法政大学の西川英彦教授と花王 化粧品事業部門の池辺順子ビジネスグループ長によるマーケティング対談の後編。データ活用のハードルが下がり、誰もが調査や分析を行える時代になった一方で、統計分析の基礎知識の重要性はむしろ高まっている。マーケターはもちろん、分析結果を基に判断を下す管理職やプロジェクトリーダーにも、データを正しく読み解く力が求められるからだ。西川教授の最新刊『 文系マーケターのためのゼロからわかる統計分析 』を題材に、調査環境の変化や生成AI時代に必要な統計リテラシー、さらには数式に頼らず統計分析を理解するための考え方について語り合った。[日経クロストレンド 2026年8月7日付の記事を転載]
調査の民主化で高まる統計分析の重要性
池辺さんはマーケティングの中でも、とりわけ調査・分析の領域からキャリアをスタートされたと伺いました。
池辺順子氏(以下、池辺) はい。日経リサーチで8年間働いた後、2001年に花王へ入社し、ブランドマーケターとしてヘアケア、スキンケア、ヘルスケア、ファブリックケアの事業に携わりました。
2001年といえば、デジタル高速通信のADSLが普及し、インターネット利用が急速に広がり始めた時期ですね。
池辺 調査手法そのものが変わり始めた頃でもありました。対象者の自宅を訪問して調査票を配布し、後日回収する「留め置き法」から、徐々にインターネット調査へ移行していきました。ただ、当初は回答者にアーリーアダプターが多く、高齢者の割合が極端に少ないなどの課題もありました。
当時は調査の実施から分析までを調査会社に依頼するのが一般的で、費用もかかりました。そのため、本格的な調査を実施できる企業は限られていました。調査データを扱える人材もごく一部だったと思います。
花王株式会社 化粧品事業部門プレミアムブランドビジネスグループ ビジネスグループ長
しかし現在は、企業規模を問わず、自社のマーケティング部門がインタビュー調査やアクセス解析を実施できるようになりました。
西川英彦氏(以下、西川) 調査ツールの進化が大きかったと思います。統計分析ソフト「R(アール)」の正式版がリリースされたのは2000年です。2000年代後半以降、「Googleフォーム」などのサービスが広く利用されるようになり、誰でも簡単にアンケートを作成できるようになりました。ほかにもランサーズやクラウドワークスがサービスを開始するなど、比較的低コストでインターネット調査を実施できる環境が整いました。
池辺 ネット上で情報を収集すると、そのままデータの整理や集計まで進められます。さらに扱いやすい解析ソフトが登場したことで、統計分析の専門知識がなくても、簡単なマーケティング分析であれば自分たちで実施できるようになりました。
以前であれば、マーケターには専門的な知識やスキルが必要で、特別な教育を受けて初めてなれるという印象がありました。
池辺 今でも企業の調査部門や調査会社には、専門教育を受けた調査・分析のスペシャリストがいます。ただ現在は、Web広告の運用やA/Bテストの実施などを担当しているだけでも「マーケター」と呼ばれることがあります。マーケターという肩書の人は増えましたが、誰もが正しい調査や分析に関する知識を持っているわけではありません。
現在のマーケティングは、正しい知識やスキルがなくても大丈夫なのでしょうか。
池辺 マーケターに統計分析の知識が全くなければ、自己流の調査や不適切な方法で分析してしまう可能性があります。その結果に基づいて意思決定を進めてしまうと、プロジェクトの成果に影響を与え、企業に損失をもたらす恐れもあります。
また、統計分析の基礎知識がなければ、生成AI(人工知能)が分析結果を提示したとしても、「その相関は本当にあるのか」「その解釈は妥当なのか」といった基本的な問いを立てられず、結果を適切に評価できません。
西川 統計分析の知識は、グラフ作成やクロス集計を日常業務として行っている人にこそ大きな価値があります。データの見方そのものが変わりますからね。
池辺 大学で統計分析を学んだ人は、社会人になってからも誤りやすいポイントや早計な解釈に気付きやすい。それは大きな強みだと思います。
西川 その通りですね。
文系マーケターでも理解できる統計分析とは
マーケターである以上、統計分析の基礎知識は身に付けておきたいところです。
池辺 それが必要なのはマーケターだけではありません。意思決定者やプロジェクトリーダーなど、マーケティング調査の報告を受ける立場の人にも統計分析の知識が求められます。知識がなければ、分析結果を正しく理解できません。
西川 私のマーケティングリサーチの講義を受講する社会人院生からも、「統計的な根拠に基づく提案をしても、会社の上司や同僚になかなか理解してもらえない」と相談されることがあります。
池辺 私自身、現場が行った分析結果を見て判断する立場です。分析の過程を見ていない状態で「分析の結果、A案を採用したいと考えています」と説明されることもあります。そうしたときに、「このデータは別の解釈もできるのではないか」「この調査にはバイアスが含まれていないか」といった観点から確認や指摘をしなければなりません。
判断を求められる立場の人も統計分析の知識があれば、データの意味や分析結果の妥当性を理解しやすくなり、自分が下すべき判断に自信を持てるようになります。
社会人が統計分析の基礎知識を身に付けるには、どうすればいいのでしょうか。
池辺 そうした意味で、今回、西川先生が出版された『文系マーケターのためのゼロからわかる統計分析』(日経BP)は、とても役立つ本だと思いました。マーケターを目指す学生はもちろん、統計分析を体系的に学ばないまま実務に携わっている人や、分析結果を踏まえて意思決定を行う管理職にも有益な内容です。
