「物価上昇を上回る賃上げ」と「慢性デフレからの脱却」が期待される日本。「経済学の書棚」第28回前編は、インフレを理解するのに役立つ経済学用語を交えて日本経済の課題を整理した『世界インフレと日本経済の未来』と、世界インフレの背景を解説し日本再生策を提言する『一人負けニッポンの勝機』、「慢性デフレ」に陥っていた日本がインフレに転じた背景を解明した『物価を考える』を紹介する。
「変化と不確実」の時代に移行
新型コロナウイルスの感染拡大後、世界経済を襲った急激なインフレは収まりつつあるものの、日本では物価上昇が続き、「物価上昇を上回る賃上げ」と「慢性デフレからの脱却」が期待されている。インフレとデフレは経済にどんな影響を与えるのか。前編では、足元の日本および世界経済の動きに焦点を当て、インフレとデフレの基本を解説する本を紹介する。
東京大学名誉教授の伊藤元重著『 世界インフレと日本経済の未来 超円安時代を生き抜く経済学講義 』(PHPビジネス新書/2023年2月刊)は、インフレを理解するのに役立つ経済学用語を交えて、日本経済の現状と課題をまとめた本。論点を整理して書き下ろした章(第1章)、新聞などに投稿してきた原稿をベースにした章(第2~7章)からなる。
物価も賃金も上がらなかった過去20年にわたる「停滞と安定」の時代が突如として終わりを告げ、「変化と不確実性」の時代へと移行しつつある――。伊藤氏は日本経済の現状をこう表現する。成長戦略、円安・インフレ、給料と働き方、グローバル経済、デジタル化・新サービス、グリーン・エコノミーなど取り上げているテーマは幅広い。
外国為替相場の関連では「実質実効為替レート」を円安の状況を把握する有効な指標として紹介している。様々な通貨と円の間の為替レートの動きを平均化し、それに日本と諸外国の物価の動きの違いを考慮に入れた指標であり、真の円の価値(実力)を表す。伊藤氏は「為替レートを名目で見るのは素人。プロなら実質で見なくてはいけない」と大学で教えていたという。
実質実効為替レートは基準年の2010年を100とすると、2022年10月に57.26と近年で最も円安になった。この12年の間におおよそ半分まで円安になったことになる。2022年10月には円ドルレートは150円まで円安になり、名目レートの変化が実質実効為替レートでの円安にも相当反映されているが、過去20年以上もデフレで日本の物価や賃金が上がらなかったことも実質実効為替レートの円安の原因だと解説する。
2022年に為替レートが激しい動きを見せた背景にあるのは、米国でのインフレだ。コロナ禍での需要の縮小への反動で、米国では需給ギャップが多くの分野で起きた。特に激しかったのが労働市場で、米国の賃金が上昇を始めた。そんなときにロシアがウクライナに侵攻し、エネルギーや食料の価格をさらに引き上げた。
円安は「安くなった日本」の象徴的な存在であり、円安で食料の輸入価格がさらに上がれば、私たちの台所を直撃する。ただ、日本が全てに安くなってしまったのは、足元の円安だけが理由ではなく、20年以上続いたデフレの結果でもあると指摘している。
値上げを機に商品・販売戦略を見直そう
「絶対価格と相対価格の区別」にも注意を促している。食料やエネルギーの価格高騰で消費財メーカーの費用が上がり続け、利益を大きく圧縮している。こうした事態に対応するには、価格を上げるしかない。企業が直面しているのは、物価が上昇を続けるという絶対価格の問題でもあるが、それ以上に重要なことは食料やエネルギーなどの原燃料がサービスや賃金などの価格に対して相対的に大きく上昇している、つまり相対価格に大きな変化が起きていることだ。
相対価格の変化への対応策は、単に最終価格に転嫁するだけでなく、原材料費が上がる中での商品戦略や販売戦略の大きな変更が求められるはずだ。消費者がより高い価格を受け入れられるような品質、ブランド戦略、流通チャネルの見直しなど様々な方向での展開が考えられると提案し、企業に「脱価格破壊」を求めている。
財務省財務総合政策研究所の宮本弘曉氏は『 一人負けニッポンの勝機 世界インフレと日本の未来 』(ウェッジ/2023年9月刊)で、世界インフレの背景を整理し、日本の再生策を提言する。
同書によると、世界規模のインフレ発生の主要因は2020年に始まった新型コロナによるパンデミックだ。世界的なサプライチェーン(供給網)を寸断し、製品の原材料や部品の調達から販売までの一連の流れが途絶えてしまった。働く親(特に母親)や高齢者などの間で「グレート・レジグネーション」(大退職)と呼ばれる離職が劇的に増え、人手不足となった。
眠っていた需要がコロナ禍後に爆発
コロナ禍後に行動制限が解除され、経済活動が徐々に再開される中で、ペントアップ需要(抑制された需要)が一気に爆発した。財政・金融政策からの支援も需要を拡大し、物価押し上げに大きく影響した。
需給の不均衡とパンデミック下の政策支援によってインフレが進行するなか、ロシアがウクライナに侵攻すると世界の政治・経済の混乱を招いた。世界経済にとって懸念材料であった供給ショックをさらに悪化させ、インフレの加速にも寄与したとの見方を示している。
