アマゾンジャパンの経済部門長から東大教授に転じた渡辺安虎氏。企業でのビジネス活用から、データプロダクツの開発、政府のEBPM(エビデンスにもとづく政策立案)や競争政策関連の分析まで、経済学の社会実装を幅広く展開する東京大学エコノミックコンサルティング(UTEcon)をけん引する。自身の研究遍歴から、日本における社会実装の現在地、今後予想される展開まで語ってもらう。 『使える!経済学 データ駆動社会で始まった大変革』 から抜粋・再構成してお届けする。
「経済学のビジネス活用」の可能性を実感
──渡辺先生が経済学の道に進んだ経緯を教えてください。
学生時代は、経済学部でミクロ経済学の授業などを受けて、そのおもしろさに触れてはいましたが、大学院には進まず、1998年に日本の開発援助機関(特殊法人統廃合で今の国際協力機構(JICA)の一部となった海外経済協力基金)に就職しました。
当時はちょうどアジア通貨危機が起きたころで、私はインドネシアとマレーシアの担当部署に配属されました。そこで働くうちに、世界銀行や国際通貨基金(IMF)のエコノミストが提示する非常に極端に思える政策パッケージや、それをそのまま受け入れ協調融資をする日本政府の対応に疑問を持つようになり、ワシントンにいる世銀やIMFのエコノミストは何を考えているのだろう、彼らと議論(というか、真正面から反論)できるようになりたいと思って、留学して経済学の博士号を取ることにしました。
留学先では、政治や法律の制度がどのように経済行動に影響を与えるか、ミクロデータを使って研究する分野を専門とし、「医療過誤訴訟における交渉」をテーマに博士論文を書きました。交渉過程をゲーム理論的にモデル化して、それがデータに当てはまっているかを検証するのです。
訴訟は和解できなければ最終的に裁判に至りますが、それまでは和解交渉をしており、大半のケースは和解で解決します。そのため、経済学的に交渉をどのようにモデルにするのか、交渉の制度を変えたり弁護士費用の負担方法等を替えたりすると交渉期間や和解金額がどのように影響を受け、最終的に裁判になるケースがどれくらい増えるのか、といった問題を博士論文では扱いました。
その後、米国のノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院で経営戦略論を教えるようになりましたが、ちょうどその時期に研究してきたことが徐々にビジネスの現場でも使われてきたこともあって、自分のやっていることがビジネスに役立つのではないかと感じるようになったのです。とくにJR東日本ウォータービジネス(現ウォータービジネスカンパニー)と行った駅の自動販売機のプロジェクトでは、あらためて経済学のビジネス活用の可能性を実感しました(編集部注:このプロジェクトについては日経ビジネス電子版のオンラインゼミナール「 最先端の経済学で明かす『今日売れるのはホット飲料か、コールドか』 」で紹介されています)。
その後、香港のビジネススクールにいるときに声をかけてもらいアマゾンジャパンに移籍し、その実感が当たっていたことをつくづくと感じました。その後、東京大学へ移籍し、2020年からは東京大学エコノミックコンサルティング株式会社(UTEcon)の取締役も兼任していますが、この実感は非常に強く、日々楽しく仕事をしてきたという感じです。
アマゾンでたたき込まれた顧客第一主義
──UTEconが株式会社であることのメリットはどのあたりにあるのでしょうか。
一般的な研究活動との違いでいうと、例えば大学研究者との共同研究では、研究者としてはそれが自分の研究にどう役に立つかを当然重視するのに対し、会社では、お客様の要望が最優先で、それに合わせてさまざまな経済学の道具のなかから最適なものを提供するという点で、根本的に違いがあると思います。また、研究者が1人でできることは限られていますが、組織として複数のメンバーが集まると、実現できることがはるかに広がるというメリットがあります。
──アマゾンでエコノミストとして活躍された経験が生かされているのでしょうか。
アマゾンは徹底した「顧客第一主義」で、常にお客様のことを考えながら仕事をすることをたたき込まれました。これは外向きにそういうということではなく、文字通り組織の隅々までこの考え方が徹底されていて、エコノミストも常にお客様のことを考えながら仕事をしていました。データ分析や経済学的な分析という組織内の意思決定のために使う分析であっても、徹底していました。
どんなに難しい意思決定の局面でも、お客様のためになるということを第一原則にし、そのような意思決定を支えるために分析をするという考え方は、非常に勉強になりました。研究でも読者を想定しながら、その分析が面白いか・重要かということを考えながら分析して論文を書きますが、この面白いか・重要かという部分が、「お客様のためになるか」「お客様の役に立つような意思決定をサポートできるか」と置き換わる感じでした。
行政データ利活用の改善を突破口に
──経済学の社会実装は今後どのようなかたちで進むとお考えでしょうか。
