経済学に幻惑されてはいけない。経済の思想や学説は状況に左右されるが、伝記は人格や状況を描くべきであって命題を論じるものではない――。「経済学の書棚」第5回前編は、ケインズを「偉大な人物」と評価し、『一般理論』をはじめ、ケインズが残した論文や著作を好意的に紹介する一方、ケインズを批判する側の見解も丁寧に取り上げた評伝『ジョン・メイナード・ケインズ 1883-1946(上・下) 経済学者、思想家、ステーツマン』を紹介する。
完成に30年かけた3巻本を圧縮・修正
20世紀を代表する経済学者を1人選ぶとしたら、ジョン・メイナード・ケインズの名前を挙げる人は多いだろう。経済学者の枠には収まらず、多方面で活動したケインズは毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人物である。ケインズが残した「ケインズ経済学」は米国を中心とする経済学界の主流派ではなくなったものの、ケインズを素通りして経済学を学ぶのは難しい。ケインズは何を目指し、どう考えて行動したのか。多くの研究者が今も論争を繰り広げている。
ケインズ研究の第一人者であるロバート・スキデルスキー氏が、ケインズの生涯を克明に描いた伝記の邦訳が出た。『 ジョン・メイナード・ケインズ 1883-1946(上・下) 経済学者、思想家、ステーツマン 』(村井章子訳/日本経済新聞出版/2023年2月刊)は3巻本からなるケインズの伝記(1983、1992、2000年刊)の40%を削除し、加筆・修正した著作(原著は2003年刊)だ。同氏は「ある意味で本書は独立した新しい本であり、単独のものとして読んでいただくことができる」と説明している。
ケインズの伝記には、弟子のロイ・ハロッドによる『ケインズ伝(上・下)』(塩野谷九十九訳/東洋経済新報社/1967年刊)という名著があるが、ハロッドの描いたケインズ像には感傷的な光が当たっているとの評もある。
スキデルスキー氏によると、ケインズの伝記執筆の契約を出版社と最初に結んだのは1970年初め。1972年末までに1巻の伝記を書き上げる予定だった。最終的には3巻に及び、完成までに30年を要した。資料の閲覧や入手に手間取り、故人を知る人たちとの信頼関係を築くまでに時間がかかった。第1巻を出版したとき、ハロッドの「感傷的な光」から若きケインズを救い出すことはできたと感じたという。
歴史家であるスキデルスキー氏は専門外の経済学について勉強した。経済学の概略を頭に入れた上で執筆するためだが、執筆が遅れる要因となった。ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年刊)が巻き起こした「ケインズ革命」を巡る何千もの論文や本を前に、「私の比較優位はどこにあるのか、途方に暮れる。果たして何か新たな価値を付け加えることができるのだろうか」と悩みながら執筆を続けた。
経済学に詳しくなるにつれ、経済学者の思考法に魅せられるようになったが、「経済学に幻惑されてはいけない。経済の思想や学説は状況に左右されるが、伝記は人格や状況を描くべきであって命題を論じるものではない」と断っている。ケインズを「偉大な人物」と評価し、『一般理論』をはじめ、ケインズが残した論文や著作を好意的に紹介する一方、ケインズを批判する側の見解も丁寧に取り上げている。
私生活も詳細に描く
若き日の同性愛、社交生活を維持する資金を捻出するために力を注いだ投資活動やロシア出身のバレエダンサー、リディア・ロポコヴァとの恋愛と結婚生活なども詳細に描いている。「私の目的は、あくまでケインズの公的な業績における私生活を網羅することだ」、「ケインズの世界観を理解するためにも、理論自体に何らかの判断を下すためにも、理論形成につながった彼の心理状態や周囲の環境についての知識が欠かせない」と記すスキデルスキー氏の狙い通りになっているかどうかは読者に判断を委ねるしかない。
同氏によると、ケインズは思索と行動の両方を高いレベルでやってのけられる稀有(けう)な人間の1人である。彼の人生は、周期的あるいは入れ替わりに出現する思索の時期と行動の時期に分けることができ、どちらが現れるかは世の中の出来事と関連づけることができる。
「不確実性」の役割を考え続ける
ケインズの思想を貫くテーマは「不確実性」である。経済が「興奮状態」に達したとき以外は潜在成長率に近づかない原因として、「不確実性」がどのような役割を果たしているのかを考え続けた。また、経済は「流動的」ではなく「硬直的」だとし、「ショック」からの回復が困難かつ長引き、コストがかかり、しかもなお不完全に終わりやすいのは硬直性のせいだと考えた。
そこでケインズは「既存および潜在的な資源がおおむね効率よく全面的に活用されているときに、経済が到達しうる水準を維持する」という政府の役割を重視した。ケインズは自らの新理論で生産高の水準について説明したが、稀少資源のさまざまな用途や要素への配分を説明する古典派理論の方法に文句はなかったし、効率的に配分するための最強の手段として競争市場システムにも何の文句もなかった。
ケインズの『一般理論』は2人の子供を生んだ。「規則性が当てはまらず不確実に変動する期待と関係性に支配される」理論と、「所与の期待と数学的な関数に基づいており、政策立案に適している」理論だ。経済の現実を多義性や複雑性のまま理解しようとすると同時に、政策立案のツールを提供したいとも考えていたケインズは、どちらを重視するのか曖昧な態度だったという。
予期せぬ方向に展開した「ケインズ革命」
ケインズの弟子、リチャード・カーンやジョーン・ロビンソンは前者を受け継ごうとしたが、次第にケインズ革命から押しのけられていく。ジョン・ヒックスらが『一般理論』をグラフと数式に還元する試みをケインズ自身が受け入れていたのを見て、カーンは思わぬ方向に展開するケインズ革命への批判を自重したとみられている。
ケインズの新理論は政策立案のツールとして一世を風靡(ふうび)したものの、黄金時代はインフレ率と失業率が同時に上昇するスタグフレーションの到来で幕を閉じた。新理論と古典的な理論の間には理論的な摺り合わせが欠けていた。とりわけ問題だったのは、ケインズが大量失業を個人の動機と行動で説明しなかったことであり、1970年代から80年代のケインズ革命の解体につながったとスキデルスキー氏は診断している。
もっとも、今日では多くの国の政府は金利という手段を使いながら安定化政策を実行しているし、年度ごとの予算均衡を目指す政府は存在しない。多くの経済学者がアンチ・ケインジアンではあるが、プレ・ケインジアンの学者は1人もいないと強調してケインズ評を締めくくっている。
二つの世界大戦の時代を通じて、世界のあるべき秩序を求め、また母国を救うために奮闘、経済学に革命をもたらした知の巨人の伝説的伝記、待望の邦訳。ケインズ研究の第一人者が、研究、思想、政策、恋愛、生活、文化・外交活動にわたり、ケインズの全生涯、人間像を生き生きと描く。
ロバート・スキデルスキー著/村井章子訳/日本経済新聞出版/4950円(税込み)



