イマヌエル・カント『永遠の平和のために』は、高校の授業でも取り上げられる平和論の古典だ。「平和主義のさきがけ」というイメージを持つ人もいるだろう。世界がきな臭さを増しつつある今、1795年に書かれたこの古典は何を伝えようとしていたのか、丘沢静也訳の講談社学術文庫版を中心に見てみたい。
教科書のカントに漂う違和感
カント『永遠の平和のために』は苦手な書物だった。常備軍の廃止や平和連盟の設立といった主張は、日本国憲法9条や国際連合のさきがけである。三省堂書店神田神保町本店で参考書を何冊か手に取ったが、その書きぶりは半世紀前の高校時代に読んだものと変わらないようだ。そんな教科書風の説明は、何となくとってつけた感じが拭えなかった。
だから訳書で100ページくらいというのに、読みさしていた。積ん読の山には、宇都宮芳明訳の岩波文庫(『 永遠平和のために 』、中山元訳の光文社古典新訳文庫(『 永遠平和のために/啓蒙とは何か他3編 』、そして丘沢静也訳の講談社学術文庫『 永遠の平和のために 』がある。この連載という宿題のおかげでほこりを払ってみた。すると苦手だった書物もなかなかの味わい。その感じをどう伝えたらよいか。最近の軽妙な丘沢訳でたどってみよう。
6つの予備条項と3つの確定条項
何よりもカントはお花畑の理想家ではない。「自然状態とは、むしろ戦争の状態である」(第2章 国と国とのあいだで永遠の平和を保つための確定条項)。同じく第2章では「人間の本性は邪悪である」とも言う。トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』の「万人の万人に対する闘争(bellum omnium contra omnes)」を想起させるリアルな人間認識。そこから目を背けることなく、平和を構想しようとするのだ。
その構想は6つの予備条項と3つの確定条項から成る。予備条項が禁止するのは(1)戦争の種を留保した平和条約、(2)独立国の売り買い、(3)常備軍、(4)戦争目的の国債発行、(5)内政干渉の戦争、(6)将来の信頼を毀損する敵対行為、だ。一方、確定条項は(1)共和的な体制による戦争の抑制、(2)自由な国同士の連邦でつくる国際法、(3)他国民にもてなしの心を持つ国際関係、を求める。
面白いのは、(4)戦争目的の国債発行に歯止めをかけようという提案である。国防費が経済的な負担となって生活を圧迫するという問題もある。だがカントが言っているのは、国債発行という借金で軍備を拡充すると、投資を回収するために戦争を起こしたくなるというリアルな洞察だ。国防産業で経済を回そうとする軍需型ケインズ主義への批判にも連なる視点だろう。
戦争のない世界を目指すなら、そんな回りくどいことを言ってないで、個々の国家を店じまいして世界政府をつくればいいではないか。よく出てくる議論である。そうした主張に対して、カントは異を唱える。「どの国も本音では、なんと国際法をさえ理由にして、策略や武力をもちいて諸民族をまとめ、できることなら自分の下におきたいとさえ思っている」。
人間の持つ支配欲からカントは目をそらさない。確かに軍縮交渉はしばしば洗練された国家間の闘争になる。だがカントが世界規模の統治に反対する理由は、そればかりではない。「法は、統治の規模が大きくなると、ますますその重みを失う」「心のない専制政治は、善の萌芽を根絶やしにしてしまう」。
カントが唱えるのはそうした世界政府ではなく、生き生きとした個性を保ちつつ国家が集まった「平和連盟(foedus pacificum)」である。各国が自らの権利を捨てずにその「平和連盟」に集うのは、「ひとつの世界共和国というポジティブなアイデアの代わりに、連盟というネガティブな代理に働いてもらうしかない」。
そして「机上の空論ではなく、どんどん広がっていく連盟だけが、法を嫌う好戦的な傾向の流れを止めることができるのである」。こうした理想を見据えたリアリズムこそが、「世界共和国」の住人たちとは異なるカントの真骨頂ではないか。
内政不干渉の口実を一皮むくと
そう膝を打ちつつ、この本をそのままお薦めしていいものだろうか、というためらいがなお残る。哲学者の書という壁にもまして、ドイツ語から日本語への翻訳という壁がそびえ立っているからだ。例えばカントが永遠平和の予備条項の5番目として挙げる、内政不干渉。この箇所で今回もつまずいた。
