生活者の価値観や行動が複雑化・多様化する中、マーケターにはこれまで以上に深い顧客理解が求められている。では、生活者の本音や潜在的な欲求をどのように見いだし、新たな価値創造につなげればよいのか。『 文系マーケターのためのゼロからわかる統計分析 』を出版した法政大学の西川英彦教授と、花王の化粧品事業部門プレミアムブランドビジネスグループを率いる池辺順子氏が対談。インサイト発見の重要性や、統計分析による仮説検証の考え方、さらに生成AI時代にマーケターが磨くべき視点について議論した。変化の激しい時代を生き抜くためのヒントを探る。[日経クロストレンド 2026年8月6日付の記事を転載]
インサイト発見が調査の出発点
西川英彦氏(以下、西川) 池辺さんは現在、花王の化粧品事業の第一線で活躍されている、業界でも注目のマーケターです。先日、法政大学での私のマーケティングリサーチの講義にゲスト講師としてお招きしました。その際、マーケティングにおけるリサーチの重要性や最新の調査手法についてお話しいただき、とても興味深く拝聴しました。日経クロストレンドの読者であるマーケターやコンサルタントの皆さんにも役立つお話が伺えるのではないかと考え、今回対談をお願いしました。
池辺さんは、現代の生活者の複雑な心理をデータから読み解くマーケティングに定評があります。とりわけ生活者を分析し、インサイトを導き出す手腕は高く評価されています。
池辺順子氏(以下、池辺) と、AI(人工知能)が言っているわけですね(笑)。ありがとうございます。
西川 インサイトは非常に重要です。優れた商品やサービスのマーケティング企画も、マーケターが得たインサイト、すなわち生活者への洞察を起点として構築されます。そして、そこから定量調査を経て、マーケティングの企画が決まります。
池辺 そうですね。統計で扱うデータは定量データが中心になります。定量データで分析すべきテーマをつくり出すのは、個々の生活者のインサイトを得るところから始まります。当たり前のことですが、調査にかけるテーマがなければ調査はできません。そのテーマとなるものは、生活者に対する深い理解をベースにして生まれるものです。
なるほど。では、生活者への深い洞察である「インサイト」を得るには、具体的にどのような分析をするのですか。
西川 代表的なのは、調査対象者との対話や行動の観察を通して、その背景にある理由を読み解いていく定性的な分析です。「N=1」、つまり1対1で対話しながら対象者を深く掘り下げていくデプスインタビューや、対象者の実際の行動や様子を観察して、そこから意味を読み解く行動観察があります。基本的には、その2つでしょうか。
法政大学経営学部 兼 大学院経営学研究科 教授
池辺 そうですね。
1対1での対話や行動観察をするとき、マーケターに求められることはありますか。
池辺 調査する人間に求められるのは、見せられたものを素直に受け取る力です。その力を意識しないと、人はつい自分が見たいように見てしまいます。とりわけマーケターは、自分の立てた仮説や求めている結果に合うように見てしまいがちです。その結果、得られたデータや分析結果にバイアスがかかるリスクがあります。
バイアスのかかった分析結果を基にしたマーケティングでは意味がありません。どうすればよいのでしょうか。
池辺 そこで、自分の解釈や仮説が本当に正しいのかを、客観的なデータで確かめることが重要になります。そのために役立つのが、今回、西川先生が出版された本で解説されている統計分析です。
ニーズとインサイトは何が違うのか
何かを必要とする「ニーズ」と、「インサイト」は何が違うのでしょうか。
西川 インサイトという言葉の本来の意味は「洞察」や「本質を見抜くこと」です。「隠れた本音」や「潜在ニーズ」などと説明されることがありますが、私はこうした捉え方は少し違うと考えています。インサイトはニーズのように初めから生活者の側に存在するものではありません。生活者を見ているマーケターの頭の中で生まれるものなのです。
つまり、生活者の中に「潜在ニーズ」があって、見つかったものがインサイトというわけではないのですね。
西川 はい。本人も気付いていないものを「ニーズ」と捉えた時点で、すでにマーケター側の解釈が入っています。だからこそ、それを「潜在ニーズ」ではなく「インサイト」と呼ぶのだと思います。そして、インサイトを見つけるためには「自分の知識と関連付ける力」が大切になります。
生活者向け商品を扱うマーケターであれば、顧客である生活者が何を考えているのか、なぜそうした行動をしたのかを、自分の知識を総動員して結び付ける力が必要になります。マーケターが持つ知識の幅や量と、それらを関連付ける力量によって、インサイトは生まれたり生まれなかったりするのです。
知識や関連付けることが重要なのですね。
西川 相談に乗ったあるマーケターから「西川先生に言われて行動観察をしましたが、インサイトは全然見つかりませんでした」と言われたことがあります。そういうケースでは、うまくいかなかった理由は大抵、行動観察そのものや生活者側ではなく、観察した側にあります。本当は「あなたの知識の幅や量、関連付ける力に問題があったかもしれない」と言いたいところなのですが、さすがにそうは言えませんでした(苦笑)。
池辺 マーケターにとっては、「調査の対象物や対象者に興味を持つ」ことが本当に最初の一歩ですね。
西川 その通りです。
池辺 興味を持つから観察できるし、発見もあります。同じものを見ても、そこに意味を見いだせるかどうかで、マーケターとしての力量に差がつきます。また、人によって着目するポイントも異なるので、実際の取り組みでは複数人で同じ生活者を観察します。
「あなたはそこに注目したのですね」というように意見交換を重ねると、いくつかアイデアの源泉が出てきて、コンセプトのたたき台ができます。そこで初めて定量調査にかけるタイミングが来ます。「では、どの考え方がより多くの人の共感を得るのか調べましょう」という形で調査が始まるのです。定量調査を始める前の準備段階が非常に重要だと思います。
