12年働いた中堅システムインテグレーターをやめようと決心していたSEの後藤智彦。緊急トラブルの対応現場で出会ったすご腕の先輩SEの五十嵐優一と共に徹夜でトラブル対応にあたる長い夜。後藤は五十嵐と語り合うことで、「SEの仕事の価値」への認識を改めていく。(この物語はフィクションです)

イラスト:冬乃郁也
イラスト:冬乃郁也
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「春村さん、遅いですね。大丈夫かな」

「彼女の好きにさせてやろう」

 五十嵐さんは、お茶を飲みながらそう言う。

 トイレを好きにさせてやろうって、どういうこと? 五十嵐さん何かを知っている?

 いや、そんなことはないはずだと思い直して、「でも、おなかが空きましたねえ」と話題を変えてみる。五十嵐さんも「そうだな」なんて答えたが、ぼくはSEの仕事の話を続けた。

イラスト:冬乃郁也
イラスト:冬乃郁也

「五十嵐さん、さっきの話で改めて感じました。やはり、仕事は顧客あってのこと、ということですね」

「そうだ。徹夜でがんばって作ったとか、生活がかかっているとか、そんなのは顧客からしたらどうでもいいこと。オレが独立して仕事をしている時に意識をしたのは、顧客にいかに喜んでもらうか。そこだけを考えて仕事をした」

「いかに喜んでもらうか、ですか」

「顧客に喜んでもらうって、すごく難しいんだ。例えば、後藤は家族を喜ばせられるか?」

「……難しいです。実は今日、娘とカレーを作る約束をしていたんです。たぶん、娘は怒っています」

「そうか、それで早く帰りたかったのか。悪いことをしたな」

「あ、いや、仕事なので、仕方がないです」

 そう言ったぼくだったが、少しホッとした。五十嵐さんに、ぼくが早く帰りたいと言った理由を伝えることができたからだ。おそらく、単にこの場から逃げ出したかっただけ、そう思われていたはずだ。

 五十嵐さんは、ときおりスマホに目をやりながらも、話を続けてくれた。

「家族を喜ばせようと思っても、単にプレゼントを贈ればいいとか、遊園地に連れて行けばいいなど、単純なものではない。こちらからいくら喜ばせようとしても、相手がそれを望まなければ意味なしだ。喜んでもらう方法の基本は、相手の要求に100%応えることだ。だけど、仕事をいくつか掛け持ちしていて対応できないときや、そもそも身勝手な要求もあったりする。だから、100%応えるなんてことは、まずできない」

「それに、相手の要求がなにか、明確にわからないこともあります」

「それな。顧客自身も、よくわかっていなかったりする。だから、システムを作るときには要件定義が大事になってくる」

 妻はぼくに何を望んでいるのだろうか。ぼくの転職なんて、もしかすると全く望んでいないのではないだろうか。少し不安になってきた。

 頭を抱えるぼくに、五十嵐さんは語気を強めた。

「とにかく、人が喜ばなければビジネスは成立しない」

 まさしくビジネスの原点だ。

「五十嵐さんは、それができたんですよね?」

「そう。オレは喜んでもらう仕事をした。そう胸を張って言える」

 家具・インテリアの大手であるニトリの創業者で会長の似鳥昭雄さんも同じようなことをテレビで言っていた。「誰かに喜んでもらう、そうすると、もうけるんじゃなく、もうかるんだ」と。五十嵐さんのやり方もまさしくこれだろう。ぼくもそんな仕事をしたい。

 ただ、どうやって喜んでもらう仕事ができたのか。イメージが湧かない。もう少し聞きたい。

「五十嵐さんはクラウドの仕事をされたとのことですが、具体的にどうやって顧客の心をつかんだのですか?」

「捨てる、という話に関連するが、オレは他のことはやらずにクラウドに専念した」

「専念することで、クオリティーを高めたということですね」

「そうだ。クラウドが普及してきたとはいえ、クラウドの細かいところまでノウハウを持っている人間は少ない。特にオンプレミスのシステムとクラウドのシステムの連携が難しい。例えばクラウドとオンプレミスのシステムで認証連携して、シングルサインオンでまるで1つのシステムのように使えるようにするのは簡単じゃない」

