自身も起業家であり、多くの企業にアドバイスをしてきたエリック・リース氏が、自らの経験とともに提唱した手法がまとまっている『 リーン・スタートアップ 新装版 ムダのない起業プロセスでイノベーションを生みだす 』(井口耕二訳)。会社や組織が顧客から学び、ムダを省き、圧倒的なスピードですばらしい成果を出すためのメソッドを解説しています。自身をリーン・スタートアップの信奉者であると語る、LayerX CEOの福島良典さんは「AIによってリーン・スタートアップの方法論に従ってループを回す企業と、そうでない企業の差はかつてないほど開いていく。AI時代こそ、リーン・スタートアップという考え方の重要性は増している」と言います。本書に収録した福島さんの「解説」を紹介します。
【解説】
私はリーン・スタートアップの信奉者です。2012年に起業し、2026年現在で14年の経営人生を歩んでいます。この14年、スタートアップの経営のみならず、上場企業の経営や、不動産・金融機関など幅広い業界の経営にも携わってきました。また、エンジェル投資家として多くの会社のIPO(新規株式公開)、M&A(合併・買収)にも携わり、関わった新規事業、新規プロダクト・新規プロジェクトの数は優に100を超えます。その中で私は、実践知としてリーン・スタートアップを実行してきました。
この経験をもとに、「新規事業・プロダクトを立ち上げる際の重要な指針はすべて本書に書いてある」と言えます。起業家に「一冊本を読むなら何を読めばいいか」と聞かれたら、必ず「リーン・スタートアップを読むといい」とアドバイスしています。不確実な状況の中で事業を起こすための普遍的なマネジメント手法が本書には詰まっているからです。
2011年に発行された本書ですが、AI時代の今でも内容は全く色褪(あ)せません。ソフトウェアのスタートアップ関係者や起業家はもちろん、ハードウェア・ディープテックのスタートアップの関係者、大企業でイノベーションを起こすことが命題な経営者・新規事業の担当者、伝統的な金融機関、政府(奇しくも日本でも、リーン・スタートアップ型政党であるチームみらいが誕生し躍進しています)の関係者にも、ぜひ読んでいただきたい一冊です。
リーン・スタートアップに対するよくある誤解
ところが、リーン・スタートアップという概念が広がるにつれて、エリック・リース氏の意図を誤解した批判をよく見かけるようになりました。特に生成AIの進化に伴って「リーン・スタートアップは死んだ」という的外れな批判もあり、リーン・スタートアップの信奉者として非常に残念に思っています。
リーン・スタートアップで最も誤解されている概念が「MVP」(minimum viable product)でしょう。MVPを「最小限の機能で出す半完成品」と捉えている方が非常に多いのですが、これは本質を外しています。
MVPとは「仮説を検証するための最小限の実験を設計するための最小限の構築物」です。その最小限な構築物は仮説によってはプロトタイプかもしれないし、LP(ランディングページ)など手軽なものかもしれないし、手作業のコンシェルジュ型サービスかもしれません。逆に、仮説が「この技術は実用に耐えるか」というものであれば、MVPは相当に作り込まれた製品になることもあります。MVPの品質や規模を事前に決めることはできません。それは検証すべき仮説の性質によってそれぞれ決まるものだからです。
「とにかく小さく出せばいい」「半完成品でも出してしまえ」と理解するのは、本書で書かれた戦術を矮小化しています。エリック氏も、状況に応じて戦術は変わるものであり、リーン・スタートアップの本質は「不確実な状況にて、クリティカルな仮説を、小さなバッチサイズで検証すること。それによって学びを得る速度を最大化すること」だと何度も主張しています。
もう一つの間違った批判に、本書とピーター・ティール氏の『ゼロ・トゥ・ワン』との対比があります。現在は「Big Bet(ゼロ・トゥ・ワン)の時代であり、Small Bet(リーン・スタートアップ)は死んだ」という批判です。
そもそも、リーン・スタートアップはSmall Bet戦略ではありません。「不確実な状況の中で、素早く仮説を検証し、学ぶ速度を最大化する」マネジメント手法です。ゼロ・トゥ・ワン的なBig Betとは、逆張りの仮説、すなわち「多数派は同意しないが正しい仮説を生みだす」思考法です。そのゼロ・トゥ・ワン的な仮説に対して、リーン・スタートアップの手法は非常に機能します。つまり、対立する概念ではなく補完する概念なのです。
