長らくデフレに苦しんできた日本に、世界的なインフレの波が押し寄せている。これを機に、異常なデフレから正常なインフレへと移行するためには何が必要なのか。インフレはどのような影響をもたらすのか。マネックス証券チーフ・ストラテジストの広木隆氏に解説してもらった。『 日経業界地図 2023年版 』(日本経済新聞社編/日本経済新聞出版)の巻頭特集から抜粋。

インフレは社会に内包された仕組み

 世界的な問題になっているインフレーションだが、果たして今後もこの状態が続くのだろうか。インフレが続くことを前提にした議論だけでなく、続かなかった場合のシナリオも検討しておくべきだろう。

 今回のインフレは新型コロナウイルス感染症拡大の影響で人が働きに出られなくなったり、物流網が目詰まりを起こしたり、さらにはロシアによるウクライナ侵攻の影響でロシア産の原油やウクライナ産の小麦が流通しなくなったりと、かなり特殊な事情が重なって需要と供給のミスマッチが起きたことが大きな要因となっている。

 少なくともコロナ禍による供給制約は徐々に解消されてきており、このまま需給バランスが均衡状態に戻ってインフレが収まるというシナリオも考えられるだろう。世界の中央銀行が利上げや強烈な金融引き締めを行って、このインフレを必死に押さえ込もうとしており、その効果が出る可能性もある。

 そもそもインフレが存在するのが、国際社会の姿だ。これまでも2~3%の伸び率でインフレが続いてきた。そのような仕組みが社会の中に組み込まれている。

 インフレを当然視する国際的な意識は、不動産賃貸の契約期間を見ても分かる。例えばアメリカなどでは、不動産賃貸の契約期間は2年ほどしかない。2年もあれば世の中の状況は変わり、人々の暮らしも変わっていくため、貸す方も借りる方も長期の契約はしない。そして一定の値上がりであれば、それを許容できる社会になっている。一方、日本の賃貸契約は5年更新のように長期のものもあり、インフレ慣れしていない感がある。だが今回の世界的なインフレをきっかけに、その感覚は変わっていくかもしれない。

アメリカなどの不動産賃貸は2年ほどの契約期間しかない(写真:shutterstock)
アメリカなどの不動産賃貸は2年ほどの契約期間しかない(写真:shutterstock)
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インフレが進まない要因とは?

 コロナ禍以前、世界は低インフレに悩まされてきた。「どうして物価が上がらないのか」という議論が繰り返され、その中でいくつかの要因が見えてきた。

 1つはテクノロジーの進化だ。それにより機械が人間の肩代わりをする作業が増えて生産性が上がり、人の関与が減った分、賃金の上昇を抑えられるようになったためインフレが進まなくなった。

 また人口動態も大きな要因だ。人は高齢になるとあまりカネを使わなくなる。世界で一番高齢化が進んでいる日本が、世界で一番デフレが進んでいることからも、それが分かる。

 さらに世代間の思考も影響している。ミレニアル世代は「モノを買いたい」「所有したい」という欲求が少なく、むしろ「シェアすればいい」と考えがちだ。シェアリングエコノミーでは需要が抑えられ、物価は上がらない。

 そして低インフレの一番の理由として挙げられるのが、グローバル化だ。交通網やデジタルネットワークの普及で世の中が狭くなったため、製造業者は賃金の安い国でモノをつくるようになった。低賃金でつくったモノが世界中に出回れば、全体的に価格は下がっていく。「デフレの輸出」という構造的な要因だ。

 これらの要因は、コロナ禍やウクライナの問題が落ち着いた後もなくなりはしないので、以前のように物価が上がりにくい世界に戻ることも、十分に考えられる。

「マイルドなインフレ」で社会は変わる

 だが最後に挙げた「グローバル化によるデフレの輸出」は、転機を迎えていると言われている。ロシアによるウクライナへの強権的な行為に対しては各国が経済制裁に動いているが、中国による台湾有事が発生した場合、中国とのビジネスを止められる国はどれだけあるのだろうか。

 これまでのような「安いところでつくればいい」という単純なグローバル化はいま、根本から揺さぶられており、改めて地政学的リスクを考え直さねばならない時期に来ているということだ。