公的部門ではこれまで以上に、本来政府部門が所有しているデータをどう活用していくのかが重要になっています。EBPMの議論が始まった当初に比べ、政府内でもこうした見方が少しずつ広がってきたことはすばらしいと思います。このような見方の広がりという意味では、とくにコロナ禍という難しい社会状況が合意形成を広く浸透させたといえます。もちろん、思うようにいかないことも多々ありますが、行政データの扱い方についてさまざまな議論がなされ、どのような問題点があるかについては関係者間で共有されつつあるのではないかと思います。
問題は実際に行政データを整備・活用する動きが遅々として進まず、統計データを作るもとになっている個票の利用手続きについてもきわめて時間のかかる煩雑な手続きが必要なことです。大きな考え方はよいと思うので、あとはきちんと行政データの利活用が進むように実際の手続きが進んでいけば、経済学的な分析の社会実装はさらに進むのではないかと期待しています。
一方、民間企業に関しては、実際に役立つかどうかという判断基準に沿ってさまざまな実例が増えることで、社会実装が進んでいくでしょう。計量経済学的なデータ分析、オークション、マッチングなどのマーケットデザイン分野など、民間企業の場合、役に立つ領域がはっきりしているので、どんどん使うことで、さらに社会実装が進むのではないかと考えています。
技術的に日本が後れているわけではない
──世界と比較した場合の、日本の状況や課題についてお聞かせください。
何を比較したいかにもよりますが、分析について技術的に著しく後れているということはありません。経済学が実際に役立つことは一般にも知られるようになりつつあり、例えば我々のUTEconの活動では、フロンティアの研究者が直接アドバイスを提供したり知見を共有したりすることができます。それをこれからどう活用してもらえるか、という言い方もできます。
最近はそうした認識も共有され、状況は徐々に変わりつつあります。世界との比較でいうと、やはり米国や中国のテック企業の進展は目覚ましく、そのあたりはお国柄の違いもあるかもしれませんが、日本の企業や政府部門にはより積極的に新しい考え方や技術を試す姿勢を持っていただけるとよいかなと思います。
──経済学の社会実装に携わる人に向いている資質はありますか。
技術的な側面だけでなく、情熱を持ち続けられること。そして、完璧を目指しすぎないことも大切です。社会実装を進める際に、最初からいきなり完全なものはつくれません。アカデミックな知見を活用しつつ、特にプロジェクトを進めるうえではまずはきちんと動くものをつくって、それを改善していくという発想が必要です。
アカデミアではつい完璧を目指そう、100のうち99や95を目指そうと考えがちですが、社会実装においては、実際に使えるものをつくるだけでも役立つことは多い。完璧を目指して難しくするより、まずは使えるようにしたうえで、少しずつ改善していくという考え方ができる人は向いていると思います。この分野で、工学的な意味合いが強まってきたことも関係しているかもしれません。
難しく考えず、気軽に相談を
──UTEconなどに相談する際のヒントがあれば教えてください。
「経済学の社会実装」という言葉に難しさを感じられる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、意思決定に困ったとか、意思決定が改善できそうだ、ということから、まずは気軽に相談していただきたいです。
「東京大学エコノミックコンサルティング」という名称で敷居が高そうな感じがするかもしれませんが、まったくそんなことはありません。我々の仕事は、問題がどこにあるのか、どうやってそれを経済学の道具立てを用いて改善できるのかを見つけ出すことなので、問題がどこにあるのかわからないという状態でご相談いただくのが、一番我々がお役に立てるように思います。
なので、経済学の道具を勉強していただいたうえでご相談をいただくというよりも、むしろ我々に相談いただきながら、どんな問題があって、どのように改善できますということをご提案することでお役に立ちたいと考えています。
──経済学の社会実装について知りたいビジネスパーソンや経営者の方々に、メッセージをお願いします。
経営者やビジネスパーソンは、ご自身が直面しているビジネス上、あるいは政策上の課題について、我々との対話を通じて、こうやって使えるのかという感じをつかんでいただければ幸いです。UTEconでは、問題があまり定まっていない状況でも、ご相談いただければ、国内外から最良のエキスパートを連れてきて、問題は実はこういうところにあるのではないかというご提案もできますので、実際のプロジェクトを通して知っていただくのがベストではないかと考えています。
写真/小野さやか
経営、マーケティング、人事、各種制度設計、医療・健康などで急速に進む経済学の社会実装の世界を紹介。研究と実践の両方で活躍する8人の研究者、坂井豊貴、渡辺安虎、成田悠輔、仲田泰祐、野田俊也、上武康亮、小島武仁、井深陽子が執筆。
日本経済研究センター編/日本経済新聞出版/2200円(税込み)