世界インフレを引き起こした要因は需要(ディマンドプル)と供給(コストプッシュ)のどちらが大きいのか。米国では2022年春時点で需要要因が約3割、供給要因が約5割を占めたが、2023年初めには需要要因が約5割、供給要因が約3割となった。エネルギー価格の高騰にさらされるユーロ圏では供給要因がやや大きくなっているとの調査結果を取り上げている。
一方、長年、物価が上がらないデフレに苦しんできた日本もインフレに転じ、食料品や電気料金など身近なモノやサービスの価格が上昇して国民の生活に圧迫感が広がっている。節約志向が強まり、消費が冷え込み、経済活動が停滞する恐れもあるなか、賃金上昇が焦眉の課題となっていると強調する。
日本がデフレに陥った原因に関しては、貨幣の供給不足、人口減少による需要の縮小、供給過多の産業構造など様々な説が存在する。デフレは複数の要因が絡み合って起こっており、1つの理由だけで説明できるものではないとの認識を示したうえで、賃金の低迷は過去30年間の日本経済の凋落の象徴と断じる。
労働市場の流動化で賃金上昇を
宮本氏が注目するのは労働市場。経済の新陳代謝を促進し、生産性を向上させ、賃金を上げるには、活発な労働移動が必要だと唱える。
流動的な労働市場では、人々はより自由に仕事を選択し、自分に合った仕事を見つけやすくなる。企業も人材の採用や配置がしやすくなるので、適材適所が達成されやすくなる。生産性が向上し、経済成長につながるとの考えを示している。
労働市場を流動化させる具体策としては、成果に基づく賃金体系、労働者のスキルアップ、「自己啓発優遇税制」の導入、留学の国家支援の強化などを挙げている。
東京大学教授の渡辺努著『 物価を考える デフレの謎、インフレの謎 』(日本経済新聞出版/2024年11月刊)は「慢性デフレ」に陥っていた日本がインフレに転じた背景を様々な経済理論を参照し、現実の出来事を観察しながら解明した書である。
渡辺氏は、消費者、労働者や企業の行動に注目する。「2020年に新型コロナウイルスが世界を襲い、その結果、世界中の消費者と労働者と企業が同時に行動を変化させ、それが世界中の物価と賃金を同時に引き上げた、日本もその波の中にいた」との仮説を提示する。
グローバルインフレが輸入物価の上昇という形で日本に流入し、それが国内で様々な化学反応を起こし、その結果、慢性デフレからの脱却が展望できるところまで来ている。仮にグローバルインフレが押し寄せなかったとしても、社会の内在的な力でデフレは早晩、終わったに違いないと推測する。
日本の慢性デフレの根源は「自粛」
物価と賃金が据え置かれる「慢性デフレ」を読み解くキーワードは「自粛」。日本は30年間にわたって自粛をし、そのアラが社会のいろいろなところに表れていた。自粛をそろそろやめにしようという機運がじわじわと醸成されてきたと渡辺氏はみる。
経済学の「賃金・物価スパイラル理論」では、労働組合と企業が相手の出方を読みながら行動すると仮定する。この理論は賃金と物価が相互に影響を及ぼし合いながらともに上昇する現象を説明するためのものだが、労使が互いに賃金据え置きを予想し、現実に据え置きが続いたと考えれば、この理論で日本の慢性デフレを説明できるとみている。
日本が慢性デフレに陥ったのは1997年頃から。1995年にドル建てで見た日本の賃金水準が世界最高になり、経営側は中国との競争に勝つためには賃金据え置きが必要だと訴え、労働側がそれを受け入れる密約があったとの仮説を披露している。賃金が据え置きになると、企業は価格を据え置き、消費者は価格据え置きを前提に行動するようになった。そのうちに賃金や物価が上がらないことを前提とした考え方や慣行(ノルム)が生まれたという。
ところが、米欧の高インフレやウクライナ戦争のニュースをみると、同じことが身近で起きてもおかしくない、日本もいよいよインフレ突入なのだな、と多くの人が覚悟を決めた。2022年春に人々のインフレ予想が価格や賃金の据え置きから上昇に転じ、消費者、企業、労働者の行動変容が玉突き的に起きた。ただ、慢性デフレのノルムが完全に払拭されていない可能性も示唆している。
異次元緩和は失敗だった
日本銀行がデフレ脱却を目指して実行した異次元緩和(2013年4月~2024年3月)の効果を検証する章も設けている。デフレ脱却が視野に入ってきた足元の状況は異次元緩和で達成したものではなく、「失敗に終わった」と厳しい評価を下す。日銀は「マネーの供給を増やせば市場金利が下がる」、「総需要が増えれば物価が上がる」という波及経路を想定していたが、この2つの経路に綻びがあったと分析している。
日銀は2%の物価目標を掲げてマネーの供給を増やせば、人々のインフレ予想(期待)が変わり、期待インフレ率を加味した実質金利の低下を通じて実体経済にもプラスの効果をもたらすと説明していた。「人々の期待に働きかける」金融政策はなぜ失敗に終わったのか。ノルムにとらわれて日銀の意図を読めなかった人々の側に非があったのか。この点に関しては、同書には明確な記述はない。
(後編に続く)
写真/スタジオキャスパー
なぜ日本だけデフレは慢性化したのか? 慢性デフレはなぜ突然終わり、インフレが始まったのか? 異次元緩和はなぜ失敗したのか? インフレやデフレはなぜ悪なのか? 物価研究の第一人者が、最先端の理論・データ分析をもとに日本経済最大の謎に迫る!
渡辺努著/日本経済新聞出版/1980円(税恋)




