経営に欠かせない要素として「ウェルビーイング」が注目されています。社員の創造性を引き出し、生産性を高めるウェルビーイング経営とは何か。産業医と企業の実務家の2つの顔を持つ丸井グループの小島玲子氏が解説します。今回は、「こうなりたくない」という防衛的なネガティブ情動では、人は変わらない。「こうありたい」と成長モードのポジティブ情動を喚起し続けることが必要だ、というお話を。 ※本連載をまとめた書籍『夢中になれる組織の科学 働きがいのメカニズムを解き明かす』が2025年7月に発売。ここでその一部をお読みいただけます。

 「人生の悲劇は、人は変わらないということである」と言ったのは、英国の作家アガサ・クリスティーでした。医師から「糖尿病が悪化すれば人工透析や足の切断になる」と何度注意されても過食を続け、実際に人工透析に至る人。周囲に何度促されても病院に行かず体調を悪化させる人。私は医師としてこうしたケースを見てきました。

 心臓の手術を受けた患者を追跡調査した海外のある研究によると、彼らには「死ぬかもしれない」という究極の動機があったにもかかわらず、生活習慣を変えることができたのは実に9人に1人だったといいます。ネガティブな情動では、人は中長期的にほとんど変わらないのです。

 ネガティブ情動の悪影響は強力で、皮肉にも、人や集団が同じ行動を繰り返す要因の1つです。上司からパワハラを受けた人が、自分が上司になって部下に同じような行為をする。抑圧された過去を持つ集団が、今度は別の集団を抑圧する。

 経営コンサルタントのスティーブン・コヴィー氏は、「仮にあなたが子どもの頃に両親に虐待されたからといって、あなたも自分の子どもを虐待する必要はない。心理学の研究によると、そうした脚本通りの行動をする確率が極めて高い」と、著書『7つの習慣』の中で述べています。

 情動の「負の連鎖」とでも言うべきこうした悲劇が、往々にして起こるのです。

流れを変える人になる

 情動の「負の連鎖」を変えるには、どうしたらよいのでしょうか。17世紀オランダの哲学者スピノザは、「感情(アフェクトゥス)は、それよりも強い反対の感情によってのみ、制限したり無効にしたりできる」と述べました。

 この言葉について、世界的な神経科学者のアントニオ・ダマシオ氏は、神経科学の知見を踏まえて著書(※1)でこう解説しています。

※1「 感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ」(アントニオ・R・ダマシオ著、田中三彦訳/ダイヤモンド社)

 「我々は、我々を苦しめるネガティブな情動に対しては、理性的で知的な努力がもたらす、それよりもずっと強いポジティブな情動を使って闘うべきだと、スピノザは勧めた。彼の考えの中心には、激情の抑制は理性によって生み出される『情動』によって成し遂げられるのであって、純粋な理性のみによってではない、という考えがあった。これは決して成就しやすいことではないが、スピノザは簡単なことにはほとんど価値を見出していなかった」

 負の連鎖を断ち切るためには、たとえそれが難しくとも、ネガティブ情動を超えるほどに、辛抱強くポジティブ情動を喚起し続けることが必要なのです。

 歴史を振り返ると、社会の流れを変えてきた人々はこれを実行していました。例えば1960年代の米国で公民権運動を展開したマーティン・ルーサー・キング牧師は、「黒人の権利を守るために、白人に立ち向かえ」と防衛や敵意というネガティブ情動を使う代わりに、「私には夢がある」と演説しました。

 「私たちはこうありたい」という希望の社会をありありと示し、ポジティブ情動によって人々を導き続けたのです。以下に演説の一部を紹介します(※2)

※2 アメリカンセンターJAPANのウェブサイトに掲載の和訳

 「私には夢がある。(中略)それはいつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく人格そのものによって評価される国に住むという夢である。今日、私には夢がある。私には夢がある。それは邪悪な人種差別主義者たちのいる、州権優位や連邦法実施拒否を主張する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である」

なぜ日本は変われないのか

 ビジネスSNS(交流サイト)のリンクトインが2020年に世界22カ国を対象に実施した調査によると、働く人の仕事に対する自信が最も低いのは日本でした。また、世界50カ国の18~64才を対象に実施した調査では、起業を望ましい職業選択と考える人の割合は、中国が79%、米国が68%なのに対して、日本は25%と最も低い水準にあります(グローバル・アントレプレナーシップ・モニターの19年調査)。

 要因は複数あるにせよ、日本では問題や失敗に対して叱責や罰を与えるなど、ネガティブ情動によって人を変えようとしてきたことが、これらの結果に表れているように思います。防衛的なネガティブ情動が、日本社会の発展を妨げているのではないでしょうか。

■ 丸井グループが長年提示し続けてきた価値観
■ 丸井グループが長年提示し続けてきた価値観
丸井グループが15年以上に わたって、決算説明会やIR (投資家向け広報)デー、中 期経営推進会議など様々な 場面で各ステークホルダー に示し続けてきた図。全社 員がこの図を認識している 出所:丸井グループ
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 実は丸井グループは、これまで15年以上かけて「防衛モード」のマインドを「成長モード」に変換してきた企業です。00年代に2度の赤字に陥り、存続すら危うい時期がありました。その時こそ「二度とこうならないために」ではなく、「私たちはこうありたい」と目指す企業文化を示し、成長モードの情動を喚起し続けてきました(上の図)。

 07年から「お客さまのお役に立つために進化し続ける 人の成長=企業の成長」という経営理念の下で、辛抱強く社員を成長モードに導き続けたことが、その後の丸井グループが業績回復を果たした本質的な要因だと私は思います。この間に、自ら手を挙げて行動した社員の割合は全体の85%に上り、時価総額は2倍以上となりました。いまだ道半ばとはいえ、目指す企業文化は現実のものとなりつつあります。

 心臓病の患者なら、「死にたくない」ではなく「こういう人生を歩みたい」。虐待された過去を持つ人なら、「虐待はいやだ」ではなく「こういう家族をつくりたい」。こうした成長モードの情動が喚起される時に、人や組織は本質的に変われるのです。

 人間も動物ですが、動物の訓練に「罰」は無いのです。

(写真:Olga Gorkun/stock.adobe.com)
(写真:Olga Gorkun/stock.adobe.com)

日経ビジネス電子版 2024年2月21日付の記事を転載 「日経ESG」2024年3月号の記事を基に構成]

本連載をまとめた新刊が2025年7月に発刊されました。仕事に夢中になって能力を発揮する――そんな「フロー状態」の従業員が働く組織はどうつくるのか。丸井グループ 産業医 取締役CWO(チーフ・ウェルビーイング・オフィサー)を務める著者が、実践した多数の事例を紹介しながら科学的に解き明かします。

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