『 戦闘力 なぜドイツ陸軍は最強なのか 』は現代屈指の軍事研究家であるマーチン・ファン・クレフェルト氏が1992年に著した。第二次世界大戦で破竹の勝利を続けたドイツ陸軍の強さの源泉はその民族性にあるとされてきたが、氏はその俗説をファクトに基づいた精緻な分析によって論破する。本書の翻訳を手掛けた防衛省防衛研究所戦史研究センター安全保障政策史研究室長の塚本勝也氏の「訳者解説」をお届けする。
【訳者解説】
防衛省防衛研究所 戦史研究センター安全保障政策史研究室長
塚本 勝也
本書を手に取った読者にとって、ドイツ軍の精強さについてはここで改めて説明するまでもないだろう。第二次世界大戦で、ポーランドを二週間で降伏させ、返す刀で大国フランスをわずか四二日間で陥落させた。ドイツはその後もヨーロッパを席巻し、ナポレオン以来最大の版図を手中に収めた。その原動力としては、戦車を中心とした電撃戦を成功させ、これまでの戦争の方法を一変させたことが挙げられよう。また、ドイツの高度な科学力を活かして、優れた戦車や航空機だけでなく、ジェット機や弾道ミサイルなど、画期的な新兵器を生み出したこともその評価を高めるうえで寄与したことは間違いない。
ドイツはその地理的位置から常に東西の二正面作戦を強いられており、また国力という点でもその周辺国に対して圧倒的な有利に立っていたわけではなかった。それゆえ、物量面では常に不利な立場に置かれ、それが苦境を打開する新たな戦術や兵器の開発を促したことは疑いない。だが、ドイツ軍の精強さは兵器や戦術だけに依存していたのであろうか。あるいは、ドイツ兵の個人的、あるいは集団的な特性がその強さに何らかの影響を与えたのではないだろうか。そうした問いに正面から取り組み、ドイツ軍における主要な軍種であったドイツ陸軍における士官や下士官の採用、教育、訓練、昇任、賞罰といった人間的な要素に着目したのが本書である。
本書の著者マーチン・ファン・クレフェルト教授は、世界的に有名な戦略研究者であり、とりわけ軍事史の権威である。クレフェルトは一九四四年にオランダで生まれ、一九五〇年以降はイスラエルに居住している。ヘブライ大学を卒業後、ロンドン大学政治経済学院(LSE)で博士号を取得している。その後、長年にわたってエルサレムにあるヘブライ大学歴史学部で教鞭を執っていたが、現在は名誉教授となっている。
クレフェルトは本書を含め過去に三〇冊以上の本を執筆しており、二〇カ国語以上に翻訳されている。当然ながら、そのうちには日本語に翻訳されたものも少なくない。『補給戦──ヴァレンシュタインからパットンまでのロジスティクスの歴史(増補新版)』(石津朋之監訳・解説、佐藤佐三郎訳、中央公論新社、二〇二二年)、『戦争文化論』(上・下巻、石津朋之監訳、原書房、二〇一〇年)、『戦争の変遷』(石津朋之監訳、原書房、二〇一一年)、『エア・パワーの時代』(源田孝監訳、芙蓉書房出版、二〇一四年)、『新時代「戦争論」』(石津朋之監訳、江戸伸禎訳、原書房、二〇一八年)などが翻訳されており、いずれも既存のパラダイムを覆すような画期的な主張を展開するものである。
他にも翻訳されていないものの、『戦争における指揮(Command in War)』『技術と戦争(Technology and War)』『戦争の進化(The Evolution of War)』など戦争全般に関する著作の他、母国であるイスラエルに関する著作である『剣とオリーブ(The Sword and the Olive)』や『イスラエルの防衛(Defending Israel)』なども発表している。さらに、クレフェルトの最新作は『ジェンダー対話(The Gender Dialogues)』であることが示すように、ジェンダー問題を扱った著作から、平等を歴史的に捉え直した『平等(Equality)』まで、幅広い問題について刺激的な著作を公表してきた。
