太平洋戦争開戦の翌年、1942年(昭和17年)7月、小林秀雄、河上徹太郎、亀井勝一郎、林房雄ら13人の知識人によって行われた座談会の記録『近代の超克』(冨山房百科文庫)は、一般には日本の知識人が戦争を肯定したと、悪名が高い。しかし、現代の視点で読み直すと、近代西欧科学がもたらした機械文明を巡る激論に目が向く。機械をAI(人工知能)に置き換えれば、そのまま現代の私たちの課題として捉えられよう。

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13人の知識人、座談会の不協和音

 「技術の発展を効果的に遅らせ、対処する時間を確保するのは良いことだ」。米新興AI企業のAnthropicは2026年6月4日、AIの暴走リスクを抑えるには開発の一時停止や減速が有効だと提言した。競合する米OpenAIも政府による監視強化を求めた。

 人間が生み出した最先端の技術であるAIの進化が加速し、人間に牙をむく可能性がある。その制御が必要というのだが、いったん禁断の木の実を食べてしまった人類に、それは可能なのか。そもそも問題の根っこには、近代科学の業のようなものがないだろうか。

 実は先の戦争のさなかの1942年(昭和17年)7月23~24日の両日に行われた、知識人の座談会でも、深刻な問題提起と激論が交わされていた。1943年7月に刊行された座談会の記録が『 近代の超克 』(西谷啓治、諸井三郎、鈴木成高、菊池正士、下村寅太郎、吉満義彦、小林秀雄、亀井勝一郎、林房雄、三好達治、津村秀夫、中村光夫、河上徹太郎、竹内好著/冨山房百科文庫)である。中国文学者である竹内好が座談会を論じた戦後の論文付きで、1979年に復刻されている。

『近代の超克』(冨山房百科文庫)。11本の論文と座談会記録、竹内好による論文で構成されている。画像クリックでAmazonページへ
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 明治維新このかた日本の道しるべとされた西欧文明に対して、小林秀雄をはじめ13人の知性が臨んだ「血みどろな戦ひの忠実な記録」。それが『近代の超克』である。司会者である文芸評論家の河上徹太郎の言う、「開戦一年の間の知的戦慄」が張り詰めている。

 「殆んど自然的の強制力をもって襲ひかゝってくる文明の重圧、機械主義……滅びるか、なほ救済はあるか、これは、今次の世界大戦のもう一つ奥にひそむ戦争である」。文芸評論の亀井勝一郎の問題提起だ。「奴隷の平和より王者の戦争を!」などという亀井の言い回しは、戦後に強い批判の対象となった。

 だが座談会は一枚岩の戦意高揚とはほど遠く、論点は多岐にわたる。「機械文明の方向は無制限に人間生活のスピード化を追つてゐるが、この方向にも危険がある」。朝日新聞記者の津村秀夫がそのようにアメリカニズムを俎上(そじょう)に載せる。襲い掛かる機械主義や機械文明は今に通じる重要なテーマである。河上や小林や作家の林房雄ら、文人たちは顔をしかめるように応じた。

魂は機械が嫌いで、眼中にないのか

河上 精神にとっては機械は眼中にないですね。
小林 それは賛成だ。魂は機械が嫌ひだから。嫌ひだからそれを相手に戦ひといふことはない。
河上 相手にとって不足なんだよ。
 機械といふのは家来だと思ふ。家来以上にしてはいかんと考へる。

 機械と精神(魂)を二項対立させ、機械に対する精神の優位を語る。機械文明の雄である米国との戦争に、心身をこわばらせているからかもしれない。一流の文人たちがそろいもそろってラッダイト運動を起こしているような感じ、率直に言えば陳腐な感じは否めない。

 真正面から異を唱えた哲学者がいる。京都帝国大学で哲学者の西田幾多郎に学び、1941年11月に『科学史の哲学』を上梓したばかりの下村寅太郎である。

下村 それで済まないと思ふ。機械も精神が作つたものである。機械を造つた精神を問題にせねばならぬ。

 下村も属する京都学派といえば、高坂正顕、鈴木成高、高山岩男、西谷啓治の4人の知の巨人による座談会「世界史的立場と日本」があまりに有名だろう。1941年11月26日に行われ、開戦を予見したかのような座談会は、西欧近代の「世界史」の展開の中に先の戦争を位置づける役割を担った。

 「近代の超克」座談会にも鈴木と西谷が加わったが、同じ京都学派に属するとはいえ、下村の視座は大きく異なる。近代科学を生んだ西欧の精神を冷静かつ積極的に評価するところが、「近代の超克」座談会で異彩を放っている。