いつの世も内政干渉は後を絶たない。干渉を正当化する論拠とされるのが、他国のゴタゴタだ。「干渉の権利」を唱える口実。その口実として、自国に波及しかねない他国の暴動が利用されるとカントは指摘した。ただ原文が同一とは思えないほど、訳文がそれぞれ異なっている。
「一国家が他国の臣民たちに与える騒乱のたぐいがそれである、というのであろうか」(宇都宮訳)
「他国で暴動が発生したら、自国の臣民にも騒動(スカンダル)が発生するというのだろうか」(中山訳)
「たとえば、ある国が他国の臣民にあたえるもの、つまりスキャンダルのせいで?」(丘沢訳)
確かに原文に当たると「Etwa das Skandal, was er den Unterthanen eines andern Staats giebt?」と、スカンダル(Skandal)という言葉が出てくる(https://www.korpora.org/Kant/aa08/346.html)。生成AIのGemini3に聞いてみると、カントが使っているのは聖書(ルター訳聖書)の伝統に基づく「つまずき(Scandalum)」という意味だという。
内政干渉の文脈で「騒乱」や「騒動」と訳す宇都宮訳や中山訳からは、何となく言わんとするところが伝わってくる。一方で丘沢訳はあえて「スキャンダル」という言葉を選んでいるので、普通の日本語の感覚では政治家の汚職や芸能界の不倫騒動のように思えてしまう。訳語の苦労はうかがえるのだが、スキャンダルひとつとってみても、古典の壁は厚い。
カントの主張に戻ると、他国から自国への動乱波及に対する懸念は、フランス革命やロシア革命への列強による干渉戦争の根っこにある。ハンガリー動乱やチェコ事件など東欧諸国に対する旧ソ連による介入の引き金も、社会主義の体制を揺るがしかねない騒動が波及してくることへの警戒心だった。
米国とイスラエルによるイランに対する軍事攻撃にも、そうした動機が働いていたようにみえる。サウジアラビアなど王政のアラブ諸国が米国の側に立つのも、イスラム革命後のイランからの騒動の波及を懸念するからだろう。もちろんイランが別動隊を使いイスラエルを標的にしていた前哨戦は無視できないし、核兵器の開発に対する疑念が募っていたのも確かなのだが…。
絶滅戦争が招くのは「墓場の平和」
お互いに引くに引けないところに来ている中で、切実な意味を持つのが永遠平和のための予備条項の6番目だ。「他国との戦争では、将来の平時においてお互いの信頼を不可能にしてしまうような敵対行為をするべきではない」。
肝心なのは、敵だって人間なのだということを、戦争の最中でも忘れないことだ。「そうでなければ平和を締結することはできないだろうし、敵対行為が絶滅戦争(bellum ininterneinum)になってしまう」。丘沢訳の「絶滅戦争」は、宇都宮訳では「殲滅戦」、中山訳では「相手の国を絶滅させる戦争」。中山訳がイメージを捉えやすいかもしれない。
戦争においては、どちらの側も相手側を「正義のない敵だ」と宣告することはできない。「どちらの側に正義があるのかは、戦争の勝敗によって決められる」。ところが20世紀に入ると、それとはかけ離れた世界が立ち現れた。イデオロギーと宗教、正義の争いが前面に出てきたからだ。
「絶滅戦争では、両方が同時に消え、それとともにすべての正義も消えるから、永遠の平和は、人類の大きな墓地でしか実現しないだろう」。いかにもワサビの効いた言い回しは、「とある教会の墓地の入口に<永遠の平和>という銘が掲げられていた」というはしがきの伏線の回収である。
「だから、このような戦争は、このような戦争に導く手段の使用ともども、絶対に禁止しなければならない」。カントはそう続けるが、人間はそこまで賢明なのだろうか。カントの倫理学の圏外にあるAIが、作戦の立案、攻撃目標の策定、作戦の遂行などで主役の座を担いつつあるからこそ、生身の人間が本書を読み返す必要があるように思える。
写真/スタジオキャスパー
AIと超高齢化、ポピュリズムと全体主義、権力の偏重とタテ社会、人情と情緒、外交と経済運営──。長きにわたって読み継がれてきた古典は、私たちが抱えている課題解決へのヒントになる。ジョージ・オーウェルから有吉佐和子まで、数々の名著を現代の視点から読み解く。「日経BOOKプラス」の好評連載を大幅加筆。
滝田洋一著/日本経済新聞出版/1210円(税込み)

