松田紀子さんは、書籍編集者としてシリーズ累計300万部超えの『ダーリンは外国人』(小栗左多里著、KADOKAWA)や『ひとりぐらしも5年め』(たかぎなおこ著、KADOKAWA)などのヒット作を次々と生みだし、書籍の分野に「コミックエッセー」のジャンルを確立。

 その手腕を買われ、『レタスクラブ』編集長に抜てきされると、低迷していた部数をV字回復へ導いた。こうした快進撃の背景にあったのが、「マーケティング」の発想だ。“共感性”を何より大切にしてきたという松田さんが、「今も教典のように大切にしている」本とは――。

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 私が、コミックエッセーや雑誌編集の現場で一番大切にしているのが、「共感性」です。

 読む人が、「これって私のことだ」と、自分ごととして感じられるかどうか。「“読んでほしいひとり”に対し、きちんと誠実なものをつくる」ことにこだわり続けてきました。ただ、それはマーケティングを意識したものというより、編集者としての経験だったり、「勘」や「本能」といったものから導き出したりした自分なりのセオリーでした。

 『レタスクラブ』の編集長になって半年ぐらいたった頃、改めてマーケティングを学んでみようと思い、CMプランナーの佐藤尚之氏が主宰するゼミ「さとなおラボ」に8期生として参加しました。それが、今も私が関わっている「ファンベースカンパニー」の代表・佐藤との出会いです。

 「さとなおラボ」では、ファンベースの考え方だけでなく、企業やブランドと生活者のコミュニケーションのつくり方などを、1回3時間ほどの座学やグループワークを通じて学びました。合計10回、宿題なども含めるとかなりのボリュームがある濃厚な内容で、私の脳みそは大いに揺さぶられました。

「編集長として忙しい毎日でしたが、とにかくゼミの勉強が面白かったんです。共感ばかりしていました」
「編集長として忙しい毎日でしたが、とにかくゼミの勉強が面白かったんです。共感ばかりしていました」
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 ファンベースの考え方の基本は、定量よりも定性。つまり、1000人よりも1人の顧客のことを徹底的に知るというものなのですが、まさしくそれは、これまで私がやってきたことと同じだったのです。

 自分が感覚的に行ってきたことが言語化されていくという心地よさ。「私のやってきたことって、これだったんだ!」「ここでいつも壁にぶつかっていたけれど、こういう解決法があったんだな」という腹落ち感があり、共感するとともに、より深く理解を進めることができました。

 ここで学んだことを、さらに『レタスクラブ』の現場に落とし込み、インプットとアウトプットを繰り返し実践することで、『レタスクラブ』の部数は見事V字回復を遂げることができました。その後、佐藤がファンベースカンパニーを立ち上げることになり、全卒業生にメンバー募集のお知らせが来たんです。そこで私から手を挙げ、ファンベースカンパニーの一員となりました。

 出版畑ひと筋でやってきた私が、なぜ異業種のベンチャーに飛び込んだのか。そこには2つの理由があります。

今更戻れる場所がなかった

 当時、私は、『レタスクラブ』の競合誌『オレンジページ』の部数を抜くという目標を達成し、やり遂げた実感でいっぱいでした。当初、編集長を引き受けた時は、「私が編集長をするなんて精神力や体力が持たないだろうから、3年で結果を出して終わらせよう」と、ひそかに決めていたのです。その後は、再びコミックエッセーの現場に戻れればいいなと勝手に計画を練っていました。

 ところが、いざ3年がたち、周りを見渡してみたら、コミックエッセーには、すでに優秀な人材が育っている。今更、私が戻れる感じではなかったんですよね。仮に戻ったとしても、私がいつまでも現場にしがみついていると、上が詰まって、後輩たちの成長の場を奪いかねません。とはいえ、大好きな編集の現場から離れてマネジメントに徹するのは、自分にとって本意ではない…。

