人間には、自分の仮説や予測を正当化する情報だけを集めて、「やっぱり正しい」などと考えてしまうリスクがあります。米デューク大学のダン・アリエリー教授が、行動経済学をもとに人間の不合理性を解説した名著 『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』 (熊谷淳子訳/ハヤカワ・ノンフィクション文庫)を、慶応義塾大学大学院の清水勝彦教授が読み解きます。 『ビジネスの名著を読む〔戦略・マーケティング編〕』 から抜粋。
「仮説」を正当化する情報だけを集める
「百聞は一見にしかず」ということわざは英語で「Seeing is believing」と訳されますが、アリエリーは「Believing is seeing」であることの証拠を次々と示します。私たちは一度、こうだと「予測」すると、結果が客観的にはっきりしたものでない限り、自分の予測に合わせて結果を解釈し、納得する傾向があるというのです。
アリエリーが本書で紹介するのは「酢を数滴たらしたビール」と「普通のビール」の双方を試飲してもらうケースです。試飲の際に何も言わないと「酢入りビール」を選ぶ人が結構いるのに、教えると選ばなくなる人が増えるのです。「コーヒーを飲む雰囲気が高級だと、コーヒーの質も高級に感じる」といった例も引き合いに出しています。同じワインなのに、異なる価格を提示して試飲してもらうと、高い方がいい味だという人が増えるという話を聞いた人も多いでしょう。
問題解決には、まず仮説を立て、それを検証することにより真の結論を導き出す「仮説思考」が重要です。しかし、様々な情報の中から「仮説」あるいは「予測」を正当化する情報だけを集めてきて、「やっぱり正しい」などと考えてしまうリスクも知っておくべきです。さらに、それはしばしば「無意識」に行われているということにも注意した方がよいでしょう。
人間はもともと「不合理」なものです。しかし、その不合理さは「予想どおり」のことであり、「不合理である」という前提でどのように対処できるのかを指摘してきたのが本書です。「不合理」であることは必ずしも悪いことではありません。「人間とはなんと素晴らしい傑作か!」というシェークスピアの言葉どおり、人間の本質に基づいた意思決定や制度作り、経営こそが人間の持つ限りない可能性を開花させうるのです。
暗示は確信を生み、人の体まで動かす
人が「予測」したとおりに物事を見る、つまり「Believing is seeing」であることはプラセボ(偽薬)効果でも明らかです。つまり、暗示が信頼や確信を生み、それが人の体までを動かすのです。
本書では、単なるビタミンCの錠剤を渡して痛み止めの新薬であると説明すると、実験者のほぼ全員が効いていると答える例が挙げられています。さらに面白いのは、値引きをすると、効果も下がることです。「わたしたちは値引きされたものを見ると、直観的に定価のものより品質が劣っていると判断する。そして、ほんとうにその程度のものにしてしまう」のです。顧客にとって価格とは、コストプラス適正利潤以上の意味を持っているのです。
プラセボ効果は「ロイヤルタッチ」、例えば、「ある霊能者が盲目の患者の目に触っただけで目が見えるようになった」といったような話も含まれています。いかにもうさんくさいですが、患者が信じている限りそうした治癒の可能性は否定できません。プラセボ効果によって心が体に影響を及ぼす仕組みについては、まだまだ未解明の点が多いことも指摘されています。
さらにアリエリーは、自らの全身やけどの治療(本書にはあちこちに出てきますが)のために、ジョブスト・スーツという全身スーツを着用した体験にも触れます。すごい効果の見込めるスーツだという鳴り物入りで、アリエリーも大興奮したらしいのですが、「結局、スーツで得られたのは、スーツ着用に伴う苦痛だけだった」のです。もちろんやけど患者に、偽スーツと本当のスーツを着せて実験するということは倫理上無理だろうがと前置きをして、それでももっとプラセボ効果の実験をする価値があるテーマがいくらでもあると彼は指摘します。
こうした点と関連して、アリエリーは「ステレオタイプ」の問題にも触れています。例えば「女性は数学が苦手だ」などというステレオタイプは、そうした考えを抱く男性側だけでなく、抱かれる女性側の行動も変えてしまうのです。
アリエリーはそうした「決められた見方」「ステレオタイプ」は、しばしば長い歴史、教育の中で培われてきたことも多く、イスラエルとパレスチナ、米国とイラク、インドとパキスタンの長い紛争の例を挙げ「真実は1つ」などという「合理的な考え方」は通用しないのだと、ナイーブな政治家に警鐘を鳴らします。
最大の弊害は「成功体験のわな」
「Believing is seeing」であることは必ずしも悪くありません。人間に予測能力があるから、切れ切れの会話も理解することができますし、100%単語が分かっていなくても外国語でコミュニケーションすることができます。逆に予測能力がなければ、経験も生きませんし、常に一から挑戦することになり、危なっかしくて仕方がありません。
しかし、弊害もあります。その最大のものは「成功体験のわな」と言われるものです。これまで、こうして成功してきたのだから、これでやれ。仮に失敗しても「努力が足りない」「もっとやれ」ということで、自分の「成功パターンの予測」にこだわり、あるいはそうした視点からしかデータを解釈せず、結果として手遅れと言っていいほど業績が悪化して初めて「もしかしたら、自分の予測が間違っていたのでは」などと気づくケースです。
繰り返しになりますが、本書のポイントは、不合理が悪だとか、なくせということでは決してありません。人間には、そうした愛すべき側面があることをよく理解し、プライベートにしても、経営にしても対処することが必要であるということです。こうした不合理的な思い込みが多いことを前提に、アリエリーは「実験」の重要性を続編 『不合理だからすべてがうまくいく 行動経済学で「人を動かす」』 (櫻井祐子訳/早川書房)でも指摘しています。ただ、まさにその「思い込み」のために、実験が軽視されていることも事実です(私も以前「やってみなければ分からない」の論旨で本を書いたことがありますが、あまり売れなかったのは同じ理由かもしれません)。
そうした点を踏まえ、最後にアリエリーの問題意識をもう1つ挙げておきます。「第六感や直感を大切にしたいから、科学的実験なんかいっさいやめてしまおうという人には、これまで会ったことがありません。とはいえ、特に企業方針や公共政策の重要な決定にかかわる問題では、実験の重要性があまり広く認識されていないことに私はいつも驚かされます」
ポーターら巨匠の代表作から、近年ベストセラーになった注目作まで、戦略論やマーケティングに関して必ず押さえておくべき名著の内容を、第一線の経営学者やコンサルタントが独自の事例分析を交えながら読み解きます。
日本経済新聞社編/日本経済新聞出版/2640円(税込み)