地政学とは地理と国際政治が交差するところにある学問。米海軍のアルフレッド・セイヤー・マハンによる『海上権力史論』は、19世紀末、内向きになっていた米国人に、海外進出の重要性を伝えた古典であり、今も世界各国の戦略に大きな影響を及ぼしている。英国の地理学者ハルフォード・ジョン・マッキンダーと米国の国際政治学者ニコラス・ジョン・スパイクマンと合わせ、地政学の流れをたどってみたい。
地理と国際政治の交差点
カラーから白黒へ、そして表側をカラーへ。イランを巡る軍事衝突を機にポテトチップスなどのパッケージを白黒に変えたカルビーは、7月9日に表側をカラーに戻すと発表した。その発表文には何と「地政学的リスク」の文字。お菓子も地政学リスクの時代なのである。
株価や為替が上がり下がりするたびに地政学リスクが語られる。もちろん書店には、地政学と題したコーナーに様々な地政学書が並んでいる。地理学と政治学の交差点にあるのが地政学で、特定の地域の紛争が国際政治や世界経済に影響を及ぼすのが地政学リスクだ。
今やいささか安直に用いられている地政学だが、1899年に提唱したのはスウェーデンの政治学者ルドルフ・チェーレン。少しでも感触を得ようとするならば、米海軍のアルフレッド・セイヤー・マハンが提唱した「海上権力(シーパワー)」を避けて通るわけにはいかない。
「政治的・社会的見地から海洋を観察すれば、まず最も明白な点は、一大交通路をなすということである」「水上の旅行や貨物運搬は陸運よりも容易かつ安価である」。マハンの名を一躍有名にした『海上権力の歴史に及ぼした影響』(1890年。一般には『海上権力史論』と呼ばれる)は、こんな海の優位の宣言で始まる。同書の抜粋を収録した『 マハン海上権力論集 』(麻田貞雄編・訳/講談社学術文庫)を見ていこう。
海は陸を隔てる障害ではなく、世界中をつなぐ通路である。海の存在感を力説する本書は、単なる海戦史ではない。南北戦争(1861~65年)以降、国内の産業発展に熱中し、内向きになった米国人の目を海外に向けさせたい。そんな思いがほとばしる警世の書なのである。
「(A)生産、(B)海運、(C)植民地」。この3つが躍動するのが海洋国家である。つまり、(A)生産が増せば、生産物を交易する必要が生じ、その交易のために(B)海運が必要になる。また、(C)植民地を持つことができれば、(B)海運の操業を容易にして輸送量を拡大させ、(A)生産の増加を促す。
海軍こそはこうした循環をもたらすために欠かせない。通商と海軍、経済発展を一体として捉える。そんなマハンの主張は帝国主義の色彩を帯び、後に米大統領となるセオドア・ルーズベルトら海外進出に積極的な政治家たちの背中を押すことになった。
大西洋と太平洋をつなぐ「中米地域を貫く運河」はパナマ運河となって1914年に開通する。ハワイ併合の主張は1898年に実現する。同年には米西戦争の結果、米国はフィリピンを領有するが、マハンはアジア進出の橋頭堡(ほ)としてその重要性を強調する。
米国にとって太平洋の向こうにあるのは日本であり、中国である。1867年に蒸気船「イロクォイ」号の副艦長として上陸し、1年以上も停泊した日本に対する思いは複雑である。
ラフカディオ・ハーンを思わせる筆致で、幕末から維新にかけての街行く人々への共感を語り、明治以降の日本の近代化をアジアにおける唯一の成功事例と評価する。司馬遼太郎の『 坂の上の雲 』(文春文庫。リンクは新装版)にあるように、海軍草創期の秋山真之がニューヨークの自宅を訪ね、教えを乞うたのもマハンである。
その一方で、太平洋をはさんで台頭する日本への警戒心も頭をもたげる。日露戦争(1904~05年)後の1906年ごろに始まった、日本を仮想敵国とした米海軍の「オレンジ計画」の策定に当たっても、マハンの存在はとても大きい。日本から米国への移民の拡大はマハンの黄禍論(黄色人種の台頭を白人社会への脅威とみる考え)に火をつける。