また、クレフェルトは各国の政府に対してコンサルタントとして助言を与える一方、テレビやラジオを含めたマスコミにも登場し、その発言は非常に影響力が大きい。日本にも、政府や民間を問わず、講演や会議のためにたびたび招聘(しょうへい)されている。訳者の勤務する防衛研究所が主催する「戦争史研究国際フォーラム」で、二〇一〇年には「戦争とは何か──戦争文化」、二〇一七年には「ハイブリッド戦争は日本に訪れるか?」と題して講演を行っている(双方の内容は防衛研究所のウェブサイトにおいて日本語でも確認できるので参照されたい)。
このような博覧強記のクレフェルトの代表作の一つである本書は一九八二年に刊行され、一九七八年に出版された『補給戦』に次ぐ古典に属する。しかし、「戦闘力」とクレフェルトが呼ぶ、軍事力の人的要素に着目し、その構成要素を実証的に分析した本書はいまだに色あせていないと考えられ、以下では本書の意義をいくつかの観点から論じてみたい。
まず、第二次世界大戦期のドイツ軍とアメリカ軍の比較研究としての意義である。本書は四〇年以上前の著作であり、その後にも様々な研究者によって新たな研究が行われてきた。その一例として、イエルク・ムート著、大木毅訳『コマンド・カルチャー──米独将校教育の比較文化史』(中央公論新社、二〇一五年)がある。同書は、ドイツとアメリカの士官教育に焦点を絞り、その「指揮統率文化(コマンド・カルチャー)」の違いについて論証している。両国の指揮統率面での違いは本書でも取り上げられており、ムートも本書を先行研究の一つとして言及し、その一部の内容が最近の研究により必ずしも正しくないと証明されたものの、「多くは時の試練に耐え、今なお認められている」と評している(同書、一九頁)。
他方、『コマンド・カルチャー』は最新の研究成果を反映しているとはいえ、両軍における士官に着目したものであり、必ずしも一般兵士や下士官については論じていない。ましてや軍司法制度や叙勲制度などの分野も網羅しているわけではない。それゆえ、本書は古典とはいえ、ドイツ陸軍総体としての戦闘力を論じている点で、その価値はいささかも低下していないと思われる。
次に、本書の現在的意義についてである。一九八〇年代に出版された、第二次世界大戦のドイツ軍の戦闘力の秘密に着目した著作が、現在でも有用なのかどうか疑問に思う読者も当然いるであろう。例えば、本書で着目する戦闘力の根源は、部隊を同郷の人間で固めたり、指揮官や戦友との仲間意識を醸成したりするというものであった。人工知能で自律的に動くロボット兵器が登場しつつある現在において、人間的な要素がどれほど戦争の帰趨に影響をおよぼすのかと考えても不思議ではない。
クレフェルトは自らのウェブサイトでブログによる発信を行っている(本稿執筆時点では休止中)が、そのエントリーの一つ(“Fighting Power,”posted on April 22, 2021,)で、この問いに対する答えを与えている。その内容は、ドイツの雑誌に寄稿した現在のドイツ連邦軍について論じたものを英語で転載したものである。
この中で、偉大な戦略家であるカール・フォン・クラウゼヴィッツが指摘するように「戦争はカメレオン」であり、技術を含めて常に変化するが、戦闘力の前提となるものは人間の本質に根差しており、時代が変わっても変化しないとクレフェルトは主張する。さらに本書で指摘しているように、戦闘力を生み出し、長期にわたって維持することは非常に困難である点を強調し、現代において戦闘力を維持する原則として、クレフェルトは以下の八つを挙げている。少し長くなるが、本書のエッセンスも含まれているので以下に引用してみたい。
① 戦争は他の手段を組み合わせた政治の継続であるが、戦闘力は政治に部分的にしか依拠していない。独裁体制でも高い戦闘力を誇る国家がある一方、一九三九〜四〇年のフランスのように民主主義国家でも敗北主義に陥ることがある。
② どのような政治体制であれ、軍隊は市民社会からの支持と尊敬を受けていることが重要である。とりわけ現代でも事実上戦闘職種の大半を占める男性兵士が女性から支持され、尊敬されていることが不可欠である。プラトンが言うところの「接吻し、される権利」のことである。それなくして兵士が戦うであろうか。
③ 軍隊が必要とされる大義は正当であるか、少なくともそのように体感されなければならない。兵士は自ら不正と考える大義に命を投げうつほど愚かではない。