「ファンベースカンパニーの立ち上げを知ったのは、そんなジレンマを抱えてモヤモヤしていた頃でした」
「ファンベースカンパニーの立ち上げを知ったのは、そんなジレンマを抱えてモヤモヤしていた頃でした」
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 自分のキャリアの方向性と、次世代の活躍という2つの面で考えた結果、今このタイミングで新しい世界に飛び込んでみるかと決意したのです。

 もちろん、ファンベースへの可能性をすごく感じていたというのも大きな理由です。「この考え方を取り入れると、いろいろな企業がきっと元気になれるはず」という確信もありました。異業種で、しかもベンチャーへのキャリアチェンジに不安がなかったわけではありませんが、これまで自分がやってきたことと本質的な考え方は共通していましたし、何より、「ファンベースのメソッドをこの手で広めてみたい」というワクワク感が勝りました。

 この 『ファンベース』 (佐藤尚之著、ちくま新書)という本は私にとって、これまで「勘」でやってきたことを言語化してくれる大事な存在です。

「何度も読み返してきたので、付せんが大量に貼ってあったり、何色ものマーカーで線が引いてあったり。持ち歩くことも多かったので結構ボロボロになってしまって、カバーの帯もテープでつなぎ合わせています(笑)」
「何度も読み返してきたので、付せんが大量に貼ってあったり、何色ものマーカーで線が引いてあったり。持ち歩くことも多かったので結構ボロボロになってしまって、カバーの帯もテープでつなぎ合わせています(笑)」

 この本に書かれているのは、人の感情に寄り添った丁寧で誠実な考え方です。

 「マーケティング」というと、それまで「数字で人の動きを見る世界」というイメージがありましたが、「ファンベース」では、「人の感情」を何より大切にしています。ファンを一番大切にし、ファンをベースにして、中長期的に企業価値や売り上げをあげていく。ファンの支持を強くするには、「共感」「愛着」「信頼」の3つを高めていくことが大切であり、そのメソッドが具体的な方法論とともに書かれているのです。

 ファンベースカンパニーで活動するメンバーにとって、今も「教典」のように大切にしている1冊。迷ったときには、必ずここに立ち返ります。

 昨年、この本のコミカライズを担当したのですが、もう一度自分のなかに改めて落とし込む作業を行うことで、理解がさらに深まった気がします。インプットしたものをさらにアウトプットして再構成する。例えば、人に本について紹介する、感想をnoteにまとめて発信する…そういう本との向き合い方も大切なんだと改めて実感しました。

もう1冊の教科書

 マーケティングに興味を持ったつながりで、手に取ったのが、マーケターとして有名な西口一希さんが書かれた 『顧客起点マーケティング』 (翔泳社)という本です。

「この本も、感覚でやってきた私にとっては、ノウハウを言語化してくれた教科書です」
「この本も、感覚でやってきた私にとっては、ノウハウを言語化してくれた教科書です」

 出版業界の人たちは、どちらかというと、数字という切り口よりも、感覚的なものを大事にする人が割と多い印象ですが、私ももれなくそのタイプで(笑)。感情を大切にするファンベースの考え方はすんなりと腹落ちしても、数字で捉えることはやっぱり苦手だったんです。

 それを払しょくしたいと、SNS上でおすすめに挙げられていたこの本を購入したのですが、読み進めていくと、ファンベースのメソッドと共通するところが多く、すんなりと理解することができました。

 例えば、西口氏が手掛けたロート製薬の大ヒット化粧品「肌ラボ」は、マスではなく、“ひとりの顧客”の声を起点に、可視化・定量化することで顧客戦略に徹底的に落とし込み、大ヒットにつなげています。本では、他の事例も交えて、事業の伸ばし方を実践的なかたちで学べるように、具体的なフレームワークとメソッドを解説してくれているのです。

 帯には「1000人より1人の顧客を知ればいい」とメッセージ。まさしくこれは、ファンベースの本質と同じだなと。マーケティングに関わる人にとって、この本も、教科書のような一冊だと思います。

取材・文/西尾英子 構成/長野洋子(日経BOOKプラス編集部) 写真/洞澤佐智子