12年働いた中堅システムインテグレーターをやめようと決心していたSEの後藤智彦。緊急トラブルの対応現場で出会ったすご腕の先輩SEの五十嵐優一と共に徹夜でトラブル対応にあたる長い夜。自分の将来に悩む後藤に対して五十嵐は「まず出世を捨てろ」と意外なアドバイスをする。(この物語はフィクションです)

イラスト:冬乃郁也
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 五十嵐さんの言葉は端的だったけれど、言いたいことはなんとなくわかった。

 春村さんも、なるほど、とうなずいている。

「それはつまり、器用貧乏にならないってことですね」

「そう。例えば、プロ野球選手を見てみろ。あの人たちはすごい。オレの高校の野球部は一回戦を勝つのがやっとってレベルだった。それでも1回勝てば大会の参加校が半分に減るわけで、真ん中以上だ。オレはそれでも立派だと思っている」

「ぼくもそう思います」

 春村さんも「真ん中だったら平均以上ですしね」と笑顔で同調してくれる。

「そこからさらに上を目指すとなると、試合をする度に半分になって半分になって、を繰り返し、地区予選の頂点に立つ。だが、まだ上がいる。次は県大会だ。愛知県の場合、参加校が200校近くもいる。確率的には優勝するなんて、夢のまた夢だ。それも勝って、全国で優勝する。それだけでもすごいことだろう」

「はい、雲の上です」

「でも、プロ野球の世界だと、甲子園で優勝したからって、活躍できる選手はごく一部だ。本当に少ない」

「たしかにそうですよね。すごく厳しい世界です」

「そんな超一流選手だらけなのに、プロ野球では複数のポジションをこなす選手はごく少ない」

「最近は大谷翔平選手が二刀流をやっていますが、あれは例外ですよね」

「そう、マンガの世界だ。普通は1つのポジションしかやらない。それだけ競争が厳しいからだ。つまりだ。あれだけの一流選手でも、1つのことしかやらない。だったら、オレたちのような凡人が、あちこち手を出すべきではない」

「たしかに……」

 ぼくの口からため息が漏れた。

 プロ野球選手と比べるのは変かもしれないけど、IT業界だって、成功している人は皆、莫大な努力をしている。たいした努力もしていないぼくが「成功したい」なんて、どれだけ身勝手な考えなのかと自覚させられてしまう。

イラスト:冬乃郁也
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「だから、まず、捨てるんだ。プロ野球選手も器用だから、その気になればビジネスだろうがテレビ出演だろうが、なんでもこなすに違いない。でも、やらないんだ。それは、そんなことをやってる暇がないからだ。一塁手なら、一塁の守備練習とバッティング練習、それだけをひたすらやる」

「本当の一流はそうなんですね」

「すごい世界だよな」

「じゃあ、ぼくは具体的には、何を捨てればいいでしょうか」

「まず、出世だ」

「出世を捨てる、ですか……」

「サラリーマンの日々の生活に大きく影響するものの1つが出世。これに専念した場合、犠牲が大きい。逆にこれを諦めれば、時間的余裕だけじゃなく、心の余裕も大きくなる」

「実際のところ、ぼくも心の中では半分くらい『出世』を捨てています」

 後輩にも抜かれている今だと、実質的に大出世は無理だ。

「半分じゃ駄目なんだ。全部捨てるんだ。中途半端が一番よくない」

「でも、チャンスがあれば、くらいに思ってるのも駄目ですか?」

「駄目だ。何かを『得る』ことと何かを『捨てる』ことは、同じなんだよ」

「同じ?」

「そう。捨てなければ得られない。だけど、みんな捨てたくないんだ。本当に捨てている人は、ほとんどいない。『出世には興味ありません』なんて言ってる人でも、大概は捨ててない。上がれるものなら上がりたいし、給料も増えたほうがいいからだ」

「たしかに……」

「これは人間誰しもが持つ欲望だし、間違ってない。だけど、それだと、ブレたまま生きてくことになる。繰り返すが、その人生は間違ってない。ただ、何かを成し遂げたいと思うなら、キッパリ捨てるしかない」

 キッパリ。ぼくは自分を納得させるように口の中で繰り返した。

 本当に、ぼくにできるだろうか? キッパリと、欲しかったものを捨てるなんて。

「アップルのスティーブ・ジョブズも『やってきたことと同じぐらい、やらなかったことに誇りを持っている』と話していた。成功した人は、みんな何かを捨ててるんだ」

「少しだけわかりました」

「本当に捨てたやつは、強いぞ」

 五十嵐さんはしゃべり過ぎて喉が渇いたのか、自動販売機でお茶を買った。

「五十嵐さんは完全な成功者だと思っています。でも、今のぼくの会社にいた時は、出世コースからは大きく外れていたんですね」

「40歳を過ぎても係長のままだったから、年下の上司が多かったな」

 40歳を過ぎて係長というのは、うちの会社の昇進スピードとしてはかなり遅い。でも、くやしいとか、落ち込む様子もなく、五十嵐さんはニコニコ笑っている。

「出世を捨てたからこそ実力がついた、ってことですね」

「負け惜しみに聞こえるかもしれないけど、そういう面はあるな。人間万事塞翁が馬だ」

不幸だと思ったことが、実は幸運だった、またはその逆もあるということだ。

「出世コースに乗って、やりたくもない調整業務やくだらない会議、無駄な飲み会だらけの人生は、楽しくはないですよね」

「そういうことをのみ込んで出世して、自分が権限を持てる立場になったら組織を変えようっていう志が高い人もいる。出世するっていうのは、否定されるようなことでもない。それに彼らが上でがんばってくれるから、組織が成り立っているんだ」

「なるほど」

 認めたくはないが、服部課長もそうだ。会社で必要な雑務を引き受けてくれているわけだ。

「とはいえ、出世を完全に捨てられると、全く違う人生を生きられる。後藤の『認めてもらえない』なんて悩みもなくなって、優雅な人生になる。ただ、ほとんどの人は、そう簡単に割り切れない。人間の心の奥底にある煩悩が邪魔をする」

 その通りだと思う。ここまで五十嵐さんに説明してもらったのに、ぼくの心にはまだ出世への意識が残っている。今の会社にいる限り、出世を完全に捨てることは難しいだろう。ぼくは本当に救いがたい存在だ。いや、もしかすると、すべての人間がそうなのかもしれない。

(つづく)

▼本連載は左門至峰氏の小説『ぼく、SEやめて転職したほうがいいですか?』(日経BP、2023年6月19日発行)を著者の許諾の下で転載しています。本文表記は原則、書籍発行時の記述をそのまま掲載しています。

日経クロステック 2023年8月22日付の記事を転載]