④ 新兵に戦う準備と必要ならば死ぬ心構えをさせるためには、司令官や戦友をよく知り、信頼していなければならない。それゆえに国防当局は兵士らをできる限り長く一緒にするあらゆる努力を払うべきである。例えば、戦傷から回復した兵士を中央の人材プールに集めるより、原隊に復帰させる措置などをとるべきである。
⑤ 規律は戦闘力に欠かせない要件の一つである。信頼と規律には兵士に対する公平な処遇が不可欠である。報償や制裁は各兵士の能力、とったリスク、負った責任に応じて配分されなければならない。また、その措置はタイムリーでなければ効力を失うであろう。
⑥ 司令官の第一の関心事は任務の達成でなければならない。それに次ぐのが部下の面倒を見ることである。そのためには部下と起居を共にし、苦楽を共有しなければならない。全体的に見て、指揮の最良の方法は模範を示すことである。
⑦ 戦闘力は努力や苦難を共有し、共に危険を冒した結果として生じるものである。逆に言えば、少なくともある程度の危険を含まない訓練は、子供じみたゲームに堕してしまうであろう。
⑧ 最後に、戦闘力が形として明らかになるのは、私の著作の一冊である『戦争文化論』で示した、「戦争文化」と呼ばれるものである。戦争文化には、共通の所作、規律、制服、象徴、言語、音楽、儀式などの具体的な形態を含む。これらの形態は、何らかの意味を持たせるのであれば、信頼と同じように簡単には培えず、長い伝統、そして究極的には歴史からしか生み出されない。よく知られるように、見栄えを完璧に整えすぎたがために軍隊が魂のないロボットのように変わることもある。その一例として、フリードリヒ大王が死去した一七八六年からイエナの戦いで大敗した一八〇六年までのプロシア陸軍がそうであった。他方、自尊心をもって歴史を顧みることのできない軍隊は、実のところ軍隊とは全く言えないのである。
以上の原則は二一世紀のドイツ連邦軍に向けて書かれたものであるが、本書の内容と重なっている部分も多いことに気付くであろう。このブログの最後に、クレフェルトは「ドイツ連邦軍は戦うために必要な戦闘力を有しているか、もしそうでなければなぜなのか。この状況を変えるために何ができるのか。かつての栄光とは呼べない過去に対してどのように向き合うのか」と問いかけている。したがって、クレフェルトは少なくとも本書で論じた内容が現代でも通用すると考えていると思われる。
さらに、二〇二二年二月のロシアによるウクライナ侵略についての同年三月三一日のブログ(“The Guessing Game,”posted on March 31, 2022,)でも、ロシアの侵攻が手詰まりの状況を評したうえで、兵員数、兵器、装備、道路、通信、地形・地理上の障害物等のあらゆる物理的な資源を活用するものの、戦争は結局のところ人間のドラマであると強調する。それゆえにあらゆる種類の人間の衝動や感情によって戦争は左右され、それらが総体となって双方の戦闘力を形作っていると指摘している。したがって、軍事力を含めた物理的な国力ではウクライナを圧倒しているロシアがその優位を戦場で活かしきれなかったのは、両国の戦闘力ゆえであり、本書で指摘されているような様々な要素が影響を与えたのかもしれない。
最後に、本書のドイツやアメリカ以外の国家に対して持つ意義である。ドイツ軍の戦闘力が高かったのは明らかであるが、本書が投げかける問題の一つは、そのドイツから学び、第二次世界大戦では同盟国でもあった日本軍の戦闘力はどうだったのかということである。本書はドイツとアメリカの二カ国を研究対象として絞っており、イギリス、フランス、イタリア、日本、ソ連といった第二次世界大戦の主要参戦国についてはわずかに言及されているのみである。
おそらく日本については、史料の制約もあり、本書で活用されているような統計やデータが必ずしもそろわない可能性が高い。それでも、本書で示された枠組みに従って、現存の史料でどの程度分析できるのかを確認してみるのは全く無意味なことではないであろう。むしろ、日本軍が孤立無援の離島の防衛などの絶望的な状況でも頑強に戦った理由を探るには、その背景を探るための実証的研究が不可欠であると考えられる。
