居間で両親の友人に引き合わされ、関心のあるふりをしている子どものようだった。
彼は何の準備もしていなかったが、質問が非常に簡単だったため問題はなかった。テロップには「暗号通貨の神童」と出て、画面の左側には、過去1年間でビットコインの価格が500%以上も上昇したことを示す数字が表示されていた。
ナタリーはサムの最初のテレビ出演を自分のデスクから見ていたが、その後のインタビュー中にサムのデスクの後ろに回ったとき、彼の目があちこち動くのは、なんとビデオゲームをしているからだと分かった。テレビの生放送中に! ビデオゲームをするだけでなく、メッセージに返信したり、文書を編集したり、ツイッター(現・X)をやったりしていた。
インタビュアーが何か尋ねると、サムは「ああー、それは興味深い質問ですね」と答えたが、実際には、どんな質問にも興味などなかった。彼がそう答えるのは、ゲームを中断して会話に戻るための時間稼ぎにすぎないことをナタリーは知っていた。テレビの生放送中にどう振る舞うべきか彼女にも分かっていなかったが、このような振る舞いではないはずだ。
それでも彼女は、サムの初めてのテレビ出演のときでさえ、これはうまくいくかもしれないと感じた。サムはテレビで風変わりな振る舞いを見せたが、実生活も風変わりだ。彼に実際に会った人々は、たいてい彼のことをこれまで会ったなかで最も興味深い人物だと思った。彼女は、メディア対応の練習はやめよう、サムからサムらしさを失わせるようなことは何もすまい、と決めた。
マイケル・ルイス著/小林啓倫訳/日本経済新聞出版/2200円(税込み)

