鬼才マルキ・ド・サドが仏バスティーユ監獄の独房で書き残した『ソドムの百二十日』。その12m近くの巻物が歴史の荒波をさまよった200年以上にわたる物語を、作家・ジャーナリストのジョエル・ウォーナーが丹念に追った新刊が『 サド侯爵の呪い 伝説の手稿『ソドムの百二十日』がたどった数奇な運命 』です。消えつ現れつ人々を翻弄する巻物の行方を追いながら、劣らぬ数奇さをたたえたサドの生涯やその作品たちにも光を当てる、読みどころ満載の本書。その解説=道案内役として、金原瑞人さんと中西史子さんによる「訳者あとがき」を紹介します。
【訳者あとがき】
十八世紀末、バスティーユ監獄の独房で、数本の蠟燭の光のもと、視力の衰えた男が仮面のような革製のゴーグルを着け、羽根ペンを手に、頭のなかで膨らみきったすさまじい妄想を羊皮紙に書きつけていた。彼の名はドナシアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド、通称、マルキ・ド・サド。彼が異様に細かい字で三十七夜にわたって書き綴った作品が『ソドムの百二十日』だ。これは「三十三枚の羊皮紙をしっかり貼り合わせた幅約十センチ、長さ十二メートル近くの巻物」だが、フランス革命が勃発し、バスティーユ監獄が襲撃された際に行方がわからなくなってしまった。サドは破棄されたものと思いこんでいたが、巻物は無事だった。最初に発見したのは、アルヌー・ド・サン・マクシマンという男だったといわれている。この巻物だが、その後、数世紀にわたってヨーロッパをさまよい、盗まれ、行方不明になり、発見され、数カ国を点々とした末、ある男が七百万ユーロで手に入れる。二〇一四年のことだ。ところが、この巻物がやがてフランスに戻ってきたかと思うと、今度はフランス政府が介入してきて、その後、ひと騒動持ち上がり、「十年におよぶ大陸をまたいだ十億ユーロの詐欺疑惑が浮上する」。
本書は、この巻物のたどった数奇な運命を主軸に、サドの奔放と放埒をきわめた生涯、サドの作品の文学的評価の変遷、配管業者の息子として生まれ、歴史的・文学的手稿を投機の対象として新しいビジネスを始めて巨万の富を築く、ジェラール・レリティエの半生が描かれていく。
まず、サドの生涯だが、書けばきりがないほどネタに困らない彼についてのエピソードがコンパクトに、しかし効果的に差しはさまれている。サドは背徳的な性癖のあった父親の背中を見て育ち、四歳の頃、猥褻本の膨大なコレクションの所有者だった叔父のサド神父に引き取られた。十歳になるとパリに戻され、ルイ・ル・グラン学院に入学することになる。ここで彼は教師に性的虐待を受けている。成人してからは、貴族に対する鬱憤を積もらせた民衆の格好の攻撃の的となって、矢面に立たされ、拒絶され、幽閉される。サドの眼前で社会は目まぐるしい変化をみせ、王政、立憲君主制、共和制、帝政、立憲君主制へと変わったが、どの時代においても、サドは受け入れられることはなかった。親族さえサドを一族の恥と考え、長く彼のことに触れまいとした。サド自身もこう述べている──「私は最初の犠牲者になる運命だ。きっとそのために生まれてきたのだ」
こういった一連の流れのなかから、ある意味、孤独なサドの姿が浮かび上がってくる。彼がルイ・ル・グラン学院に入学した頃から、サド家の財政状況は悪化していた。サドは心に決めた人がいたが、そうした経済的理由からルネ=ペラジとの望まぬ結婚を強いられる。彼女は献身的な妻を務め、サドの悪事にも加担したが、結局晩年になって、離婚が一般的でなかった当時にしてサドとの離別を決める。彼は自分の子どもたちからも厄介な父と思われ、一八一四年にシャラントン精神科病院で息を引き取ったとき彼を看取ったのは、L・J・ラモンという医者の卵だったという。ラモンはのちに、晩年のサドについて、人と話しているところを見かけたことがなかったと述べている。
