12年働いた中堅システムインテグレーターをやめようと決心していたSEの後藤智彦。緊急トラブルの対応現場で出会ったすご腕の先輩SEの五十嵐優一と共に徹夜でトラブル対応にあたる長い夜。後藤は転職にとらわれすぎていた自身の視野の狭さに気づき始める。(この物語はフィクションです)

イラスト:冬乃郁也
イラスト:冬乃郁也
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「お手洗いに行ってきます」と春村さんは席を立つ。

 休憩室は2人になった。

「そういえば五十嵐さん」

「どうした?」

イラスト:冬乃郁也
イラスト:冬乃郁也

「五十嵐さんの話を聞いて、人生において、お金は大事な要素ではないと思うようになってきました」

「オレもそうだ。他に大事なことがあると思っている」

「では、転職の時は、年収を気にしなかったんですか?」

「いや、そんなことはない」

「あれ? そうなんですか」

「別に、高い年収をもらえたら、うれしいってことではない。ただ単純に、安い給料しかもらえないんだったら、オレが目指すクラウド事業にニーズがないとか、オレに実力がないってことだと思ったんだ」

「なるほど……」

「それを測る指標として年収があった」

五十嵐さんはキリッとした表情をした。

「数字で表されるから、明確な指標ですね」とぼくはうなずいた。

「そうなんだ。オレは、自分の実力や実績を開示した上で、どの仕事で勝負するのが一番いいのかを見極めたかった。例えば、クラウドをやるにしても、運用保守のエンジニアだったり、セールスエンジニアだったり、開発などいくつか職種がある。ニーズと自分の能力のマッチングをしようとしたのさ。そのために、提示される年収というのはこだわったというか、気にした」

「高い年収をもらえるってことは、イコール、求められているってことですものね」

「そうだ、強く求められている仕事をしたかった。求められている仕事であれば、きっと、顧客に喜んでもらえる仕事なんだろうと思った」

「転職した後、独立して起業されたって聞きましたけど、仕事はどうでした?」

「顧客にはとても喜んでもらえたと思う」

「独立してからのほうが喜んでもらえたってことですか?」

「そう。オレが独立したのは、大きな組織のデメリットを感じるようになったからだ。組織にいると、雑務が増えるし、組織に縛られてやりたいことができない。つまりいい仕事ができない。スピードも遅い。それだけではない。大きな会社だと、顧客に提示する金額がどうしても高くなる」

「うちの会社も、顧客からは安くないお金をいただいています。でも、駅前の一等地にあるオフィスの賃料や社長やら幹部の給料も稼がなくてはいけません。高くなるのは仕方がないと思います」

「そういうことだ。それ以外には、ISOなど各種規定への準拠とか、コンプライアンス、法的なしがらみも多い。だから、自然と提示額が高くなる。一方、独立したら、同じことを3分の1とか、場合によっては10分の1の価格で提供できる。なおかつ、社内手続きを踏まないからスピード感がある。クラウドだったら、即日にでもシステムを導入できる」

「そこに顧客への価値を見いだしたわけですね」

「ま、そういうことだ」

「なるほど」

 だが、五十嵐さんは小さくため息をつく。

「独立してからは、会社勤務以上に雑務をやらなければいけなかった。これは予想外だった。電話対応やコピーもそうだし、会社を運営していくとなると、経理もしなければいけない。雑務だらけだ」

「会社にいる時は、誰かがやってくれていたんですね」

「そうだ。そんな当たり前のことすら気が付けなかった。社員を雇うと、それはそれで悩みが増え、やりたいことに専念できなくなる。だから社員は雇わず、電話応対や経理などはなるべく業務委託で外注した。それでも、外注できない雑務は大量に残る。読みが甘かったって話だ」

「そうなんですね」

「それと、サラリーマンは極端な話、会社に行きさえすればお金をもらえる。仕事で成果を出さなくても、だ。それがどれだけ素晴らしいことか、独立してから痛感させられたよ」

「独立した場合、働かなかったら収入はゼロですものね」

「もちろん。加えて、仮にどれだけ長時間働いたとしても、顧客がオレの仕事に価値を認めてくれなければゼロだ。多少の蓄えはあったし、失敗してもなんとかなるとは思っていた。だけど、そうは言いながらも金銭面での不安は常にあった」

 会社勤めのサラリーマンにも、独立したフリーランスにも、それぞれのメリット・デメリットがある。どちらの働き方がいいということではない。自分がどうしたいかだろう。

「五十嵐さん、サラリーマンをやっていると、無駄な会議・出張が多いですけど、独立してからは、『とりあえず集まりましょう』なんて会議は絶対にしないんじゃないですか?」

「そうだな。時間がもったいない」

「仕事のやり方も変わりました?」

「もちろん。オレはサラリーマン時代に、たくさんのビジネス書を読んだ。多読を通じて、仕事はどうあるべきかというビジネス感覚を養ってきた。だから、サラリーマン時代でも効率的な仕事をしていたと思っていた。でも、本で得た知識なんて、薄っぺらいものだった」

「本とは違いますか」

「もちろん。独立してから、本当の意味でビジネス感覚が身に付いた。まず、ビジネスに対する目つきが変わった」

 ぼくもビジネス書はよく読む。でも、それだけじゃ駄目なのだろう。「起業」や「独立」という言葉のかっこよさに憧れがあったが、そのハードルが、急に高くなった気がした。

「さっきも言ったが、がむしゃらに働くだけではお金は入ってこない。競争相手を蹴落とし、仕事を勝ち取らなければならない。だから、どうやったら稼げるかを真剣に考える。まさに、生きるか死ぬかの世界だ」

「サラリーマンはそこまで追い詰められることはありません。終電まで飲んで、次の日に二日酔いで出勤しても、給料はもらえます」

「本当にそう。独立した時は、酒の飲み方も変わったよ」

「ほどほどに、ということですか?」

「次の日の仕事に支障が出るからな」

「ですよね」

「それとやっぱり、一番大変なのが顧客対応だ。顧客は品質面、金額面、納期面などあらゆる面で非常に厳しい」

「それ、自分でも思うんですけど、システムを売る立場にいると、顧客はワガママで厳しいなあと思います。でも、いざ自分が客の立場になると、厳しい目になります。価格面でいうと、ネットで比較して少しでも安い店から買うようにしています。無駄なお金は絶対に払いたくないです」

「まさしくそうだ。顧客は皆、容赦がない。そんな厳しい人たちから、他社ではなく我々にお金を支払ってもらう必要がある。そのためには、卓越した技術力だけでなく、営業活動においてもすさまじい努力を払わなければならない」

「五十嵐さん、よく生きてきましたね」

 ぼくは素直に感心してしまった。

(つづく)

▼本連載は左門至峰氏の小説『ぼく、SEやめて転職したほうがいいですか?』(日経BP、2023年6月19日発行)を著者の許諾の下で転載しています。本文表記は原則、書籍発行時の記述をそのまま掲載しています。

日経クロステック 2023年8月28日付の記事を転載]