細胞研究と40年以上向き合ってきた生命科学者が、一冊の闘病記を読んで涙した。東えりか氏の『見えない死神――原発不明がん、百六十日の記録』(集英社)は、夫・保雄氏が原発不明がんと診断されてから亡くなるまでの160日間を克明に記録したノンフィクションだ。がん患者の5人に1人が「希少がん」――症例が少なく、診断も治療も困難な病に直面している。診断確定まで3カ月を要した地獄の日々、在宅介護のリアル、そして医療体制の課題。科学者の目で記録された「美しくない真実」が、なぜ多くの人の心を打つのか。『私たちは意外に近いうちに老いなくなる』(日経BP)著者で自らも希少がんの腎細胞がんの手術を受けた経験を持つ吉森保氏が著者の東氏と語り合った。
研究者が語る「診断確定までの地獄」
吉森 保(以下吉森) 『 私たちは意外に近いうちに老いなくなる 』を刊行してから、老化について考えるというコメントを読者から大変もらっています。
東さんの『 見えない死神――原発不明がん、百六十日の記録 』を読ませていただいて泣いてしまいました。実は私は東さんと同い年で、ご主人の保雄さんも年齢が近い。とても身近に感じて感情移入してしまい、泣きながらページをめくりました。
実は私も3年前に腎細胞がん(腎臓にできるがん)が見つかって手術しています。ただ、保雄さんの場合と全く反対で、早期に発見されてすぐに病名が確定しました。
東 えりか(以下東) 腎細胞がんも希少がん(患者数が少なく症例が限られるがん)ですよね。
吉森 10万人に5~6人です。私の場合は本当にラッキーで、人間ドックのエコー検査で見つかりました。腫瘍が数ミリの段階でしたから、見逃されてもおかしくない。エコーという粗い検査で見つけてくれた技師の方の腕がたまたま良かったのです。技量によって運命が変わるんだと身をもって実感しました。
一方で、『見えない死神』を読んでいても思いましたが、諦めてはいけない。セカンドオピニオンは絶対に求めたほうがいい。医師によって、検査した病院によって診断が変わることは山ほどありますからね。
東 がんは初期に見つかってそれを切除してしまうことが最大で最強の治療法ですから、早期発見が何よりも欠かせませんよね。
吉森 はい、私も生命科学者として40年以上、がんとの接点がありましたが、自分がなるとは思っていませんでした。日本人の2人に1人ががんになるという数字は知っていても、どこか人ごとだったんです。それが急にがんかもしれないとなって。なによりも、診断が確定するまでが、かなりキツい。保雄さんの場合はその状態がずっと続いてしまった。
東 そう、3か月も。地獄の日々でした。
吉森 私の場合は数日だったんですが、数日でも、とても長く感じました。腎臓の場合、腫瘍のようなものが見つかったら9割ががんです。だから、こちらも覚悟はしているのですが、知り合いの教授が「良性の可能性もある」みたいに励まそうとするのです。気を使ってくれているのは分かるんですが、こちらとしては余計に不安になる。だから造影CT(造影剤を使った詳しい検査)で99%腎細胞がんだと確定診断されたときに、逆にちょっとほっとしました。
東 結局、分からないより分かったほうが進むべき道が見えてくるんですよね。何をすべきかが、はっきりする。分からないときは四方八方、闇というか霧の中。私も夫の病気が確定するまでが、一番つらかったです。
吉森 私も経験があるから、本を読んでいても、よく分からない状態がずっと続くのを読み進めるのが、本当につらくて。しかも分かった段階ではもうどうしようもない状態だったわけですから。
私は医者ではないけれども医学部にずっといたので、医療にも限界があることはよく知っています。医学は万能ではないですし、分かっていないことのほうがはるかに多い。でも、この本はそういう医療の限界を自覚しながら、病気にどう向き合うかを冷静に記録している。そこに東さんの「科学者」としての視点を感じました。
書評家
科学者の目が捉えた「美しくない真実」
吉森 私は東さんのご経歴を全然知らなかったのですが、読んでいて「この人は同類だな」と思いました。科学者の視点で本が展開されているのがすごく興味深かったです。
