日本の医療費は約50兆円の規模だ。介護や家族の負担まで含めれば、その経済的影響はさらに膨れ上がる。少子高齢化が進む日本社会の未来を悲観する声は多いが、本当に暗いのか。それとも、科学の力で意外にも明るく変わり得るのか。連続起業家の孫泰蔵氏と、オートファジー研究の第一人者で『 私たちは意外に近いうちに老いなくなる 』(日経BP)の著者である吉森保・大阪大学名誉教授が語り合った。今回はその前編をお送りする。
超高齢社会は、本当に「詰み」なのか
吉森保さん(以下、吉森) 超高齢社会がディストピアのように語られることに、私はずっと違和感がありました。確かに現状のままでは、老々介護が増え、医療費も膨れ上がり、どうしようもなくなるのは目に見えています。ただ、そうした未来予測は高齢者が病気であることが前提なんですね。もし高齢者が元気だったら、どうなるでしょうか。景色が一変するはずです。ディストピアがユートピアに変わるくらいの変化が起こると思います。
孫泰蔵さん(以下、孫) 日本では、医療費、つまり病気が発症してから治療にかかる費用――英語で「オンセット・メディシン」といいますが、それだけで約50兆円ほどあるそうです。これだけでも財政を圧迫しているのに、介護する人たちの負担、家族が仕事を辞めざるを得ないケースなども合わせた経済的影響は、おそらくその倍以上になるはずです。

吉森 少子高齢化が引き起こしている問題の核心は、まさにそこですよね。
孫 ですから、健康寿命と寿命がほぼ同じになる社会、つまり死ぬ直前まで元気でいられる社会が到来したら、社会の構造が根っこから変わります。医療費が大幅に減るだけでなく、元気な高齢者が働いたり社会に参加したりすることで、経済がむしろ活性化する。さらにAIを活用すれば、その効果に掛け算がかかってくる。
吉森 日本には国民皆保険という素晴らしい制度がありますが、裏を返すと、「病気になっても保険で何とかなる」という安心感が、予防への意識を下げてしまっている面があるかもしれません。でも実際には、その保険制度自体がもう財政的に立ち行かなくなりつつある。それに、いくら保険があっても完治が難しい病気はありますし、治る病気であっても治療の過程は苦しい。そう考えると、そもそも病気にならないのが一番いいに決まっているんですよね。
孫 究極の医療は予防だと思うのですが、「予防の意識を高めよう」と言っても、人は動きません。「頑張ろう」「気合だ」と言ってもほとんど効果はありません。人間が行動を変えられるのは、希望があるときだけですよ。「やったら変われる」と言われて、「じゃあやってみよう」ってなる。ところが老いに関しては、誰もが「避けられないもの」と思い込んでいるから、避けられないなら予防しても意味がないと感じてしまう。その前提が覆らない限り、予防意識は根付きません。
吉森 そのとおりですね。
孫 ですから、先生のご著書のタイトルにはすごくやる気を起こさせる力がある。「老いなくなる」と言われれば、誰だって関心を持ちます。自分はどれぐらい老いているのか、そして何がどう変われば老いなくなる日が来るのかと好奇心が湧いてくる。社会の多くの人にやる気を起こさせる画期的なタイトルですよ。
吉森 ちょっとほめ過ぎです(笑)。
孫 いやいや、しかも、「ライフサイエンスの教科書」といえる水準の内容が詰まっている。先端の研究も紹介されていますが、入り口は誰にでも分かる内容になっているので、無理しなくても最後まで読めてしまう。読者の知識もやる気も高みに引き上げる構成が素晴らしいです。

まずは「測る」ことから始まる
孫 先ほど希望があれば人は動くと言いましたが、その希望を支えるのはやはり科学的な根拠ですよね。
吉森 そのとおりです。皆さんに希望を持ってもらうためには、まず科学的な裏付けが必要です。そのためには計測が不可欠です。私が最近取り組んでいるのも、オートファジー――細胞が自分の中の部品を少しずつ壊して新品と入れ替える仕組みですが、その働き具合を一人ひとり正確に測定する技術の開発です。たとえば健康診断の結果のように、「あなたは40代なのに、細胞のオートファジー能力は60代並みまで落ちていますよ」と数字で示せるようになれば、人の行動は変わるはずです。
孫 今の段階では、オートファジーの活動を測ることはできないんですか。
吉森 一応できるのですが、まだ精度と手軽さに課題があります。今の方法だと、血液から血小板を採ってその場ですぐに分析しなければならない。しかも、血小板で測れるのはあくまで血小板という一つの種類の細胞の状態であって、たとえば脳の細胞でオートファジーがちゃんと働いているかどうかまではわかりません。採血一本でもっと全身の状態が見渡せるような方法を開発しているところです。
孫 そこはまさにAIの出番ですよね。血液のデータからいくつかの指標を読み取って、それをもとにAIが予測モデルを組めれば、直接見えない脳の中の状態まで推定できるようになるかもしれませんね。
健康なまま、ぱたっと死ぬ不思議
孫 すごく素朴な疑問があるんですが、健康寿命が限りなく生物学的寿命と同じになったとき、私たちはどうなるのでしょうか。「健康なのにぱたっと死ぬ」となると、死因は何になるんでしょうか。
吉森 この本に出てくるハダカデバネズミがまさにそうなんです。老化しないで、健康なまま死んでしまう。それで研究されている先生に「死因は何ですか」と聞いたら、「分かっていません」と。

孫 分からないんですか。
吉森 パタッと死んでしまうから解析が難しいんですね。病気で死ぬなら、死ぬ前に兆候があるから追跡できます。ところが、病気ではないので死体を調べても特に異常がない。
死んでいることしか分からない。心停止していますが、そこに至るメカニズムがまだ分からないそうです。
孫 不思議ですね。
吉森 不思議です。でもハダカデバネズミの例があるので、健康なまま天寿を全うすることはあり得るわけです。最期まで元気に過ごして、ある日すっと逝く。いわゆる「ピンピンコロリ」ですね。
ただ、われわれはそれが理想だとずっと思ってきたのですが、現場で看取りをしているお医者さんからは「最後まで意識がはっきりしていると、かえって死ぬのが怖くなりませんか」と問いかけられたことがあります。少し認知が衰えているほうが穏やかに最期を迎えられるんじゃないかと考える先生も、結構いるそうです。
孫 死が近づいていることをはっきり自覚できてしまうと、かえって覚悟が決まらないかもしれないわけですね。考えさせられます。ただ、まずは「最期まで健康でいられる」状態を実現することが先ですよね。
吉森 そうですね。そしてその実現は、多くの人が思っているよりずっと近いかもしれません。生成AIが専門家の予想をはるかに超えるスピードで進化したように、生命科学も同じくらい加速しています。だからこそ本のタイトルを「意外に近いうちに」としたんです。
孫 最後まで健康でいられるようになったら、今度は「死をどう受け入れるか」という新しい問いが出てくるのかもしれません。ただ、それはまず実現してから考えればいい話ですよね。
吉森 はい。科学の進歩を、希望を持って見届けてもらえたら嬉しいですね。

取材・文/栗下直也、構成/中野亜海(日経BOOKSユニット編集部)、市川史樹(日経BOOKプラス編集) 写真/鈴木愛子
吉森保著、日経BP、1980円(税込み)
