現代社会では「真実」や「美」「善」「正義」について語ること自体が、道徳的に危ういものと見なされつつある――『 テクノロジカル・リパブリック 国家、軍事力、テクノロジーの未来 』(アレクサンダー・C・カープ、ニコラス・W・ザミスカ著/村井章子訳/日本経済新聞出版)は、「自分はこれなのだ」と言い切らないことが中立的だとされる風潮に異議を唱えます。「美醜を感じる心」を縛る「正しさ」の呪縛を、美学者で東京科学大学未来社会創成研究院教授の伊藤亜紗氏が読み解きます。
「審美的判断」は道徳的に避けるべきなのか?
シリコンバレーは、「写真共有やチャットなどちょっとしたアプリを開発」するために巨額の資本と優秀な頭脳を浪費してきた。科学技術は市場ではなく国家とふたたび手を組み、社会や文明を高めるために成長していくべきだ。
そう主張する本書の最終章は、意外にも「審美的価値判断(An Aesthetic Point of View)」と銘打たれている。最終章ということは処方箋が示されているのだろう。美学者としてこれは見逃せない。思わず手に取った。
真実や美や善、あるいは正義について意見表明をすることに対して、現代社会はひどく及び腰になっている、と著者たちは言う。一方には、あらゆる文化に等しく価値を認め、善悪の判断を徹底的に回避しようとする相対主義がある。他方には、文化の差異を超えた普遍的な善を、量的な計算によって弾き出す効果的利他主義の流行がある。
反道徳的なわけではない。いやむしろ道徳的すぎるがゆえに、「自分はこれなのだ」と言い切る知的勇気も信念体系も道徳的判断も共同体への帰属意識も持てなくなっている。自分にとっての善を追求することよりも、正しく中立的であることが優先されるのだ。
この問題意識は、私が『 身体の美学入門 感性から捉えなおす人間の本質 』(中公新書)を書く際に念頭に置いていた問いにも通じている。
「美しい」と感じることに、「正しさ」は必要か
拙著は人の身体の見た目に対して美醜を感じてしまう心の働きについて論じたものなので、ルッキズムを扱っているのではないかと誤解されることがある。しかしこの本で目指したのはむしろ、「正しさの呪縛を超えていく力」を感性のうちに見いだすことだ。
そもそも「美しいと感じるのが正しいから美しいと感じる」なんていうのは不可能だ。もちろん感性にバイアスが潜んでいることは自覚し修正しなければならないが、感性というものはそもそも、法律や道徳のような言語的かつ意識的な活動よりずっと深いところで蠢(うごめ)いている、「本音」の部分に関わる働きである。「根っこ」と言ってもいいかもしれない。
『テクノロジカル・リパブリック』の著者たちが示す処方箋は、個人の自由を尊重しつつも、人がその中で意味のある世界観を確立することができる、共通の目的やアイデンティティを持った共同体をつくることだ。そのような共同体であれば、「何を善とするのか」という判断の基準が共有されているから、ある種の「偏り」としての審美的判断を共有することができる。
必要なのは処世術ではなく信念だ。崇高な目的のためにひとつの道を貫くなら、「データが示す正解」でも「市場が出す答え」でもなく、審美的な価値判断が重要な役割を果たす。「出汁の美味しさ」でも「余白の豊かさ」でも何でもいい。拙著でも、何を良しとするのかの基準を共有することが、共同体にとって強い求心力になると論じた。
問題は、その共同体とは具体的にはどのようなものかということだ。『テクノロジカル・リパブリック』の著者たちは、オーナー企業のような事例もあげているが、基本的には国民国家を想定している。アメリカ人はもっとアメリカ文化について語るべきだ、と。
それは当然、エンジニアが防衛産業のために働き、それを文化が賛美するような構造を生むことになる。そして実際に、著者たちはパランティアの創業者や幹部としてその位置に身を置いている。
だが、審美的判断には人を酔わせ、視野を狭める側面もある。本当に、それは危険なナショナリズムと区別できるのか。国民国家以外の共同体は本当に不可能なのだろうか。拙著でも答えを出せていない問いだが、もう少し考えていきたい。
テクノロジーは社会を変革し、国家を変え、人類を前進させるために使うべきだ。だが現実はどうだ?「世界で最も影響力のある100人」(タイム誌)に選ばれたパランティア・テクノロジーズ共同創業者らが国家、軍事力、テクノロジーの未来を語る。
アレクサンダー・C・カープ、ニコラス・W・ザミスカ著/村井章子訳/日本経済新聞出版

