英語もできない。起業家の友人もいない。シリコンバレーとは縁もゆかりもない——。山梨の田んぼに囲まれた町で、バスケットボールに夢中だった少年は、なぜ単身アメリカへ渡ることになったのか。今回はその2回目。著書『 シリコンバレーによろしく 』を発行したAnyplace創業者・内藤聡さんの原点を、少年時代からシリコンバレーを目指すまでの歩みとともにたどる。
田んぼに囲まれた町で育ったバスケ少年が起業家に
僕は生まれも育ちも山梨です。学校も、高校まではずっと公立。周りには田んぼしかないような環境で、毎日バスケばかりしている子どもでした。英語はむしろ苦手科目。将来アメリカに渡り、ましてやシリコンバレーで商売をするなんて、当時の自分にはまったく想像もつかない話でした。
何か突出した才能がある子どもだったわけではないと思います。ただ、昔から「面白いもの」がとにかく好きでした。幼稚園の頃から「クレヨンしんちゃん」をビデオに撮ってもらって繰り返し見ていましたし、小学生になると、一人で映画館へ見に行くほど夢中になっていました。今なら親も子どもを一人で映画館になんて行かせないと思うのですが、当時は1000円くらい渡されて、ふらっと見に行っていましたね。学校でも、紙芝居や絵本を自分なりのストーリーに作り替えて、友達を笑わせるのが好きだった。シリアスなものより、ユーモアに引かれていたんです。
今思うと、「笑い」って、すごくクリエーティブな行為なんですよね。みんなが見ているものを、あえて違う角度から見る必要がある。それに、「面白い」という感情自体、人間にしかない特別なものです。当時は意識していませんでしたが、あの頃から好きだった「人と違う見方をすること」が、後にスタートアップで求められる視点にもつながっていったのかもしれません。
アメリカ行きにも反対しなかった両親
もう一つ、今の自分を形作った大きな要素が、両親が僕のやりたいことに一度も反対しなかったことです。習い事も含めて、何をやりたいと言っても止められた記憶がない。後から聞くと、内心では心配していたそうですが、それを僕に伝えることはありませんでした。だから僕自身も、「親を説得しなきゃ」とか「反対されたらどうしよう」と考えたことが一度もないんです。やりたいことがあれば、やる。家族にはほぼ事後報告で、とりあえず突き進む。この感覚は、後に単身シリコンバレーへ飛び込んだ時の行動力にも、そのままつながっている気がします。
父は、山梨で小さな会社を経営していました。いわゆる零細企業です。長男の自分が継げば、いずれ自分も社長と呼ばれるんだろうな、と漠然と思っていました。だから、「社長になる」ということ自体へのハードルが、周りの友人たちに比べてすごく低かったんですよね。父には失礼な話ですが、「社長なんて、そんなに大したことじゃないだろう」と。むしろ憧れていたのは、東京に出て、キラキラした高層ビルで働く会社員のほうでした。
大学の厳しいゼミで文章力が鍛えられた
転機は、大学に入ってからです。その一つが、立教大学経済学部に入学して入った、山口義行先生が教鞭(べん)を執る「山口ゼミ」でした。学内でも名物といわれるほど厳しいゼミで、先生の指導はとにかく熱い。先輩がみんなの前で泣いているのを見て、「面白そうだな」と思って入ったくらいなので、我ながらどうかしていると思います(笑)。そこで徹底的に鍛えられたのが、文章を書く力でした。この経験が後にテック系のブログを書く土台になるとは、当時は思ってもいませんでした。
ゼミの先輩には、テックにものすごく詳しい人もいました。「Googleがなんでタダで使えるか知ってる? 俺たちのデータが売られてるんだよ」。そんな話を聞いて、「へえ、そういう仕組みなんだ」と純粋に面白く感じたのを覚えています。ただ、それですぐに起業を志したわけではありません。周りに起業している友人がいたわけでもないですし、起業家精神を身近に感じることはほとんどなかったんです。
だから、自分にとってシリコンバレーはまさに「雲の上」の存在。AppleやGoogle、Facebook(現Meta)といった企業が生まれた場所であり、自分がそこに足を踏み入れるなんて、この時点ではまったく想像していなかった。夢の世界というか、空想の世界に近い感覚でしたね。
マーク・ザッカーバーグに感化されて作ったサイトで厳重注意
そして最大の転機が、大学生の時に見た1本の映画。Facebookの創業を描いた映画『ソーシャル・ネットワーク』(2010年、日本公開は2011年)でした。衝撃を受けたのは、ストーリーそのものより、「このサービスを作ったのが学生だった」という事実です。Facebook創業者のマーク・ザッカーバーグは、創業当時自分と同じ一人の学生だった。学生が、世界を変えるものを作れるんだ、と。
それで、映画に感化された僕は、「ハックノート」という大学の講義ノートを学生同士で売買できるサイトを勝手に作ってしまったんです。他人のノートを大学のデータベースを使って集め、それを売る。今考えると、かなり際どいことをしていました。もちろん大学にはすぐにバレて、「どこのどいつだ!」と犯人探しが始まった。やがて山口ゼミの僕だと特定され、山口先生に呼び出されました。
もうボロクソに怒られましたね。当然、サイトは即刻やめさせられました。でも、実は先生が本当に怒っていたのは、講義ノートを売ったことそのものではなく、たった100円という安値で売っていたことだったらしいんです。「1000円くらいで売ればよかったのに」と言われて、そこかよ、と(笑)。それはさすがに冗談だと思いますが、お世話になった人や、信じてくれた人に別の形で恩返ししたり、貢献したりできるのは、スタートアップ創業者の良さの一つだと思っています。だからこそ、人間関係は大事にしたいとずっと思ってきました。
“スタートアップオタク”が奏功して広がった人脈
そして、渡米後に人脈を広げる上で大きかったのが、後に僕の書籍のタイトルにもなった「シリコンバレーによろしく」というブログでした。これは大学在学中に立ち上げたのですが、当時は日本でもいろいろなテック情報がネット上にあふれていた。でも、英語でシリコンバレーのスタートアップの最新トレンドを追い、それを日本語で発信している人はほとんどいませんでした。
そんなブログを面白がってくれる人が、少しずつ増えていった。その中に、結果として投資家や経営者が多くいたんです。自分の好きなことが発信を通じて誰かにつながり、そこから仲間が広がっていく。その感覚が単純に楽しかったですね。
実は、記者やライターになる道も一瞬考えたことがあります。ブログを読んでかわいがってくれていたEast Venturesの松山太河さんに相談したら、「スタートアップだけを扱うメディアはもうからないよ」と言われて。それも一つのきっかけになって、自分が本当に興味を持っているのは情報発信そのものではなく、FacebookやGoogleのような大きな事業を0→1でつくることなのだと気づきました。
ブログは何かを狙って始めたわけではありません。映画を機に、僕自身が純粋に“スタートアップオタク”になり、自分が面白いと思った情報を必死に翻訳して、山口ゼミで培った文章力でひたすら発信していただけなんです。でも、そんなブログが渡米後の僕のことも支えてくれました。
英語もできない。起業家の友人もいない。シリコンバレーの文化が身近にあったわけでもない。それでも、昔から好きだった面白いことや人を笑わせること、たまたま出合った1本の映画。そして、厳しいゼミで鍛えられた文章を書く力。振り返ると、そうした一つひとつが少しずつ重なって、後に単身シリコンバレーへ渡る自分につながっていったのだと思います。
取材・文/金澤英恵 構成/山口玄太郎(日経BOOKSユニット)、中川ヒロミ(日経BOOKプラス) 写真/小野さやか