ゼロ・トゥ・ワン的スタートアップの典型例として紹介されるのがイーロン・マスクが創業した企業スペースXです。そして、そのスペースXは非常にリーンに経営されています。むしろリーン・スタートアップをハードウェア・ディープテックスタートアップに持ち込んだ好例とも言えるでしょう。
小さな仮説を試すことがリーン・スタートアップではありません。「仮説を検証するための最小限の実験を設計すること」がリーン・スタートアップなのです。その最小限の実験がスペースXのような大きな単位になる場合、当然掛け金は大きくなります。しかしその掛け金は典型的な宇宙企業と比べて著しく小さいはずです。これはまさにリーン・スタートアップの特徴です。掛け金が大きいか、小さいかではなく、掛け金が効率よく学びに変わっているか、がリーン・スタートアップかどうかを分ける分水嶺なのです。
リーン・スタートアップの4つの本質
では、エリック氏がリーン・スタートアップで伝えたい本質とは何でしょうか。私なりに重要と思う視点をいくつかピックアップし、解説します。
・仮説の検証は、物理的事象の観察から行う
リーン・スタートアップにおける学びとは、「検証による学び」です。エリック氏はこれを、スタートアップの進捗を測る唯一の単位と位置づけています。
ここで重要なのは、「検証」に主観を挟まないということです。たとえば、ユーザーに「この機能は満足しましたか?」と聞き、「はい」という回答を得る。これは検証ではありません。検証のために計測すべきなのは「このユーザーはまた戻ってくるのか?」「その割合や頻度は想定通りなのか?」という物理的事象の観察です。
本当に満足しているユーザーは、何を言うかにかかわらず、必ずサービスを再利用するはずです。ユーザーが「満足した」と述べた事実ではなく、ユーザーが実際に戻ってくるかどうかという行動の観察で評価する。エリック氏が繰り返し「顧客は自分が何を欲しいか知らない」と述べていますが、顧客の声ではなく顧客の行動こそが、仮説に対する唯一の証拠なのです。
・不都合な真実と向き合う
エリック氏は、ダウンロード数や売上の累計といった右肩上がりの数値を「虚栄の評価基準」と呼び、これらの数値ではコアの仮説をまったく検証できない、危険な指標だと断じています。対比されるのが「行動につながる評価基準」であり、具体的にはコホート分析やスプリットテストといった技法が紹介されています。
なぜ虚栄の評価基準が危険なのでしょうか。人間は、自分の仕事がうまくいっていると思い込みたい生き物だからです。数値の切り取り方によってはいかようにでも「うまくいっている」と主張できるものを見つけることができてしまいます。
しかし、リーン・スタートアップの本質は早く失敗に気づくことです。自分の仮説が根本的に間違っているかもしれないという不都合な事実と向き合うのは辛いことです。誰も、自分が失敗していることなど認めたくありません。しかし事業の成功という観点に立てば、一刻も早く失敗に気づいて方向転換(ピボット)したほうがいい。ここで重要なのは、不都合な真実に向き合うことを個人のマインドセットだけに委ねないことです。
コホート分析やスプリットテストを仕組みとして組み込めば、見たくない現実も数値として可視化されます。不都合な真実に向き合うことを、マインドセットではなくマネジメント技法として組織に埋め込む。これこそが、リーン・スタートアップにおいて最も力点が置かれている部分だと私は考えています。
・最もリスクの高い仮説から検証する
エリック氏は、事業にとって最もリスクが高く、検証が必要な仮説を「挑戦の要となる仮説」と呼んでいます。
事業とは仮説の塊です。たとえば、事業の成立条件として仮説A・B・C・Dの4つがあるとします。事業が成功するにはすべての仮説を検証しなければなりません。ひとつでも間違っていれば、成功確率はゼロになります。こういった時、人間は大抵、検証しやすい仮説から手をつけてしまいます。しかし、仮説Aの検証難易度が100で、B・C・Dが5だとしたら、難易度5の仮説から先に検証したとしても、Aの検証に失敗すればすべて無駄になってしまいます。
