慶応義塾大学の教授をつとめながらEconomics Design Inc.を立ち上げ、経済学のビジネス活用という新産業を築いていく坂井教授。自身の研究遍歴から、経済学のビジネス活用のメリット、コツ、必要な知識の身に付け方まで語ってもらう。 『使える!経済学 データ駆動社会で始まった大変革』 から抜粋・再構成してお届けする。

寿司の配達で知った、個人と集団の差異

──坂井先生が経済学の道に進んだ経緯を教えてください。

 私が学部生だった1990年代半ばは、薬害エイズ問題が大きな社会問題になっていました。私自身も抗議運動に参加し、厚生省(当時)の周りをデモで取り囲んだりしていました。当時は菅直人さんが厚生大臣で、厚生省内部を徹底調査し、非を認めるということをしていた。

 そのころ私は虎ノ門のお寿司屋さんでアルバイトをしていて、厚生省に出前の寿司を届けに行くことがありました。夜9時過ぎても厚生省のビルはほぼ全部明かりがついていて、役人の方と少しですが話す機会があるわけです。そして「これくらいしか楽しみがないんだよ」などと、ぽろっとこぼすんですよね。

 当時、デモで取り囲んでいるときは厚生省を悪の巣窟のように思っていたのですが、中にいる個人は悪者ではなさそうだ。いったい集団とは、組織とは何なのだろうと思いました。

 これが投票や多数決など、意思決定の仕組みを解明しようとする「社会的選択理論」に強い関心を持つ1つのきっかけになりました。複数の個人的選択と、それらを1つに集約した社会的選択は、連続していない。こういう問題意識はいまもずっともち続けています。

──オークションやマーケットデザインの研究のきっかけになる出来事があれば教えてください。

 私が書いた本で最も広く読まれたのは 『多数決を疑う』 (岩波新書、2015年)です。これは多数決や投票の方式を論じた入門書で、この本をきっかけに、議員、社会運動家、政治家、財界人など、様々な方々と話をする機会を得ました。

 でも、投票の仕組みについてどんなに言葉を尽くしても、もちろん世の中は変わらない。投票の仕組みや選挙制度を変えるには公職選挙法を変えなければならないので当然なんです。この公職選挙法を変えられるのは与党ですが、彼らには自分たちを与党にした選挙制度を変えるインセンティブ(動機)はありません。

 私は自分の研究を世の中で活用してほしいと強く思ってきました。新聞記者に、世論調査で「どの政党をいちばん支持しますか」と聞くのではなくて、「どれが1番で、どれが2番、3番か」という聞き方をしましょうとも訴えていた。でも世論調査の手法は固定化されていて、記者個人は面白いと感じても、組織内で新しい仕組みを導入しようとはしない。まあ、それで(記者の)給料が増えるわけではないですからね。

「私は自分の研究を世の中で活用してほしいと強く思ってきました」という坂井教授
「私は自分の研究を世の中で活用してほしいと強く思ってきました」という坂井教授
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 そんなとき研究に関心を持ってくれたのがスタートアップ企業でした。彼らは、特にオークションに注目していましたが、オークションは金銭に直結する学問なので、ビジネスとの相性がとてもいい。そのうち不動産やNFT(非代替性トークン)、金融商品のオークションなど、学知のビジネス実装に関わる機会が増えてきました。いろんなメディアや自著でひたすら発信を続けていたのがよかったと思います。

「経済学コンサルテーション」が不可欠に

──経済学の社会実装は、今後どのような形で進むでしょうか。

 データサイエンス系の領域では、経済学的なデータ分析が必須になるでしょう。同じサービスを展開している2社がある場合、顧客データ分析の精度によって、結果に大きな差が出ます。ライバル企業が経済学の知識を使っていると、使わない企業はとても不利になります。

 現在、商品やサービスのレーティングの案件に多数関わっていますが、ロジックが非常にかっちりした関数を作っています。点数に高い説明責任を果たせるということです。レーティングというサービスは、点数を付けられる側からの訴訟リスクが高いのですが、これを減らせるはずです。極端な話、法廷で、私自身が正面から理屈を説明できます。

 オークションも同様で、きちんと設計されたオークションで売ると、なぜその価格になったのかが明瞭に分かります。例えば法人で不動産を購入するときは、オークションだと社内や株主に対して、なぜその価格になったのか説明責任を果たせます。この「説明責任」という学知の利点は、通常教科書には出てこないものです。

 いまは「経済学コンサルテーション」という産業が急成長しています。これからのコンサルテーション企業は、そのような部門をもつことが不可欠になると予想しています。その際には、手前味噌ですがエコノミクスデザインのように、トップクラスの経済学者が集うチームに優位性があると考えています。

