日本の対外経済部門が何らかの構造変化に直面するなか、円の価値低下が商品値上げなどにより実感されれば家計部門も動き出す可能性はある。そもそも日本人はFX(外国為替証拠金取引)や暗号資産など投機に近い運用に関心を持つ傾向があり、決して根っから投資意欲が低いわけではない。家計の円売りが本格化したら? 唐鎌大輔氏の新著 『「強い円」はどこへ行ったのか』(日経プレミアシリーズ) から一部を抜粋、再編集して解説する。

「底割れ」の円で日本人は変わるか

 2022年9月6日、日本経済新聞は日本の家計が外貨預金を大幅に増やしているとの記事を報じた。2021年1月から2022年8月末にかけての名目実効為替相場(NEER)をG7について比較すると円は約▲20%と突出して下落している。人々が最も注目する対ドルの名目価値に限れば、下落幅は約30%に至る。

 なお、NEERに物価変化を加味した実質実効為替相場(REER)は、1973年の変動為替相場制移行直後に匹敵する「半世紀ぶりの安値」を記録している。これは諸外国の物価は上がっているが日本は上がっていないことの結果でもある。

 いずれにせよ、図表①に示すNEERの動きを見れば、2021年以降の円は「底割れ」と言ってよい。円を持っているだけで他通貨に対して価値が劣化するという環境が続けば、家計が「円建て資産の保有をリスク」と考え始めるのは当然の帰結でもある。

 日本人は「合理的に正しいかどうか」よりも「皆がやっているかどうか」で行動を決しやすい。「安い日本」が取りざたされ、円安の弊害がワイドショーでも報じられれば、民意の大勢も影響を受けかねないだろう。

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 連載の第1回「 唐鎌大輔 我々は“成熟した債権国”日本の夕暮れを見ている 」でも紹介したように、日本経済の対外経済部門(経常収支や対外純資産の動向など)が何らかの構造変化に直面していることは否めない真実である。円建て資産を取り巻く環境が激変しているのは間違いなく、円の価値低下が値上げ機運の高まりなどを通じて実感されれば、日本の家計部門も動き出す可能性はある。

 歴史的に当然視されてきた保守的な運用傾向がいつまでも同じである理由はない。もとより日本の家計部門はFX(外国為替証拠金取引)や暗号資産取引など投資というよりも投機に近い資産運用に高い関心を持つ傾向があり、決して根っから投資意欲が低いというわけでもない。「おとなしい日本人」も時代に応じて変わる可能性がある。

胎動する「円より外貨」志向

 ここで日本の家計部門が保有する金融資産構成に関し、具体的な数字を見ておこう。

 保守的な国民気質や金融リテラシーの欠如など、様々な理由が指摘されるが、日本では長年、個人金融資産の95%以上が円貨性の資産で保有され、50%以上がほぼ何の収益も生まない現預金に留め置かれてきた。2022年3月末時点で日本の家計金融資産は2005兆円と2000年3月末対比で600兆円ほど増えている(図表②)。

 しかし、その増分の半分以上(340兆円)が円建て現預金である。リスク資産の代表格である株式・出資金の比率は10%前後で長年殆(ほとん)ど変わっていない。2014年に鳴り物入りで導入されたNISA(少額投資非課税制度)などの影響もさほど見られず、「貯蓄から投資へ」はあまり奏功しているように見えない。日本の家計部門において、未だ円に対する信頼は極めて大きいものだと見受けられる。

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 こうして見る限り、家計金融資産が円相場の価値を考える上で「最後の砦」であるという印象は本稿執筆時点で大きくは変わっていないが、冒頭の外貨預金増加の報道を持ち出すまでもなく、変化の胎動は近年見出せる。

 図表②に示すように、外貨性資産を構成する預金・対外証券投資・投資信託のいずれも2000年3月末と比較すればシェアを伸ばしており、金額ベースで預金は2.3倍、対外証券投資は5.0倍、投資信託は7.0倍になっている。円貨性の現預金が依然として約54%を占め、金額としては2000年3月対比で340兆円ほど増えているものの、シェアで言えば1.0%ポイントのプラスにとどまる。

 片や、筆者試算では、外貨性の投資信託だけでシェアは1.5%ポイント伸びており、家計金融資産における存在感の高まりはこちらの方が相対的に大きい。同じ期間に円貨性の株式や投資信託は際立った増え方をしていない(シェアでは概ね横ばいである)ことを踏まえれば、「貯蓄から投資へ」の動きが進んだというよりも「円から外貨へ」という動きが進んだというのが正確な表現に思われる。全体の比率の中では円貨性の現預金に圧倒されてしまっているが、海外資産への関心は確実に高まっている。

 なお、「円より外貨」という運用志向は「日本経済の成長に賭けるよりも海外経済の成長に賭けたい」という思惑の一端を示すものだと言えるが、これは既に投資信託経由の株式投資の実情に透けて見える。それは書店に米国株投資の本が並ぶ近況がよく示しているだろう。若年世代はスマホひとつあれば消費感覚で投資を始められてしまう。