東 信州大学の農学部を出て、動物用医療機器メーカーの開発部で技術者として働いていました。
吉森 やっぱり。本の中でも、非常に厳しい状況にもかかわらず、常に客観的な視点で、記録を取られている姿が印象的でした。
東 本書を書き始めたのは夫が亡くなって半年後ぐらいでした。闘病の美しい話にだけはしたくありませんでした。できるだけ時間が経たないうちに、関わってくださった医療関係者の方が忘れないうちに、知っていることを書き残したいという気持ちがすごく強かったです。夫の最期は在宅介護でしたが、18日間しかしていないので、早く書き残さないと絶対に忘れてしまうとも思いました。
吉森 闘病記と聞くと、手に取ったときに「つらい話だろうな」って身構えがちなのですが、この本はつらく、悲しくても常にどこか冷静な目がちゃんとあるんですね。だから、すごく切実な内容なのですが、いい意味での実用書になっている。東さんの「科学者」の視点があるからこそ読み物としてだけでなく、マニュアル本としても成立しています。
東 みなさんそうおっしゃってくださるんです。
吉森 原因不明の病気にどう対処するか、自宅介護をどう進めるか、医療者とどう向き合うか――多層のマニュアルになっているんですね。希少がんという病気についてだけでなく、一般に医療と対峙するときの心構えまで、この本から学べるなと。
在宅介護の現実――18日間の記録が教えてくれること
吉森 自分ががんになったときも思いましたが、やっぱり死ぬときは家に帰りたい。でも、帰ろうと思ったところで帰れるものでもないんですよね。
東 本当にそうですね。夫が家に帰れる可能性があったのも、実際に帰ったタイミングのとき1回しかありませんでした。
吉森 この本を読むと在宅介護がどれだけ大変かもよく分かります。
東 在宅介護のノウハウを持っている人を見つけるにしても、患者側が調べて手配するしかありません。介護保険のシステムはよくできていますが、いざ当事者になったときに、みんなそこまでできるだろうかと。
吉森 何から手をつけていいか分からないですよね。この本を読めば、何をすべきかが分かる。そういう意味でも貴重な記録だと思います。

希少がんは「希少」ではない――5人に1人という現実
東 今、国が希少がんの症例を集約したデータベースを作ろうとしていて、どの専門医に行けば治療できるかが分かるようになりつつあります。ただ、それ自体を一般にアピールする場が全然ありませんし、私がこの本を書くまで希少がんに関する一般向けの本もなさそうでした。
吉森 私も知りませんでしたが、希少がんのがん全体に占めるパーセンテージは大きいですよね。個別に見ればそれぞれ希少がんだけど、まとめると相当な人数になります。
東 がん患者の5人に1人が希少がんですから、すごいですよね。
吉森 大きい数字ですよね。がんだけじゃなく神経変性疾患にも希少なものがたくさんあります。
東 共通する課題も多そうですよね。
吉森 そうなんです。どれも症例が少なくて専門医が限られる。東さんが言われたような症例データベースの整備が必要なんですが、それを支える医療従事者の方たちも現場ですごく苦労されています。
東 患者だけでなく、医療者側も大変なんですね。
吉森 そうです。だからこそ医療体制はもっと良くなるべきだし、行政のサポートももっとあってしかるべきです。この本はそうした問題への投げかけにもなっています。
東 実際、読者の方から多くの反響をいただいて、その感想を見るたびに私自身が泣いています。
吉森 それだけ多くの人にとって切実な問題なんですよね。日本人の2人に1人ががんになる時代ですから。
東 誰もがいつ自分ごとになるか分からない。
吉森 だからこそ、普通だったら思い出したくないことをここまで書いてくださった、この勇気ある記録をみんなに読んでほしいと思います。
取材・文/栗下直也、構成/中野亜海(日経BOOKSユニット第1編集部)、市川史樹(日経BOOKプラス編集)
吉森保著、日経BP、1980円(税込み)