お客様の気持ちが想像できる経済学者

──経済学のビジネス実装に携わる人に向いている資質はありますか。

 お客様の気持ちを想像する習慣をもつことが重要です。その習慣をもてるかどうかには、多少の資質が関わると思います。相手から見て自分は信頼できるだろうかとか、いま何を不安に思っているだろうかとか、常に気を配ること。その際、希望的観測は外れているものなので、悪いケースを前提に行動しないといけません。

 学者は「結果さえ出せばいい」と考えがちです。でも結果を出すのは当たり前で、プロセスで「いまここまでできています、こんなことが分かりました、ここでつまずいています」と丁寧に伝ないといけない。でないとお客様は不安になったり、不信感をおぼえたりします。そういう心理を想像することを、息を吸うようにできないといけない。こういうのは言うは易(やす)し、行うは難(かた)しですが、絶対にやらないといけません。

──ビジネス実装がうまくいかないケースもあるのでしょうか。

 あくまで私の場合でいうと、学問レベルでは基本的にありません。案件化する時点で、自分の頭のなかでは、かなり問題が定式化できているんです。問題は定式化さえできれば、何らかの形で解けるものなんです。それに、自分が世界で初めて直面する問題なんてないんですよ。必ず参考になる過去例がある。丁寧に既存研究をサーベイ(調査)すると、自分の課題に何らかの形で答えてくれる文献は必ず見つけられます。

 では、どこで失敗しうるかというと、対人でのことです。信頼してもらえないとか、警戒されるとか。それは見ず知らずの研究者なんて、信頼できないし、警戒はしますよね。

 だから、ここは私も必死です。とにかく一人の人間として、個々のお客様個人と向き合わないといけない。そして、願わくは好感をもっていただきたいのと、それができずとも「ひとまずはこいつのことを認めてやるか」と思っていただかないといけない。

 専門知や技術の前に、買っていただくのは自分なんです。お客様というのは、結局私に賭けてくださるわけです。その賭けの意気に平身低頭で感謝する、きちんと報恩するというのが、ビジネス実装のすべてだと思っています。

「エモい」物語を生み出す教養

──マーケットデザインを学ぶうえで、おすすめの本があれば教えてください。

 自分の本になりますが、 『そのビジネス課題、最新の経済学で「すでに解決」しています。』 (日経BP、共著)と 『マーケットデザイン』 (ちくま新書)です。後者は2013年の出版当時、世界初のマーケットデザイン入門書だったと思いますが、今でも内容は本質的に古びていないはずです。

──社会実装のうえで経済学以外にこんな知識が(意外と)役に立つということはありますか。

 私の場合は、政治哲学や法哲学の教養です。私はこれらを長く勉強し続けていて、もちろんプロには遠く及ばないのですが、それがビジネスで役立っています。例えば、(インド出身の経済学者)アマルティア・センのケイパビリティ(潜在能力)の概念を、人事評価のサービス設計に生かすとか。あるいは(社会契約論で著名な)ルソーの「一般意志」のような概念を使って、サービスの物語を組み立てるとか。「エモい話」は伝わる力が強いです。

 あとは文章力です。ウェブサービスでは説明文が大切です。手前味噌になりますが、私は自著が国語の教科書に所収されていますし、物書きとしてはわりと成功しています。その作文技術をウェブサービスでの文章作成に使うと、お客様に喜んでいただけます。

経済学は「金もうけにも使える」

──経済学は社会全体の厚生を高めるための学問であるという考え方があります。一方、社会実装では、実際のビジネスに役立つことをやろうします。先生はその2つを、どう結びつけているのでしょうか。

 これまで経済学者は「経済学は金もうけのための学問ではない」という言い方で、ビジネスから逃げてきた面があると思います。まあ経済学は「金もうけのため」だけではないですけれど、「金もうけにも使える」と言えるほうが格好良いし、親切ですよね。経済学は色々な対象を扱いますが、お金は最重要な対象のひとつなのだから。

 そもそも他者に価値を提供しないとお金はいただけないものですし、人々の金もうけによって社会はなんとか維持されています。私はそこにきちんと向き合って、経済学をビジネスの道具としても深化させたいと思っています。

Economics Design Inc.を立ち上げ、コンサルティングと教育に活躍する坂井教授
Economics Design Inc.を立ち上げ、コンサルティングと教育に活躍する坂井教授
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写真/坂井豊貴教授提供

広がるビジネス・社会活用の実例と手法を紹介!

経営、マーケティング、人事、各種制度設計、医療・健康などで急速に進む経済学の社会実装の世界を紹介。研究と実践の両方で活躍する8人の研究者、坂井豊貴、渡辺安虎、成田悠輔、仲田泰祐、野田俊也、上武康亮、小島武仁、井深陽子が執筆。

日本経済研究センター編/日本経済新聞出版/2200円(税込み)