「円から外貨へ」の動きは確実に強まっている(写真/shutterstock)
「円から外貨へ」の動きは確実に強まっている(写真/shutterstock)
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円売りは急に走り出す可能性

 国際比較を踏まえても、日本の金融資産構成は修正される余地がある。40%弱が株式に寄せられている米国は極端としても、日本と同様、間接金融が力を持つユーロ圏でも20%弱が株式に割り当てられている。そのユーロ圏の半分程度の日本はやはり相当に保守的と言わざるを得ず、現預金が50%を超えていることも世界的には異例である。

 既に言及したように、パンデミック下において円の価値は激減した。当然だが、ドルで保有していれば、それが単なる外貨預金であったとしても、為替差損分はカバーできたことになる。大半の日本人が安全資産の代表格と見ているであろう「円の普通・定期預金」は資産防衛の観点から賢明な選択肢だったとは言い難い。

 もちろん、普通の日本人は海外資産との比較で自国通貨建て保有資産の価値を判断したりはしない。しかし、実際は巷説(こうせつ)で取り上げられることの多い「安い日本」の傾向が強まる以上、自身の保有資産から消費・投資する金額は徐々に増加傾向を辿ることが予想される。「投資ではなく防衛として外貨運用が必要」という思惑は必然的に強まるはずである。

 本稿執筆時点で、そうした家計部門からの資本逃避(いわゆるキャピタルフライト)とも言える動きが早晩加速するという確信はない。だが、その兆候らしき動きが出始めているのも事実であり、少なくとも警鐘を鳴らす時期には差し掛かっているようにも思える。第1回「 唐鎌大輔 我々は“成熟した債権国”日本の夕暮れを見ている 」でも議論したように、そう考えるだけの客観的な諸条件は揃い始めている。

 日本では一度定められた方向に皆が走り出すとその「空気」感が社会を支配し、展開が非常に早く進む傾向にある。資金循環統計における現預金(外貨預金除く)が10%動くだけでも100兆円規模の円売りになる。それは過去5年平均(2017~2021年で平均18兆円程度)の経常黒字に換算すれば5~6年分に相当する。これははっきりと円安相場につながる。

 さらに将来の話をすれば、家計部門による円売りが本格的に視認され始めた場合、恐らく「外貨購入の制限(いわゆる資本規制)」が世の中で話題になるはずだ。これを受けて合理的な家計部門がどう動くかは想像に難くない。

 満員の映画館で誰かが「火事だ」と騒げば、間違いなくパニックになる。観客が出口に殺到して混乱が極まるだろう。資本規制は国内の家計部門における運用動向に似たようなパニックを促す効果がある。円売りに殺到すれば為替市場は混乱に陥る。過去のように円安を経済復活のカギとして望むならば問題ないが、本稿執筆時点でそのような雰囲気はもはや感じられない。

「貯蓄から投資へ」の危うさ

 岸田文雄政権は「資産所得倍増プラン」の名の下で「貯蓄から投資へ」を焚(た)き付けることを重要戦略として掲げている。しかし、日本の家計部門が「貯蓄から投資へ」と背中を押された場合、果たして日本経済の将来に賭けて円建て資産を選ぶだろうか。為政者は自問自答する必要があるように思う。

 現預金以外への投資意欲を焚きつけること自体、決して悪いことだとは思わない。しかし、そうして呼び起こされた投資の行き先が円建て資産ではなく外貨建て資産に向かうとすれば、それは円安の起爆剤にもなり得る。

 円安のデメリットを指摘する声が大きくなる状況下、本当に政府・与党はそれで問題視しないのか。仮にそうした展開をリスクと考える思いがあるならば、「貯蓄から投資へ」を進めるにしても、その行き先として国内が選ばれやすいような制度設計も必要になるように感じられる

 「貯蓄から投資へ」のスローガンは一見前向きな話に見える。だが、為替にしても、金利にしても、家計部門の抱える莫大な金融資産が貯蓄(保守的な運用)に回されているからこそ、日本経済の秩序が保たれている部分もあることは忘れてはいけない。

 長らく円高と低金利が当然視されてきた日本において、これが逆回転する怖さは実感が難しいのかもしれないが、「貯蓄から投資へ」を推進する前にリスクマネジメントを慎重に行うことは推奨したい。

(2022年9月8日時点の分析)

日経プレミアシリーズ
「強い円」はどこへ行ったのか
「50年ぶりの円安」が示唆する構造変化の真相とは?

止まらない円安。2022年9月にはついに1ドル=140円台に突入した。為替相場の変調に度々警鐘を発してきた日本を代表するマーケット・エコノミストが、今回の円安要因を冷静に分析。背景にある構造転換と岐路に立たされる日本経済の実像を浮き彫りにし、将来に向けた課題を整理する。

唐鎌大輔著/日本経済新聞出版/990円(税込み)