花王株式会社 化粧品事業部門プレミアムブランドビジネスグループ ビジネスグループ長
社会の変化から仮説を生み出す
池辺さんがマーケターとして普段から心がけていることは何ですか。
池辺 私はずっと「生活者を中心とした価値創造」に取り組んでいるので、その領域の話になります。
お願いします。
池辺 社会や生活の変化は、マーケターとしての私に刺激を与えてくれます。世の中がどんどん変わるということは、新しい提案のチャンスが次々と生まれるということです。その変化を楽しみながら興味深く追いかけるマインドを大事にしながら、それと自分が経験から得た知見を組み合わせて、独自の提供価値へとつなげています。
特別なことではなく、日々自然に行っています。それが結果として、マーケターとしての力になっているように感じます。
社会や生活の変化を楽しみながら追いかけるとは、具体的にはどのようなことですか。
池辺 気が付くと、何かを見ながら考えているという感じですね。例えば百貨店の1階にある化粧品売り場に行って、あたりに貼られたポスターを見てみてください。以前は美しい女性のポスターばかりでしたが、現在は男性を起用したものが圧倒的に増えています。その変化に気付くと、「今はこういうニーズがあるからなのではないか」とか、「男性を見るときは特に肌にフォーカスするから、肌のきれいさを目立たせたいのかな」といった仮説が次々に浮かびます。
「何かが変わった」と感じたときに、「なぜこう変わっているのだろう」「この変化の次に何が起こるのだろう」と考える癖を付けると、日々の生活の中で自分なりの新しいアイデアが少しずつ生まれるのです。
西川 2年ほど前に、「優れたマーケターとは何か」という調査を行い、多くのマーケターにインタビューしました。すると、ほとんどの人が日頃からポスターや電車の中づり広告、テレビ広告など、他社の広告を目にするたびに、心の中でツッコミを入れていました。
池辺 分かります。
西川 「ここがダメだ」とか、「自分ならこうする」とか、「ここはいいが、ここを変えればもっと良くなる」といった具合に、広告を見るたびに山ほどダメ出ししているって(笑)。
池辺 そうそう(笑)。
西川 私のマーケティングのゼミでも、ダメ出しまではしていませんが、学生の要望があり、「この広告の意図は何か」を考えるデコンストラクション(構造を分解して読み解くこと)を行っています。「なぜこの広告表現にしたのか」「背景にどのようなインサイトや戦略があるのか」「どのような構造で効果を生み出しているのか」などを、論理的に読み解いています。
AI時代こそ複雑な現実を見る
では、マーケターになりたい学生や、さらなる成長を目指す若手マーケターは、どのようなことに注力すべきでしょうか。
西川 一つ目は、世の中のあらゆる情報に対して常に「なぜ」「どうして」と考えることです。池辺さんもそうでしたが、優れたマーケターはほぼ例外なく実践していました。ゼミ生が実施しているようなデコンストラクションから始めるのもよいと思います。
二つ目は、さまざまな情報を取りに行くことです。これは一つ目とも関係しています。「なぜ」「どうして」と考えても、それと関連付けられる知識がなければ、インサイトや画期的なアイデアは生まれにくいからです。多様な情報に触れて知識の幅を広げ、それらを関連付けることで、インサイトや画期的なアイデアが生まれやすくなります。生成AIも、多様な情報や視点を得たり、それらを関連付けたりするうえで有効です。マーケターは、生成AIを「抜けている部分もあるが非常に優秀な部下」くらいに考えて、どんどん使い倒していくべきだと思います。
池辺 生成AIについては、私も「使い倒す」という表現が的確だと思います。生成AIに答えを教えてもらうのではなく、自ら使い倒す姿勢で向き合わなければ、オリジナルなマーケティングにはなりませんから。
西川 そうですよね。三つ目は、先ほど池辺さんも説明されていましたが、生み出したインサイトや画期的なアイデアを、客観的なデータで検証することです。そのために役立つのが統計分析です。統計分析の知識があれば、インサイトやアイデアをもとに、データで検証できる仮説を立て、分析につなげることもできます。生成AIは統計分析も支援してくれますが、だからこそ、生成AIが示した分析結果をうのみにせず、その分析が適切なのか、結果をどう読み取るのか、マーケティングの意思決定に使ってよいのかを、自分で判断する必要があります。
では、池辺さんはどんなアドバイスをしますか。
池辺 これからの生活者は、いろいろなことに関して、かなりロジカルに判断できる時代になると思います。生成AIは曖昧な出来事を論理的に整理するのが得意です。しかし、世の中のほとんどのことは本来、白黒はっきりしていません。それでも生成AIは、それらを分かりやすく要約し、整理して提示してくれます。
だからこそマーケターに必要なのは、生成AIが整理した情報をそのまま信じ込まないことです。何でも白黒はっきりしていると思い込まないこと。それは、調査データの分析結果から施策を構築するマーケティングにおいて非常に重要な姿勢です。
確かに生成AIを使う頻度が高まれば高まるほど、勘違いしてしまいそうですね。
池辺 生成AIが扱う元データには、本来さまざまな感情が入り交じり、曖昧さや複雑さ、グラデーションがあります。しかし生成AIはそれらを整理し、論理的で分かりやすい形に変換します。そのやり取りに慣れ過ぎると、「人間とはどういう存在か」「社会はどのようなメカニズムで動いているのか」といった複雑な現実を見失い、物事を必要以上に単純化して捉えてしまう恐れがあります。
そうならないように注意しながら、生成AIを徹底的に使い倒してもらえればと思います。
(次回に続く)
(文・構成/佐保 圭、写真/村田和聡)
西川英彦、佐保圭(著)、日経BP、2420円(税込み)