 効率以外にまで配慮した経済活動の中では、いまの高インフレが長期に継続するとも、以前のディスインフレの世界に戻るとも考えにくい。着地点としては「マイルドなインフレ」につながっていく可能性が出てくる。日本が世界的な「マイルドなインフレ」状態に近づいていくことになれば、社会は大きく変わっていくだろう。

 世界的な低インフレの中、日本はいち早くデフレに陥り、そこから抜け出せないでいる。ポジティブに捉えれば、世界がインフレに苦しんでいるいま、デフレで苦しんでいる日本には、ジャンプアップの大きな伸び代があると考えられる。異常なデフレから正常なインフレに移行できれば、日本にとって大きな転換点になるだろう。

デフレ思考がインフレを妨げている

 2013年4月、日本銀行の黒田東彦総裁は異次元緩和を打ち出した。「貨幣の量を2倍に増やし、2年で2%のインフレを達成する」という「2・2・2」を大々的にアピールしたが、これは思惑通りにはいかなかった。確かに膨大な質的・量的緩和が実施されたが、インフレ率は高まらず、日銀批判につながった。

 なぜ異次元緩和が機能しなかったのか――。2015年、日銀自身が検証を行って中間報告を出している。その中ではインフレが進まなかった理由が、日本人の気質にあるとされている。

 日本人は過去の体験に縛られる、いわば粘着性の高い発想をする傾向にあり、「いままでずっとデフレで、物価が上がることはなかった。だからこの先も上がりっこない」と考えているというのだ。確かに身近なところでは、自動販売機の飲料は(消費税が加算されているとはいえ)ずっと100円のままだという事実に思い当たる。物価が上がったという経験がない人は、物価が上がることを頭で理解できない。そのため期待インフレ率が高まらない。「鶏が先か、卵が先か」という問題のようだが、「人々がインフレになると思わないから、インフレにならない」状況を変えるには、いかに人々のインフレ期待を高められるかが重要だ。

 いま、日本でもガソリンや食料品が値上がりしているが、それは国内での需要が高まっているからではなく、海外の物価上昇の影響を受けているからにすぎない。しかし理由はどうあれ、日本にもいよいよインフレがやってくるとなると、人々のマインドは変わり始めるだろう。実際、その兆しがあることを示す調査結果はいくつもある。重要なのはデフレからインフレに変わるとか、物価が上がるということではなく、人々の思考が変わることだ。

足元で物価の上昇がじわりと広がっている
(出所)『日経業界地図 2023年版』
(出所)『日経業界地図 2023年版』
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 デフレ思考とは、「モノの値段はいずれ安くなる、だったらいま買わずに現金をキープして、安くなったら買えばいい」という考え方で、思考停止・行動停止で現状維持を図ろうとするものだ。こういう発想ではカネを使わず消費もしないから、ますます景気は悪くなり、さらにデフレが進むという悪循環から抜け出せない。一方、「時間が経てば価格が上がる。だったらいまのうちに買っておこう」というのがインフレ思考だ。

 「日本人には金融リテラシーがないから、教育をして貯蓄から投資に向かわせなければならない。ゼロ金利にもかかわらず、個人資産2000兆円の約半分を預金として眠らせておくのは馬鹿だ」という意見があるが、これは間違っている。

 実は日本人は損得勘定に長(た)けていると、筆者は思う。ゼロ金利であっても、デフレが続けば物価が下がっていく、つまり実質金利はプラスに動くのだから、現金で持ち続けるのが正解なのだ。そしてインフレになれば現金の価値が目減りしていくことも、多くの日本人は肌感覚で分かっているはずで、おそらくカネは動き出すだろう。デフレの中でためにためた1000兆円の現金が、わずかでも株式に向かえば大きなパワーになる。岸田文雄政権も、資産所得倍増プランをまとめると言っている。政府が投資整備をしてくれれば、個人投資が活発になる可能性は十分にある。

 ここに日本のアドバンテージがある。世界の中でインフレを前向きに捉えられるのは、日本だけなのだ。コロナ禍が落ち着けば、ペントアップ需要(コロナ禍で押さえ込まれていた需要)もどっと出てくることになる。旅行、消費、結婚といったイベントを「デフレやインフレに関係なく、いまここでやらないと、いつまたパンデミックが来るか分からない」という思いから、人々は自然と「コロナ禍が収まっているうちに、行きたいところに行って、やりたいことをやっておかなければ」というインフレ思考になっていくだろう。こうした考え方の変化は、現状維持だった日本が変わる大きなチャンスになる。

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