健康保険組合が医療ビッグデータ分析に乗り出せばどうなるか。健保は薬や治療の効果など良質な医療情報を加入者に提供、加入者はその情報を基に医療サービスを選択できるようになる。市場機能が働き、日本の医療はコストに見合うサービスに変わっていく。『 ビッグデータが明かす 医療費のカラクリ 』(日経プレミアシリーズ)の著者で、アライドメディカル取締役の油井敬道氏に聞く。連載第3回。

医療ビッグデータをどう活用するか

日本は国民皆保険制度を採っています。様々な公的医療保険を全部合わせると、膨大な医療データができるのではないですか。

油井敬道氏(以下、油井) 大企業向けの健保組合以外に、自営業者などが入る「国民健康保険」、中小企業向け「協会けんぽ」、共済組合、高齢者が入る「後期高齢者医療制度」などの保険者があり、国民の大半が何かの公的医療保険に加入しています。

そこにはどんなデータがあるのですか。

油井 加入者が医療サービスを受けると、自己負担額を除いた治療費・調剤手数料・薬代が医療機関や薬局から保険者に請求されます。レセプトと呼ばれる、これら診療・調剤報酬の明細書には、保険薬の名と処方量、病院が取った処置、診断病名などが記載されています。

レセプトが集まってビッグデータの元になるのですね。どのように活用しますか。

油井 このレセプトデータに、診療プロセスを記録した電子カルテデータを補完的に組み合わせれば、薬の使い方や治療方法によって異なる費用対効果、病院ごとの傾向などに関し科学的根拠のある分析結果を入手できます。

 今後、保険者がそれらを患者と共有できれば、消費者である患者は、コストに見合う質の良い医療サービスを合理的に選ぶことができます。ここで市場機能が働きます。

そういったデータは多いほど良いのでしょうか。

油井 書籍『ビッグデータが明かす 医療費のカラクリ』では、25年間、61万人分の生活習慣病患者のデータ分析から「生活習慣病に高額の治療費は要らない」ことを科学的に実証しました。より詳細なビッグデータが集まれば集まるほど、生活習慣病にとどまらず質の良い医療情報を入手できます。

電子カルテの例(泌尿器科)(提供/アライドメディカル)
電子カルテの例(泌尿器科)(提供/アライドメディカル)
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医師も長期の治療効果は把握できない

私たち患者にとって質の良い医療情報とは何ですか。

油井 薬の本当の効き目とか、その治療が病状を悪化させないものだったのかどうか、薬代や治療費がコストに見合っていたのか、などの情報です。そのためには保険者の果たす役割が極めて重要です。健保や国保、協会けんぽが持つビッグデータに、中立的で専門性の高い事業者がアクセスして個人情報を保護した上で分析し、知見を保険者が活用する枠組みが必要です。

 こうした枠組みをつくるために、政治家や行政はぜひ音頭を取っていただきたい。医療費の効率化・適正化に貢献するだけでなく、医師が効率的な診療を行う際の参考になり、医学研究にも役立ちます。

素朴な疑問ですが、臨床経験も専門知識もある医師は、薬の効き目を十分知っているのでは?

油井 確かに医師は、製薬会社の資料や学会論文、医師会などの口コミ情報で、薬の効果や副作用の知識を得ています。また、保険薬は国に承認された時点で、その効果は保証されています。

 しかし、薬や治療に対する正確な良しあしは、本当のエンドポイント(最終到達点)を見ないと分かりません。高血圧で薬を飲むのは心筋梗塞などの重篤な病気を防ぐためで、心筋梗塞などの発症が本当のエンドポイントです。しかし、これを今回のようなアプローチで調べたものは、私たちが知る限りありません。

 平均的な内科病院の医師1人が診る患者数は、高血圧症では1年間に430人ですが、薬の効き目を正確に統計解析するには少なくとも数千人程度の患者データが必要です。医師個人が科学レベルで把握するのは困難です。ある薬で血圧が下がったとしても、治療に当たる医師に心筋梗塞との本当の因果関係は分かりません。

生活習慣病だけで2兆円削減可能

医療ビッグデータ分析で患者が有益な情報を得るようになると、健保の存続など医療保険制度の危機は回避できますか。

油井 日本の国民医療費は2019年度で約44.4兆円あり、このうち生活習慣病だけで1割強あります。私たちのデータでは、生活習慣病の1日当たり医療費は、医療機関の間で最大2倍以上の格差がありました。やや乱暴な試算ですが、患者が医療機関を選ぶことで市場機能が働き、日本のすべての病院が安い医療費の病院と同じ医療費水準になったとすると、生活習慣病医療費だけで、ざっと2兆円減らせる計算です。

2兆円ですか。すごいと思う半面、ピンときません。

油井 日本の消費税収は21年度で約21.9兆円です。その消費税は税率が8%から10%に上げられてから、約4兆円の増収がありました。つまり税率1%増で約2兆円の増収だったということになります。

保険者である健保組合と消費者である患者が動けば、医療費を減らせる(写真/shutterstock)
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生活習慣病医療費の見直しだけで、消費税収1%に匹敵する削減ですか。

油井 医療費は基本的には必要なコストなので、単に減らせばよいというわけではありません。しかし、生活習慣病だけで医療費を2兆円減らせるならば、総医療費のおよそ4割は税金などの公費で負担しているため、税負担が減ります。減った分は別の社会保障や医療分野に充てることも可能です。

 保険者が医療ビッグデータを活用し、患者が行動して医療費の負担見直しがさらに進めば、患者個人や財政危機の健保のみならず、政府や自治体にとってもいかに意味があるかお分かりいただけるでしょう。

22年から団塊の世代が後期高齢者になる中で、残された時間はあまりありませんね。

油井 抜本的な手を打たないと医療保険財政はさらに悪化し、医療費を含めた社会保障費の財政構造は持続可能なレベルを超えてしまうでしょう。国民皆保険制度を維持するためにも、国家百年の計を立て、すぐに行動すべきです。

聞き手・構成/稲井英一郎(メディア研究者)

日経プレミアシリーズ
ビッグデータが明かす 医療費のカラクリ
高い薬を使っても安い薬を使っても、治療効果に変わりなし

病院や薬局の明細書には何が書かれているのか? 生活習慣病の医療費は、なぜ同じ症状、同じ年齢で3~5倍も異なるのか? 毎月通院する患者と3カ月に1度しか通院しない患者で、治療成績に差はあるか? 25年間、61万人、1350万回の電子カルテの統計分析から、日本の医療費と医療サービスの実態を明らかにする。

油井敬道著/日本経済新聞出版/990円(税込み)