 下村の発言を機に小林との間で激しい火花が散る。「機械は精神が造つたけれども、精神は精神だ」(小林)、「機械を作つた精神、その精神を問題にせねばならぬといふのです」(下村)、「機械的精神といふものはないですね。精神は機械を造つたかも知れんが、機械を造つた精神は精神ですよ。それは芸術を作つた精神と同じものである」(小林)

 伏線がある。1日目の座談会で下村は「所謂(いわゆる)自然を拷問して自然自身に答へさせる」点に近代科学の際立った特徴を指摘した。よほど印象に残ったのだろう。「自然を拷問して口を割らせるといふ、近代科学をそんなに巧く言った人が他にあるかね」と、小林は膝を打つように繰り返す。「答へさせる」を「口を割らせる」と言い換えたあたりに、自然科学がはらむ冷ややかさへの嫌悪感がにじみ出てはいないだろうか。

 それにしても「機械を造った精神」と「機械的精神」は別物のはずで、ここでは小林が絡んでいる感じがしてならない。「機械を造った精神そのものが問題ですよ」と真正面から反論したうえで、下村が提起する問題は続く。「今まで魂は肉体に対する霊魂だったが……機械を自己のオルガン(器官)とする」のが近代の身体だ。「近代の悲劇は古風な魂が身体に──機械に追随し得ない所にある」

 機械は身体や意識と分かち難い存在になっていく。ここで言う機械の行き着く先にあるのが現在のAIであるように思える。機械つまり最先端の技術は、外側から人間を攻めてくる存在ではなく、人間の手足つまり器官となり、脳や心をも置き換えていく内なる存在なのである。21世紀風に言えば、下村の議論はそう解釈できる。

 司会者である河上が漏らす感想との落差は明らかだろう。「機械が何故精神にとってつまらないか? それは機械の齎(もたら)すエトワス・ノイエスが常に量の問題を出ないからなんです。……機械と戦ふものはチャップリンとドンキホーテがあれば沢山だ」

 エトワス・ノイエス(etwas Neues)は何か新しいことという意味だが、それは単に「量の問題」にとどまるのだろうか。内面化された機械にドン・キホーテのように槍で突進したり、チャップリンよろしく風刺したりするだけで済むのだろうか。下村とともに否と答えざるを得まい。機械を生み出した近代西欧の精神の根本を見据えることなしに、「近代の超克」などあったものではない。

近代科学は魔術と同じ「根っこ」

 「近代科学の実験的方法は本来、自然に於て、或は、自然的に、存在しないものを現出せしめんとする方法」であり、「近代的機械はその所産である」。ここで「自然の作り替へ」を行うような精神の本質は、「魔術」と同じ根っこを持つ、と下村は言う。

 魔術と近代科学? 意外かもしれないが、魔術こそは「運命的必然を前提とする占星術を克服して因果的法則に立脚する実験的方法」に道を開く。そんな逆説がある。そして「近代的な『機械』の形成はかつて『魔術』が意図したものの実現」なのである。『 科学史の哲学 』(下村寅太郎著/みすず書房)には、座談会では語り切れなかったメッセージがあふれている。

 魔術が生んだ実験の精神、そして最先端技術の開発に心血を注ぐ科学的工業家。「科学的工業家の最高の情熱」が注がれるのは「操縦と開拓」なのだが、「尋常人はかかる狭隘(きょうあい)な集注に与しないであろう」。

 確かに文人たちにとって、機械は「眼中にない」(河上)、「嫌ひ」(小林)、「家来」(林)のような存在であり、相手をするのは「チャップリンとドンキホーテがあれば沢山」(河上)かもしれない。だがそうして目を背けているうちに、「いたずらに機械論の狂信者に世界の実験的統治を委ねざるを得ないのである」。

 彼ら、つまり科学的工業家は「人をして飢えしめ、人をして富ましめ、……政府の瓦解を命令することができる」。「近代の権力の所有者」である科学的工業家が、「自分の全能力を十分知悉(ちしつ)」するときには、「新しき専制時代が到来するであろう」──。下村は英国の哲学者であるバートランド・ラッセルのそうした警告を紹介する。

 ここで言う科学的工業家は、今ならさしずめシリコンバレーを舞台とする技術者出身のトップたちだろう。AIはすでに人間と一体化し、人間をつくり変えようとする段階に差し掛かっている。だとすれば、戦時下の座談会におけるスリリングな不調和は、21世紀の今日にも届いている。

写真/スタジオキャスパー

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