編集者の松田紀子さんは、パワフルかつ破天荒なキャリアの持ち主だ。書籍編集者として、『ダーリンは外国人』(小栗左多里著、KADOKAWA)などのヒット作を生み出し、「コミックエッセー」という新たなジャンルを確立させた。そして、部数が低迷していた生活情報誌『レタスクラブ』の編集長に抜てきされると、それまでのコンセプトを刷新し、読者のニーズを丁寧にくみ取ることで、同誌をV字復活に導いた。
その後、出版界から畑違いのマーケティングの世界に転職し、佐藤尚之さん率いるベンチャー企業「ファンベースカンパニー」に参加。「ファンを大切にして企業価値を高める」というマーケティングの概念を広めつつ、2022年6月からは再び出版界に戻り、かつての競合誌である『オレンジページ』の編集長に就任。コミックエッセー作家の育成活動にも力を注ぎ、今は“3足のわらじ”を履きこなし、軽やかで自由な働き方を実現している。
そんな松田さんには、「心を捉えて離さない“推し本”」がある。松田さんにとってこの本は、決断の背中を押す「人生のバイブル」であり、“いつでもすぐに「推し」に会える最高のエンタメ”でもあるという。
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なぜ心をわしづかみにされたのか
私は、もともと幕末好きで、大の坂本龍馬ファン。毎年、命日になると、コスプレをして龍馬の墓参りに行くのが恒例になっています。そんな私に、「ギリギリで命削って生きる男たちの世界観が好きなら絶対ハマるから」と、同じく幕末好きの仲間から薦められたのが、中国の歴史小説『水滸伝』(北方謙三著/集英社)でした。
舞台は12世紀の中国・北宋末期。暴政で国が乱れるなか、腐敗した政府を倒そうと、様々な事情のある男たちが、本拠地・梁山泊に集結し、官軍に挑むという物語ですが、実をいうと、最初はそれほど心引かれなかったんです。
そもそも中国の歴史ものに興味がなかったし、何せ19巻にも及ぶ大作なので尻込みしちゃって。最初に1巻だけ購入したのですが、半年ほど放置していました。ただ、その間にコロナ禍になり、家じゅうの本を読み尽くしてしまって、最後に残ったのがこの本だったんです。なかば渋々読み始めたのですが……。
「頭ひとつ、出ていた。」―― 『水滸伝』 のこの1行目を読んだとき、心をわしづかみにされてしまいました。
脳裏に情景が浮かぶようなドラマチックな書き出しに、「私、これは絶対ハマる!」と確信。もしもこの本が、中国の風光明媚(ふうこうめいび)な自然描写などから始まっていたら、そのまま本を閉じていたかもしれません。書き出しの1行は、本の世界観にハマれるかどうかを左右する大事なポイントですよね。
そこから一気に読み進め、最終巻では大号泣。さらに、『水滸伝』に出てくる登場人物で楊令という架空の人物の物語 『楊令伝』 (全15巻)も読破し、今はシリーズの続編で、梁山泊の敵方チームを描いた 『岳飛伝』 (全17巻)の10巻目に入ったところです。
最初は、長編故に手に取るのをためらっていましたが、一度ハマると、“大好きな世界観にずっと浸っていられる”という安心感があるんですよ。『水滸伝』ロスに陥るのが怖くて、最近では読むペースを落としているくらいです(笑)。
推しメンに会える本
『水滸伝』には、100人以上の魅力的なキャラクターが次々と登場します。それぞれ個性的で“キャラ立ち”しているので、自分の「推しメン」が見つかるのも大きな魅力。それぞれの戦いっぷりを読みほどくうちに、新たな推しができたり、別のキャラに心を奪われたりと、推しが増えたり、入れ替わっていったのも面白い。
「好きな時に、好きな分だけ、ページをめくると“推し”に会える」というワクワク感が、コロナ禍で沈みがちな毎日を支えてくれました。歴史に詳しくなくても、アイドルやアーティストなど「推し活」が好きな人や「推し」をつくって日々の生活に潤いが欲しい人にも楽しめる本だと思います。