西川 ありがとうございます。
この本は日経クロストレンドの特集を起点に書籍化したものですが、特集からは情報量が増えて、内容そのものにも大きく手を加えていますね。
西川 そうですね。まず、統計分析の全体像が分かるように、「記述統計」と「推測統計」に分けて整理しました。また、「効果量」「95%信頼区間」「第1種の誤りと第2種の誤り」「自由度」など、統計分析を理解するうえで重要なポイントも幅広く取り上げました。さらに、マーケティングの事例データを使いながら、統計分析ソフト「R」の操作方法も詳しく説明しました。
内容をかなり充実させる一方で、初稿の段階から大きく見直したそうですね。
西川 はい。書籍では、「文系マーケターのためのゼロからわかる」というタイトルにふさわしく、特集よりも丁寧に説明しようと考え、理解しやすくなるよう、計算式を示し、その中身や計算過程まで丁寧に説明して初稿を完成させました。ところが、その初稿を社会人院生に読んでもらったところ、「そもそも式や数字がたくさん出てくるだけで、難しく感じる」という声がありました。そこで、すべてを丁寧に説明するのではなく、メリハリをつけることが大事だと考え、基本的な計算式は示しつつ、計算式の中身や計算過程についての詳しい説明の多くを思い切って削りました。
法政大学経営学部 兼 大学院経営学研究科 教授
池辺 計算式の説明は、必要であればインターネットで調べれば見つかりますからね。
西川 そうなんです。
統計分析ではさまざまな計算式が使われます。計算式の中身や計算過程を詳しく説明しなくても、理解できるのでしょうか。
西川 基本的な計算式は示していますが、複雑な計算式は極力取り上げず、計算式の細部や計算過程を追うことよりも、文系の読者でも直感的に理解できる説明を心掛けました。その点については試行錯誤しながら、相当、気を使って書いています。
計算式よりも重要な「分析の考え方」
「直感的に理解できる説明」とは、どういうことでしょうか。
西川 例えば、多くの統計分析に登場する「検定統計量」です。一般的には英数字と多数の計算記号で構成された複雑な数式で説明されます。
文系で、数学が苦手な人には頭がクラクラしてしまう部分ですね。
西川 そうですね。「検定統計量とは何を計算しているのか」と疑問を持ったとき、説明の方法はいろいろあります。本書では「検定統計量=差や関係の大きさ÷標準誤差などの基準」と表現しました。こうすると、計算式が苦手な人でもイメージとして理解しやすくなりますし、多くの分析手法に共通する考え方として捉えられます。そのため、各検定では、最低限必要な計算式のみを、できるだけ記号を使わず日本語で示しましたが、計算式の中身を一つ一つ詳しく説明することは避けました。
読者が直感的に理解するためのよりどころとなる考え方は、できるだけ分かりやすく説明するよう工夫しました。その結果、書籍化の過程で、計算式の中身や計算過程を詳しく説明する箇所を絞り、イメージで理解できる説明を増やしました。
池辺 正直なところ、私も計算式の細部まで理解しているわけではありません。相関係数くらいなら分かりますが……。
西川 相関係数の計算方法が理解できていれば十分です。本書でも、相関係数については、図表にして計算過程までを分かりやすく説明しています。
池辺 そうだったのですね。
西川 相関係数の考え方を理解すると、多くの分析手法に登場する指標の意味も理解しやすくなります。ですから、難しい計算式の中身を詳しく理解することよりも、統計分析を理解するための基本的な考え方をつかんでもらうことを重視しました。
池辺 「考え方をつかむ」というのは、例えば、「その分析手法で何を明らかにしようとしているのか」を理解することですね。データから何を読み取り、どう解釈するのかが分からなければ、データがいくらあっても意味を持ちません。統計分析の考え方を理解することこそ重要です。その点で、この本は初学者や実務家にとって非常に有用だと思いました。
意思決定者にこそ統計分析が必要
西川 もう一つ意識したのは、マーケターが直面しやすい課題を事例として取り上げたことです。クーポン施策の効果検証やA/Bテストの分析など、実務で活用できる具体例を用いて解説しています。
また、ビジネスの現場で重要なテーマも積極的に盛り込みました。例えば、「セレクションバイアス」を理解していないと分析を誤る可能性があります。そこから、セレクションバイアスを避けるために、「ランダム化比較対照実験(RCT)が重要になる」という話につなげています。実務で陥りやすいリスクを回避するための知識や事例は、できるだけ盛り込みました。
池辺 調査結果を見て判断する立場の人がこの本を読めば、データをうのみにせず、確認すべきポイントを的確に質問できるようになりますね。
「的確に質問できる」とは。
池辺 例えば、部下からグラフを見せられて「この結果からこの案を採用したいと思います」と説明されたとき、「平均値だけでなく中央値や最頻値はどうか」「外れ値を除いた場合でも同じ結果になるのか」といった具体的な確認ができるようになります。
つまり、この本はマーケティングに関わるすべての人に役立つということですね。
池辺 はい。ぜひ多くの方に読んでいただきたいと思います。
本日は、マーケティングを取り巻く環境の変化から、統計分析の重要性、そして書籍に込めた思いまで、貴重なお話をありがとうございました。
池辺 ありがとうございました。
西川 ありがとうございました。
(文・構成/佐保 圭、写真/村田和聡)
西川英彦、佐保圭(著)、日経BP、2420円(税込み)