戦前の帝国海軍の基本は艦隊決戦。日本海海戦の勝利の経験と並び、教科書としたマハンの書物が強い影響を及ぼした。日米ともに「マハンのドクトリンを共有していたからこそ、両者の間に一種のミラー・イメージ(鏡像)が形成されて対立が激化」(麻田貞雄)したともいえる。
アジアの大国である中国を巡っても、本音が率直に表明されている。中国をどこか一国が支配することにノーを唱えた、ジョン・ヘイ米国務長官による1899年の門戸開放宣言。マハンはその宣言を踏まえつつ、ロシアという北からの脅威に目を凝らす。
海上勢力と陸上勢力の対立の構図
「今後生起する闘争は内陸国と海洋国との間のものであろう」。1900年に発表された「アジアの問題」(『マハン海上権力論集』所収)はこんな対立軸を提示する。内陸国がロシアなのは言うまでもない。海洋国には米国と英国、そして1902年に日英同盟を結ぶ日本、さらにはドイツまで含まれている。
この対決軸を世界的規模で描き切ったのが、英国の地理学者ハルフォード・ジョン・マッキンダー(1861~1947年)である。ユーラシア大陸とアフリカ大陸を合わせた広大な陸地を「世界島」と呼び、「世界島を制する者が世界を制する」との気宇壮大な世界像を示す。
『 マッキンダーの地政学 デモクラシーの理想と現実 』(曽村保信訳/原書房)は主著。英国の戦略は世界島を支配する大国の登場を阻むことである。「地理学から見た歴史の回転軸」(1904年)でユーラシア大陸の陸上勢力としたのはロシア。それと対峙する海上勢力の代表が英国だ。ロシアへの対抗手段としての日英同盟がくっきりと浮かび上がる。
日英同盟の下で日本は海上勢力の味方扱いと思いきや、論文の文末はこうだ。「たとえば日本人が中国人を支配し、また彼らを組織してロシアの帝国を倒し、その領土を征服したと仮定してみよう」。その場合は「黄禍が世界の自由を脅かすことになる」。
なぜか。「彼らは広い大陸の資源を背景にした上、さらにそれに加えて海の正面を持つことになるからだ」。これまた率直といえば率直である。シーパワーとは7つの海に君臨し、世界中に植民地を持つ英国を盟主とする国際秩序の別名なのだ。
戦後の日米同盟を見越したリアリズム
マッキンダーは米国の国際政治学者ニコラス・ジョン・スパイクマンに強い影響を及ぼす。ユーラシア大陸の陸上勢力が力を増すのなら、それを取り巻く国・地域(リムランド=周辺大陸縁辺地帯)を束ねたらよいではないか。第2次世界大戦後の対ソ封じ込めは、このリムランドを舞台とする。
スパイクマンは第2次世界大戦中の1943年に亡くなるが、戦時中に出版された『 米国を巡る地政学と戦略 スパイクマンの勢力均衡論 』(小野圭司訳/芙蓉書房出版)では、日本についてこんな認識を示す。「日本の海軍力はアジア大陸と太平洋の間、即ちアジアと米国の間に属する。……軍事的な意味での米国のアジア大陸に向けた影響力は、日本の海軍力と敵対するのではなく同盟することでのみ発揮できる」
現に戦火を交えている敵国に対して、戦後を見据えて「同盟」の選択肢を示す。並々ならぬリアリズムである。そして戦後の日米安保体制はスパイクマンの手のひらの上に構築されているともいえる。
欧州から中東、インド、アジアに至るユーラシア大陸沿岸部。リムランドこそが海上勢力の足場となる。アジアでは日本、台湾、フィリピンなどが第1列島線と呼ばれる。スパイクマン流に言い換えれば、「リムランドを支配する者がユーラシアを制し、ユーラシアを制する者が世界の運命を支配する」。
一方で海洋進出を狙う現在の中国にとって、アジアのリムランドが目の上のたんこぶなのは言うまでもない。中国が陸上勢力だけではなく海上勢力としての存在感を増せば増すほど、リムランドを巡る角逐は厳しくなる。地政学は世界の不都合な真実をいや応なく突き付けてくる。
写真/スタジオキャスパー
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