「そうですよね……」

「だから、クラウドのプロとして、そのニーズに応えようと決めたんだ。認証連携などの複雑な点に関しても、即答できるだけのQ&A集、手順書、解説動画、そして手伝ってくれる仲間、クラウド上の仮想基盤上に立てたシステム環境、ありとあらゆるものを準備した」

 さすが五十嵐さん。しかも、手順書1つをとっても、品質が高そうだ。

「そして、顧客との打ち合わせでは、すぐにその場で顧客とオレの環境とを連携させて、うまくいくところを見せる。どんな要求も即答できるようにする。もしできない場合は、すぐにフリーランスの仲間にチャットアプリのスラック(Slack)で――後藤も使っているな」

「あ、はい」

「そのスラックで連絡する。そして、質問には調べてもらい、その場で聞いた顧客が要望を実現するシステムを、クラウド上で作ってもらう。打ち合わせが終わる頃にはでき上がっているってわけだ。スピードは速いし、品質も高い、しかも料金は格安。顧客はもちろん喜んでくれた」

 なるほど。需要の三要素と言われる品質、価格、納期のすべての面で完璧だ。顧客が喜ぶこと間違いなしだ。それに、格安料金といっても、五十嵐さんには結構な金が入ったはずだ。そりゃ、やりがいもある。

「仕事はしんどかったが、生きていくには本気でやるしかない。だから、とことん考え抜いた。創意工夫をしながら、『よりよい方法』を見つける。その努力が実って顧客に喜んでもらえたときは、何とも言えない達成感だ」

 ぼくは思わず、拍手したい気分になった。

「五十嵐さんは、好きなことをやって、喜んでもらって、おまけにお金をもうけたわけですね。理想的じゃないですか!」

「理想的に見えるか? ただ、突き詰めると、仕事ってつまりはそういうことなんだ。好きなこと、やりたいことをやる、だから真剣に取り組む。すると、顧客が喜ぶ。その結果、もうかる。お金を稼ぐのは簡単ではないが、仕組みは意外に単純なんだ」

「五十嵐さん、もしかして年収、すごく高いんじゃないですか……」

「それが、違うんだよ。中小企業の仕事が多かったから単価が安いんだ。一方の大手企業は、オレの個人経営のような会社とは契約しない。会社としての信頼がないからな」

 五十嵐さんは自分の年収の話になると、たくさんもらっていないアピールをする。どうも怪しい。

「本当ですか?」

「本当さ。大企業は契約するときに、法務とかの社内審査がある。例えば、仮にオレがどれだけ優秀だったとしても、オレが病気で倒れたら困るわけよ。会社のシステムが止まってしまうからさ。一方の大企業に発注すれば、組織で対応してくれる。だから大企業は、ある程度の規模で信頼できる会社としか契約しないんだ」

「なるほど……」

 これ以上追及しても、本当の年収のことは語ってくれないだろう。ぼくは聞き役に徹した。

「結局、オレが描いていた通りに、バンバン受注して、とはいかなかった。それでも、仕事が1つ決まれば、まとまったお金が入ってくる。独立して収入が増えたことは事実だ」

 ほら、やっぱり増えているじゃん。独立して好きなことをやり、収入を増やした五十嵐さんがうらやましかった。

(つづく)

▼本連載は左門至峰氏の小説『ぼく、SEやめて転職したほうがいいですか?』(日経BP、2023年6月19日発行)を著者の許諾の下で転載しています。本文表記は原則、書籍発行時の記述をそのまま掲載しています。

日経クロステック 2023年8月29日付の記事を転載]