一方で、本書には、サドの文化的な活動についてのエピソードも盛りこまれており、たとえば十一章では、シャラントン精神科病院での演劇プログラムに参加したことが大きく取り上げられている。治療の一環とはいえ、サドはこの時期、自由を奪われながらも、短期だが、生涯を通して愛した演劇に身を投じることができた。彼はここで、「劇場の設計を手伝い、脚本を書き、リハーサルを監督し、舞台装置を考え、舞台係を務め、宣伝係まで引き受けてチケットを販売し、ときには主役を演じた」。ドイツの劇作家ペーター・ヴァイスの『マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神科病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺』(一九六四年初演、題名が長いため『マラー/サド』に略されることが多い)をご存じの方にはとくに興味深いと思う。この戯曲の舞台は一八〇八年のシャラントン精神科病院で、入院中のサドが革命指導者ジャン=ポール・マラーの刺殺事件を劇作し、ほかの患者たちとともに、看護人たちに監視されながら院内で上演を行う様子が描かれている。一九七六年に、ピーター・ブルック監督によって映像化もされている。
次に、サドの作品の文学的評価についてだが、ロマン派の時代には、サドの作品は禁書扱いになっていた。そうした評価が大きく変わったのは、とくに二十世紀に入って、フランス国立図書館の禁書セクション〈地獄(アンフェル)〉にあったものを、ギヨーム・アポリネールが「発見」してからだろう。フランスの詩人であるアポリネールは象徴主義からシュルレアリスムへの潮流をつくった人物だ。サドはシュルレアリスムの大きな流れのなかである種のシンボルとなり、シュルレアリストたちは「サドの生き方に触発されて性的に露骨な作品を生み出し、彼の理論に関する難解な論文を執筆し、彼が幼少期を過ごしたプロヴァンスの家を訪ねる企画を立て、シリング城で行われた快楽の宴をまねて、廃墟となった屋敷で仮面乱交パーティーを計画」する。また、サルバドール・ダリとともに『アンダルシアの犬』を撮った映画監督ルイス・ブニュエルは、マルセル・プルーストから『ソドムの百二十日』を借りてこれを読み、「サドに比べれば、ほかのどんな傑作も色あせてしまう」と書き、この作品を銀幕の世界に持ちこんで、『黄金時代』を撮る。その他、第七章にはその手のエピソードがあふれている。第八章でもまた、オデオン通り書店をつくった〈本の友の家〉のアドリエンヌ・モニエや、同じくその通りに〈シェイクスピア・アンド・カンパニー〉をつくったシルヴィア・ビーチが登場し、文学好き、映画好きにはたまらない章が続く。また、著者の取材も徹底していて、実際の手稿のオークション風景も、リアルに詳しく描かれている。
最後に、巻物の数奇な運命についてだが、巻物の長い旅は、最後の所有者となったレリティエの手に渡り、ついに終わりを迎える。レリティエが手稿の世界に目をつけたのは、切手専門店でたまたま見つけた一枚の手紙がきっかけだった。このとき彼は損得抜きで純粋に手紙にロマンを感じたのだが、その後、手稿の世界に飛びこんで会社を立ち上げ、さまざまな手稿を投機の対象にして事業を拡大していく。そしてマネーゲームの格好の対象として『ソドムの百二十日』の巻物に執着する。その中身を最後まで読むことすらなかったという。そんなレリティエの半生もまた、スリリングだ。サドをめぐりながらもまったく非文学的で、閉鎖的なパリの手稿市場に土足で踏み入り、この市場を守っている人々を敵に回す。彼の人生は、ある種、冒険小説のようで、サド没後二百年目にあたる二〇一四年、巻物をフランスに持ち帰った際に、前代未聞の投資詐欺事件に関わった疑いで捜査の対象になるあたりは生々しくリアルだ。その後、レリティエは裁判の準備をしながら、マスコミ関係者からの接触を避けるようにパリから離れた地で暮らしており、取材が許されたのは著者だけだという。
本書のエピローグにも書かれているが、二〇一七年、この巻物はフランス政府が四百五十五万ユーロで購入し、国宝に指定した。これは国外への流出を防ぐためでもあったが、国がその文化的価値を認めたからでもあった。それ以前、一九九〇年にもすでに、サドの著作はフランスで最も権威ある〈プレイヤード叢書〉から刊行されている。しかも、聖書紙に印刷されて。こうした彼の作品の評価を振り返りながら、一九五三年に、ジャン=ジャック・ポーヴェールが『ソドムの百二十日』を一般書として世に出そうしたために公序良俗に反したかどで訴えられたことを思うと、隔世の感がある。
国宝に認定された巻物はおそらく以後、フランス国外に流出することはないだろうが、一方、著者が示唆しているように、デジタル化が恐ろしいほどの速度で進んでいる現在、サドには思いもしなかった方法で、世界に解き放たれることになるだろう。
サドは遺言状にこう記している。
「墓が跡形もなく地上から消え去り、私の痕跡もすべて人々の記憶から消えてしまうことを望む」
その望みはかなえられそうにない。
二〇二四年五月 訳者