事業にとって根幹で、検証の難易度が高い「挑戦の要となる仮説」から先に検証すべきです。これは、かなり反直感的な意思決定ですが、最も効率よく事業の成功に向かい、リソースを無駄にしないための原則です。
・バッチサイズを小さくし、領域横断する
エリック氏は本書の中で、大量の手紙を封筒に入れる作業を例に、小さなバッチサイズの優位性を説明しています。折る→詰める→封をする→切手を貼る、という工程を一通ずつ完結させるほうが、各工程をまとめてやるよりも速い。直感に反しますが、これがバッチサイズを小さくすることの効用です。
これを事業に適用するとどうなるでしょうか。マーケティングチームはクリエイティブを作り、PM(プロジェクトマネージャー)は仕様を書き、営業部員は営業し、エンジニアは開発する。この分業体制は、バッチサイズを大きくしている状態です。アウトプットの効率はいいように見えますが、「何を作るべきか」に対する学びの効率は極めて悪くなります。
エリック氏が指摘する通り、現代の問いは「作れるか」ではなく「作るべきか」に変わっています。「作るべきか」という問いに答えるには、バッチサイズを小さくし、全員が領域横断することが大事です。エンジニアも営業し、PMもコードを書き、営業がプロトタイプまで作る。ひとつの仮説に対して全員が領域横断することで、本書で紹介する「構築―計測―学習」のループが最も速く回ります。
AI時代においてこの領域横断はさらに容易になっており、私自身も新規事業を立ち上げる際には必ずこの原則を実践しています。
このほかにも重要な原理原則が本書にはたくさん書かれています。全部を紹介するにはこの解説は短すぎるため、ぜひ本書を精読し、すべての原理原則を学んでいただければと思います。
AI時代にリーン・スタートアップの重要性は増す
最後に、AI時代におけるリーン・スタートアップについて触れないわけにはいかないでしょう。結論から言うと、リーン・スタートアップはAI時代もそのまま機能します。それどころか、その重要性は増しています。
AIによって生産能力がかつてないほど高まっています。私が経営するAIスタートアップのLayerX社では、プロダクト開発フィロソフィーを「使われないものを作らない」としています。これはリーン・スタートアップの哲学にも通じるものですが、AIによって生産能力が上がったとしても、いや上がったからこそ、なおさら「作るべきか?」の問いがなされるべきです。
ここで考えたいのは、リーン・スタートアップの原則です。「構築―計測―学習」ループにおいて、構築コストの減少は必ずしも学びの速度を増加させません。むしろ、成果よりも作ること自体を目的にしてしまうビルドトラップが高速に進めば、学びのループ全体を遅くする危険すらあります。学習を効果的に得るには意図した実験設計が必要です。これがリーン・スタートアップの根幹です。AIは、使い方を誤ればビルドトラップを加速させます。一方で、リーン・スタートアップの原則に従って使えば、学習のループをかつてない速度で回す武器になります。
AIの応用可能性は構築だけにとどまりません。計測と学習のフェーズそのものも変えることにあります。たとえば、AIが顧客の行動パターンから人間が気づかなかった異常を検知し、仮説の棄却シグナルを早期に発見する。コホート分析の切り口を自動的に探索し、見落としていたセグメントの挙動を浮かび上がらせる――これまで人間の分析力がボトルネックだった計測―学習のフェーズにおいて、AIは学びの速度だけでなく、学びの質そのものを引き上げる可能性を持っています。
AIはうまく使うことで、構築―計測―学習のループ全体を加速できます。より強力にするために今こそ、リーン・スタートアップの原則を学び直すタイミングです。
実際に、起業家を養成するYコンビネーターでは、AIの登場以降に成功のベンチマークとなる週次成長率が7%から14%に引き上がっています。AI以外にも様々な複合要因があるとは思いますが、AIによって構築―計測―学習のループが高速化していることが大きな貢献をしているのは想像に難くありません。
「リーン・スタートアップは死んだ」という批判に対する最もシンプルな反論は、まさにこの事実の中にあります。AIによって学習ループを速く回せる可能性が広がっています。リーン・スタートアップの方法論に従ってループを回す企業と、そうでない企業の差はかつてないほど開いていきます。AI時代こそ、リーン・スタートアップという考え方の重要性は増しているのです。
