2024年に「囲碁のオリンピック」とも称される国際大会「応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦(応氏杯)」で優勝、日本人として27年ぶりに世界戦メジャータイトルを獲得した囲碁棋士・一力遼名人(王座 天元 本因坊)。時には合計17時間にも及ぶ対局のなかで一手一手を積み重ね、結果だけでなくプロセスそのものを問い続けてきた人物です。どう脳を切り替えて、集中力を意のままに操るのか──その実感を伴った視点から、『 脳をオフにせよ 仕事も人間関係もうまくいく集中術 』(マルク・ティッヘラー、オスカル・デ・ボス著/児島修訳、日経BP)の魅力を紹介していただきます。
高い集中を保つために
集中力は、物事を成功に導くために必要な能力である。ただ、集中力を高めたいと思っていても、具体的にどうすればいいか分からずに悩んでいる人も多いだろう。本書では、現代社会において集中力が低下してしまう4大要因を提示し、深い集中を得るための方法が著者の実体験を交えながら詳細に説明されている。
囲碁棋士にとっても、集中力は重要なテーマだ。1試合にかかる時間は短くても1時間半、2日制の対局では合計17時間以上に及ぶこともある。さらに、1年間で60ほどの対局があり、国内のタイトル戦だけでなく世界大会にも参加するため、国内外の移動が多く、疲労もたまりやすい。そのため、どのように集中力を保つかが勝敗を左右する。
人間が高い集中を保てる時間には限界があり、それを超えるとパフォーマンスは低下してしまうため、持ち時間が長い対局では、集中する時間と休息の時間を意識的に切り替えるようにしている(著者が勧める「頭を空っぽにして生産性を上げる」方法の実践)。そうすることで、勝負を分ける終盤の場面でも脳をクリアな状態に保ち、勝利を手繰り寄せる一手を見つけることができるのだ。
ほかにも、本書で推奨されている内容を実行することでパフォーマンスが上がった例がある。ルーティンの構築は、私も数年前から取り入れ、起床後や就寝前は毎日同じような行動を取るようになった。その結果、以前よりも成績が向上したのだが、それは生活リズムが安定し、十分な睡眠を確保できるという理由だけではない。些細(ささい)なことを考えるエネルギーを減らし、その分の思考力をほかの重要な意思決定に回すことができるのが、ルーティンを決めて実行する効果なのだ(詳しい説明は第1部で)。
世間の「常識」を疑う
『脳をオフにせよ』というタイトルの通り、脳のオンとオフを切り替えて集中力を上げることをテーマとして扱っているのだが、それに加えて、現代社会の仕組みや常識に疑問を投げかける内容であることが特徴的だ。
SNSの発達によって世の中に情報があふれている現代は、1つの物事に集中するのが難しい時代だとも言える。なぜ脳をオフにすることが大切なのか、なぜスマホで新たな情報に触れ続けることが脳に負担を与えるのかについては、本書に出てくる「人は一度に1つのことしか意識的に行えない」という言葉が理由の1つといえるだろう。
著者は、「単純なタスクを2つ同時に行う」ことをマルチタスク、「2つ以上の複雑なタスクを頻繁に切り替えながら行う」ことをタスクスイッチングと明確に区別して定義する。そして、前者に関しては集中力を高めるのに役立つが、後者はそれぞれのタスクへの集中を低下させるとしている。マルチタスクは避けるべきだ、という世間の通説に対し、著者はこのようにタスクの性質に注目して2つの場合に分けて考え、脳の働きを高めるためにはマルチタスクを有効に活用すべきだと主張している。
ほかには、長時間労働についての考え方にも一石を投じている。日本では近年、ワークライフバランスという言葉を聞く機会が増えてきたものの、コロナ禍が終わってから大半の企業が従来の仕事スタイルに戻ったり、高市首相の「働いて働いて働いて働いて働いてまいります」という言葉が、2025年の新語・流行語大賞(年間大賞)になったりと、出勤して長時間仕事をすることが社会のために必要だとする価値観は根強く残っている。
著者はこれにノーを突き付け、「働く時間を減らせば生産性が上がる」と主張し、その根拠となる実験結果、欧州各国の働き方に関する仕組み、睡眠不足がもたらす社会的損失などについて説明している。
興味深いのは、ただデータを示して長時間労働は良くないと述べるだけでなく、なぜ人間は働きたいと思うのかという本能的な部分にまで考察が及んでいる点で、それが主張の説得力を強めることにつながっているのだ。
私自身、以前は思うような結果が出ない時に、ひたすら勉強量を増やす方法を取った時期があった。1日のうち17時間を勉強に費やした日もあったが、そのようなやり方は後で反動が来てしまい、肝心の対局の際に疲れが出てパフォーマンスが落ちてしまった。そして負けると再び猛勉強して……となるのだが、その繰り返しではいつになっても結果は良くならない。
本来、勉強は試合に勝ったり自分の能力を高めたりするための手段なのだが、当時は勉強を長時間することが目的となってしまっていた。不調は数カ月続いたが、心身のバランスを取ることを意識してからは成績が回復し、その後は従来の自己ベストを大きく更新することができた。
「脱集中」で創造性アップ
第2部の冒頭では、「創造性のパラドックス」が紹介されている。これは、創造性を高めるためには「脱集中」が必要で、物事に集中して取り組むのは逆効果であるということを表している。本書でも例が挙げられているように、何かを必死に思い出そうとする時には出てこないのに、別のことをしている時に突然思い出すのは日常茶飯事だ。
著者は集中と脱集中(創造性)の違いを2種類の「注意」に分けて、それぞれの条件が正反対であることを示し、パラドックスの仕組みを言語化している。新しいアイデアを出すためには、デスクで長時間作業するよりも、仕事から一旦離れて脳をオフにすることが望ましい。「創造性は必ずしも時間では測れない」のだ。
より良い働き方を実現するために
2年前、三宅香帆さんの『 なぜ働いていると本が読めなくなるのか 』(集英社新書)という本が話題になった。読書史や労働史を振り返りながら現代の働き方に疑問を投げかける内容で、その主張に多くの人が共感した(私もその一人だ)。最近、このような働き方に対する考察本を書店でよく見かけるので、それだけ関心の高いテーマなのだろう。
本書では、脳の仕組みや集中力に対する観点から、働き方の見直しを推奨している。その主眼は、意識的にオンとオフを切り替えることで、高い集中と創造性を両立させることにある。これは、労働時間だけで生産性を判断する風潮に対するアンチテーゼだと考えられる。
科学的な知見や心理学に基づいた理論だけでなく、仕事上の問題を解決する実用的な方法が数多く紹介されているのも特徴である。
スマホ依存への対処法や重要度の異なるメールへの対応など、個人で今日からすぐに実践できる行動に加え、生産性を高めるための効率的な1週間のスケジューリングや会議の方法など、会社やチームにとって有益なアプローチにも言及されている。著者が住むオランダと日本では労働環境が違うものの、人々が抱える悩みは世界共通であるケースが多く、日本で暮らす人々にとっても参考になる内容となっている。
本書は主にビジネスパーソン向けだが、アスリートや受験生をはじめとする高い集中力を身に付けたい人、さらにはSNSへの依存から脱却するヒントが欲しい人、心理学や脳の仕組みに興味がある人など、多くの人にとってためになる情報が盛り込まれている。
「脳をオフにせよ」という言葉は、現代を生きる私たち一人ひとりへのメッセージなのだ。
