長らくデフレに苦しんできた日本が、正常なインフレへと移行するためにはどうすればよいのか。岸田文雄政権が打ち出す人的資本への投資は企業価値を向上させ、賃金の上昇を通じてインフレへの足がかりとなる。マネックス証券チーフ・ストラテジストの広木隆氏に解説してもらった。『 日経業界地図 2023年版 』(日本経済新聞社編/日本経済新聞出版)の巻頭特集から抜粋。

老朽化インフラにチャンスがある

 前回 「広木隆 正常なインフレへの移行、日本にアドバンテージあり」 で、コロナ禍が落ち着けば、日本はインフレに向かうだろうと述べた。日本で昨今、多発しているインフラのトラブルも、デフレからインフレに向かうチャンスだと言える。電力の逼迫、通信障害、銀行システムの停止、高速道路の老朽化などに危機感を持ち、それをバネに動き出すことが重要だ。

 ここまで問題を放置していたのは、デフレマインドに絡め取られて「現状維持で良し」としていたからだと思われるが、インフレになれば「すぐ解決に取り組まなければ」という考えに変わる可能性もある。課題先進国とも評される日本には、それだけ課題克服のための技術や施策への需要があるため、大きなビジネスチャンスだ。

 例えば電力需要に対して、とあるベンチャー企業では大規模な蓄電池工場の建設に着手した。ここでは洋上風力で起こした電気を運ぶ電力運搬船用の蓄電池の他、EV用蓄電池などを製造し、その生産能力は年間で原発5基分にもなるという。再生エネルギーはためておくことができないのが最大のネックだったが、こうした技術・事業が成功すれば、有効なエネルギーミックスの実現に近づくかもしれない。

 高齢者に関する問題解決も、需要の1つだ。自動車のアクセルとブレーキの踏み間違いを防止したり、自動運転を具体化したり、過疎化した地域での公共交通を見直したり、様々なビジネスチャンスが見つけられる。

 さらに金融業界でも古い体制を打破する動きがある。銀行と証券の境をなくそうというものだ。岸田文雄政権が打ち出している資産所得政策が効果を発揮すれば、貯蓄から投資への動きが盛んになるだろうが、その時、銀行・証券に壁があるのは不都合だからだ。個人資産が動き出すのを触媒として、地銀も巻き込んだ金融大再編が、この数年内に起こっても不思議ではない。

企業価値を向上させる人的資本への投資

 また岸田政権では、人的資本への投資を政策の1つの柱としている。

 現代のビジネスは、鉄鋼やセメントのような装置産業で経済を動かす重厚長大なものではなく、GAFAやFANGに代表されるように形のないもの(クラウド、eコマース、メタバースなど)で付加価値を生むというのが主流だ。不動産、工場、設備といった有形資産よりも、創造性や技術力、特許やブランドなどの無形資産が企業の価値を決める要素となっている。こうした無形資産を生み出すのは人間の頭脳に他ならず、人は資本だという考えに結びつく。

 かつて人間は労働力であり、人件費を必要とするコストでしかなかった。それゆえ、不況になるとリストラが繰り返されてきた。だがこれからの時代、それでは企業は成長できない。企業が生き残れるかどうかは、優秀な人材を雇うだけでなく、教育研修費をかけて、やる気や能力を引き上げることも必要になってくる。最近では「従業員のモチベーションを引き上げられたら、役員ボーナスに反映する」という方針を打ち出す企業もあるが、文字通り「人こそ宝」の時代になってきているのだ。そして優秀な人的資本を豊富に持つ企業こそが、優良企業と見なされるようになっていくだろう。

 その企業が優良かどうかを見極めるためには、「どれだけ人を大切にしているか」「在籍している人材がどれだけ優秀か」を測る指標が必要となってくる。2022年、政府が示した指針が、図表の「人的資本への投資情報の開示基準」だ。企業が開示すべき人的資本に関する情報、開示が望ましい情報を示している。こうした情報が開示されれば、その企業の人的資本がどの程度充実しているのかが外部からも見えるようになるため、企業はブランド力を守るためにも、人への投資について真剣に考える必要が出てくる。

人的資本への投資情報の開示基準
(注)2022年6月時点の政府案 (出所)『日経業界地図 2023年版』
(注)2022年6月時点の政府案 (出所)『日経業界地図 2023年版』
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 筆者の分析(*)でも、人的資本はコストではなく付加価値を上げる源泉になることが明らかになっている。東証に上場している主要企業の5年分の人件費と株価との関係性を探ってみると、人件費が高い企業の方が株価のリターンが高いという結果が出た。多額の人件費を払えば利益が圧縮され、株価は高くならないという考えが覆された。

* 2022年6月、日本ファイナンス学会で広木隆氏が発表した論文「人的資本と株価リターンの関係―人的資本が付加価値創造へ及ぼす影響度―」

 この傾向がはっきり出たのが、加工組立産業だ。自動車・電機・機械など、日本を代表するリーディング企業が含まれているため当然と言えば当然だが、人的資本と株価リターンの関係性は素材産業よりも明確だった。

 こうした事実が日本全体で知られるようになれば、人的資本投資が活性化する機運がますます高まっていくのではないかと考える。そして人への投資が大きくなるということは賃金の上昇につながり、インフレへの足がかりにもなるということだ。

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