「無理なお願いやしつこい誘いを断れなかった」「デリカシーのない質問やマウンティングを我慢した」などの経験は、ありませんか? 『エレガントな毒の吐き方 脳科学と京都人に学ぶ「言いにくいことを賢く伝える」技術』では、相手をいらだたせずに、自分のもやもやをそっと気づかせる方法を脳科学者の中野信子さんが解説しています。抜粋編第5回は、「京都人が重視する関係性の大切さ」について紹介します。
社交辞令と本音をどう見分けるか?
京都人ではなくても、状況的に「おいしい」と言わないとならないので、とりあえず「おいしい」とは言っておくけれど、実はそうでもないというときがありますよね。
「自分はそうでもないけど、みんながおいしいと言っているようだ」とか「つくった人の前では微妙な感想は伝えにくい」だとか。
とはいえ、圧倒的においしいときも、「おいしい」しか言えない。
京都人はここを利用します。本当においしいと思っているのかどうか判別できないようなぎりぎりの、そこはちょっとぼかすことができるというところ。そこは文脈と関係性で判断です。
たとえば、何か手みやげを持っていったという場面を想像してみてください。まず、2回目に持っていったときに、変な顔をしたらそれはもう持っていってはダメ、ということは京都人でなくとも分かることでしょう。けれど、1回目は難しいかもしれません。微妙なものを持ってこられた場合は、京都人はどのように言うのでしょうか。
うかがってみたところ、持ってこられたものは、「これは好物なんですよ」と必ず言うとのこと。さらに難しくなりましたね……。
ほぼ「いやぁ、これ好きなんやわ」と必ずといっていいほど言うというのが私のうかがった方からのご意見でした。ここまではもう決まった儀式のようなもので、当たり前なので、本当に喜ばれているかどうかはこの段階では分からないそうです。
コミュニケーションの術として、そのお菓子について知っていることを話そうとする、ということもあります。たとえば、これ東京のどこそこのお菓子やね、ですとか、テレビで見たわ、とか。ただそれは、コミュニケーションのために使う表現なので、結構適当であったり、間違っていることすらあって、つまり「テレビで見た」と言っているそれは、違うお菓子である可能性も多分にあるのですが、聞いている側もこれを馬鹿真面目に訂正してはならないのです。
「ああ、いいやり取りをしようと思って、言ってくれているんだな」と好意的に聞いておくのがよく、総じて「何かを持ってきてくれたこと」自体を喜んでくれているということを受け止めるべきなのだということでした。
なので、おいしかったかどうかは二の次で、本当は怖がらなくてもいい。けれど分かったほうがよりいいコミュニケーションがとれるという、フェールセーフの構造(誤操作や誤作動の際に安全側に動作するようにしておくこと)が京都式であるのです。カリフォルニアの人が「あなたに会えて本当にうれしい」と満面の笑みで言うのとか、フランス人のジュテームと同じような用法といえばよいでしょうか。
ただ、話がもっと具体的になっていって、このお菓子のこういう味が好き、というような情報が解像度高く入ってくるというようなことがあれば、それはたしかにそのお菓子を知っていて、本当に好物なのかもしれない、ということは考えておいたほうがいいようです。
また、本当にイヤだ、というときは、この人からはもう、ものをもらったりするのさえもイヤだ、ということで、むしろほとんど何も言わないとも。「ありがとう」ぐらいだそうです。それでも「イヤだけど、あなたを傷つけたくない」という気持ちの表明ではあると思っておけば、さほど互いに角も立ちません。
ものではなく、関係性を重視するやり取り
京都の中の人の感覚としては、表明の仕方がだいぶ大げさでまわりくどいかもしれないけれど、裏も何もあるわけではないのだそうです。「つまんないものを持ってきやがって」などと思っているわけでもなく、「何だか分かんないけど、とにかく気を遣ってもらってありがとうございます」ということだけを、相手もなるべく喜んでくれるように頑張って言っている、ということなのだそうです。ただ、このあたりは、京都の中の人自身の性格や、その人との関係性によって、若干、温度差というのはあるのかもしれません。
本質的には、そこの気持ちを受け取っておけば、コミュニケーションとしては円滑に進行します。別にそのお菓子が好きかどうかは、大きな問題ではないのです。
「気を遣って持ってきてくれたんですね」というお気持ち同士のやり取りが重要なのであって、本当においしいものであれば自分で買って食べてもよいわけですから。
なので、これはもし本当に好物で、とても喜ばれたということが実際に分かったとしても、「次回は10個買ってこよう」などと頑張らなくてもよいということでもあるのだそうです。本当に好物であるかどうかは、あくまで分からない体でやり取りする。したがって、頑張って好きなものを無理に用意していくということは、よほど自信があるのでもなければしなくてよく、円滑にやり取りできているということそのものを重視するのです。
ものが重要なのではなく、関係性を重視する。ある意味最もエッセンシャルなことを、言葉を究(きわ)めることによってやり取りしているということになるでしょう。京都人は非常に洗練されたエレガントなコミュニケーションを、やはりこうしたささいなところにもすみずみまで丁寧にされているのだな、と仰ぎ見るような思いになります。
中野信子(著)、日経BP、1320円(税込み)