例えば、日本陸軍の連隊はドイツ陸軍と同じく、同じ地域から徴兵された兵士によって充足される「郷土連隊」であることが多かった。士官の選抜制度などは異なるものの、陸軍大学校の卒業生に特権的な地位が与えられるなど、ドイツと似た部分も少なくなかった。したがって、こうした点も含め、本書で示された論点が日本軍の戦闘力にどのような影響力をおよぼしたかを分析することは有益であろう。
既に日本でも、日米の軍隊についてインタビュー調査などを通じて社会学の立場から比較した、河野仁氏の『〈玉砕〉の軍隊、〈生還〉の軍隊──日米兵士が見た太平洋戦争』(講談社学術文庫、二〇一三年)などの優れた業績がある。だが、こうした研究は日本では少数にとどまっており、本書で用いられた研究手法や分析枠組みは、日本陸軍を研究するうえでも大きな示唆を与えるものと考えられる。
本書の訳出には多くの方々の助力があった。まず、ダートマス大学のセバスチャン・ムーニョス=マクドナルド(Sebastian Muñoz-McDonald)氏には、訳出にあたって難解な点について数多くの示唆を受けた。訳者が二〇一八年から一年半にわたって同大学で在外研究を行って以来、交流を続けているが、彼と出会えたことは今でも大きな財産になっている。
また、先述した『コマンド・カルチャー』の翻訳を含め、ドイツの軍事史について著作を数多く公表されている大木毅氏による先行研究にも大きな示唆を受けた。とりわけ、『ドイツ軍事史──その虚像と実像』(作品社、二〇一六年)、『灰緑色の戦史──ドイツ国防軍の興亡』(作品社、二〇一七年)、『ドイツ軍攻防史──マルヌ会戦から第三帝国の崩壊まで』(作品社、二〇二〇年)などの著作や、同氏が翻訳や監修を手掛けられたヴァルター・ネーリング著『ドイツ装甲部隊史1916―1945』(作品社、二〇一八年)やドイツ国防軍陸軍統帥部/陸軍総司令部編、旧日本陸軍/陸軍大学校訳『軍隊指揮──ドイツ国防軍戦闘教範』(作品社、二〇一八年)は大いに参考にさせていただいた。言うまでもないが、本書に含まれる誤訳やミスはひとえに訳者一人の責任であり、読者からの指摘・批判を今後の糧としたいと考えている。
さらに、訳者の勤務先である防衛研究所の同僚からも貴重な示唆を受けた。防衛研究所は日本の安全保障研究の中枢であり、日本でも指折りの専門家から日々刺激を受けている。この恵まれた環境なくして本書の翻訳を進めていくことは難しかったであろう。とりわけ、石津朋之氏には本書の翻訳権を得るにあたってクレフェルトに連絡する労をとっていただいた。ここに改めて感謝したい。
出版を取り巻く環境が厳しくなる中で、本書の刊行は日経BPの堀口祐介氏の手引きがなければ不可能であった。私自身、世界的に有名な著者の高名はよく承知しており、その著作も少なからず読んではいた。だが、本書は概要を知っている程度であり、ドイツの専門家でもない。それゆえ、本書の翻訳を引き受けるのを躊躇するところもあったが、その背中を押して励ましてくれるとともに、遅れがちな翻訳作業を辛抱強く見守ってくれた。御礼を申し上げる。
最後に、家族の理解や協力に心より感謝したい。妻と息子は休日の貴重な時間を翻訳作業に充てることを快く許してくれた。そして、両親は私が研究者の道に進んだ時から、その決断を理解し、温かく見守ってくれた。まがりなりにも専門書の翻訳を手掛けられるようになったのも、両親が私の留学を惜しみなく支援してくれたからである。とりわけ父はこれまでの私の作品を熱心に読んでくれていたが、本書が世に出る前に他界してしまった。生きていれば本書の刊行を最も喜んでくれたであろう父に本書を捧げたい。
私自身はこれまで技術と戦争の関係、とりわけ技術によるイノベーションを長年にわたって研究してきたが、本書の翻訳を通じて戦争が人間の営為である限り、戦闘力の重要性は変わらないという思いを強くした。日本の安全保障が転換期を迎える中で、本書の刊行が防衛力の人間的要素を改めて見つめ直す契機になれば幸いである。
防衛省防衛研究所戦史研究センター安全保障政策史研究室長