また、『水滸伝』には、梁山泊の味方チームだけでなく、敵側のキャラクターたちの事情やその背景も、北方謙三さんの筆力で丁寧に描かれています。それらが複雑に絡み合ったり、意外なところでつながっていたり。読んでいると、“人間、誰しも事情があるよね…”と胸にグッとくるとともに、なぜか心が癒やされるんです。
きっとその理由は、1人のヒーローや強者だけの視点ではなく、どこかで志を諦めた人、再びはい上がってきた人など、いろんな人たちの立場から描かれていて、“そういえば自分にもこんなことがあったな”とか、“こんなすてきな仲間がいたな”とシンクロする部分があるから。
「ままならない」なかで生きていくモデル
この3年間は、新型コロナウイルス感染症の影響で、世の中すべてが停滞していた時代でした。どうしようもない孤独感やつらさ、思うようにいかないやるせなさを多くの人が抱えながら生きてきたと思うんです。
でも、『水滸伝』に出てくる漢たちは皆、今以上の“ままならなさ”のなかで、力強く生き抜き、散っていった。そんな彼らの生きざまや行動に勇気づけられるうちに、いつの間にか自分の中にも熱が生まれ、それが原動力になって踏み出す勇気を与えてくれたという場面が何度もありました。
なかでも、一番大きな出来事が、『オレンジページ』の編集長を引き受けたことです。
ご存じの方もいると思いますが、『オレンジページ』といえば、かつて私が編集長を務めていた『レタスクラブ』の競合誌。この決断に驚く人も多かったようで、「オレンジページの松田です」と名乗ると、雑誌名を聞き返されることがあるほどです(笑)。
このオファーを受ける際、私自身、昔のメンバーに対して、申し訳ない気持ちがあったのも事実です。それでも私がこの話を引き受けたのには、2つ理由があります。
競合誌の編集長になった理由
今、出版不況で、雑誌はどこも厳しい状況です。『オレンジページ』も立て直しに苦戦するなか、退職して3年たったとはいえ、かつての競合誌編集長にお声がけくださるというその決死の行動に心打たれました。『オレンジページ』という雑誌のために、志を持って立ち上がられたその姿が、『水滸伝』の登場人物の生きざまと重なったんですよね(笑)。
2つ目の理由は、出版業界で力を尽くすことに、大きな使命感を覚えたことでした。
生活情報誌のジャンルは、雑誌のなかでも100万部ほどの大きなウエイトを占めています。37年の歴史を持つ『オレンジページ』が万が一休刊なんてことになったら、業界全体が沈み込んでしまうかもしれない。出版業界で頑張っている仲間たち、面白い雑誌を作っている人もまだまだたくさんいます。
今、このタイミングで私に声をかけてもらったことは、何かの運命だし、ここで受けないと自分の志に反すると思い、決断しました。
「私にできることは何か、どう生きたいのか」――そんな「志」を自分の行動の指針にするようになったのも、『水滸伝』の影響が強い。『水滸伝』の登場人物たちって、「なんのために生きるのか」「志はなんなのか」についてずっと考えているんです。考えるだけでなく、行動する。その行動の仕方がまた美しく格好いい。
私もだんだん感化されて、「私はなんのために生きて、何をやりたいのだろう」と根源的な問いを持つようになってきました。そうなると、日常でも自分と対話することが増えました。そこで出される自分なりの結論や回答が、私を動かす原動力になりました。「水滸伝式 セルフコーチング」ですね(笑)。
同時に、「あの登場人物なら、こんな時どうしただろう…」という考える基準にもなっています。心の中で常に問いかけることのできるメンターのような存在ですね。だから仕事やプライベートでしんどいことがあっても、『水滸伝』に思いをはせれば大丈夫。ちゃんと自分の軸に戻ってこれます。
『水滸伝』は、私にとって、これからの人生後半戦を生きる上で欠かせない、人生の師のような存在です。数行読むだけでも、心の厚さと志を持つ輝き、行動の在り方を教えてくれます。
取材・文/西尾英子 構成/長野洋子(日経BOOKプラス編集部) 写真/洞澤佐智子