ケインズの思想や理論は日本にも大きな影響を与え、今も世界中の人々を刺激し、世界経済を動かしている。改めてケインズの生涯をたどってみる価値は十分にあるだろう。「経済学の書棚」第5回後編は、日本人の研究者が著した「ケインズ伝」のうち、スキデルスキー氏の大著『ジョン・メイナード・ケインズ 1883-1946(上・下) 経済学者、思想家、ステーツマン』の副読本になりそうな著書『ケインズ』と『ケインズ 時代と経済学』『今こそ読みたいケインズ』を紹介する。

前編「 型破りの天才・ケインズ 20世紀を代表する経済学者の伝記

「経済学の書棚」連載第5回後編は、日本人の研究者が著した「ケインズ伝」のうち、スキデルスキー氏の大著『ジョン・メイナード・ケインズ 1883-1946(上・下) 経済学者、思想家、ステーツマン』の副読本になりそうな3冊を紹介する
「経済学の書棚」連載第5回後編は、日本人の研究者が著した「ケインズ伝」のうち、スキデルスキー氏の大著『ジョン・メイナード・ケインズ 1883-1946(上・下) 経済学者、思想家、ステーツマン』の副読本になりそうな3冊を紹介する
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ケインズの3階級論

 ケインズの思想や理論は日本にも大きな影響を与えてきた。日本人の研究者が著した「ケインズ伝」のうち、スキデルスキー氏の大著『 ジョン・メイナード・ケインズ 1883-1946(上・下) 経済学者、思想家、ステーツマン 』(村井章子訳/日本経済新聞出版/2023年2月刊)の副読本になりそうな著書を紹介しよう。

 伊東光晴・京都大学名誉教授の『 ケインズ “新しい経済学”の誕生 』(岩波新書/1962年4月刊)は日本を代表するケインズ研究者による著作で、ケインズの思想や『一般理論』の骨組みを掘り下げて解説した名著として長く読み継がれている。

『ケインズ』(伊東光晴著)。日本を代表するケインズ研究者による著作。ケインズの思想や『一般理論』の骨組みを掘り下げて解説した名著
『ケインズ』(伊東光晴著)。日本を代表するケインズ研究者による著作。ケインズの思想や『一般理論』の骨組みを掘り下げて解説した名著
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 同書によると、ケインズは1920年代以降の英国の社会には投資者、企業家、労働者の3階級が存在すると捉えていた。そして投資者を「非活動階級」、企業家と労働者を「活動階級」と呼んだ。将来への不安を持つ投資家は資産を現金の形で持ち、よほど利子率が高くないと投資をしない。こうした投資家の行動が利子率を高め、社会全体の投資の量を少なくしている。その結果、有効需要が減り、失業が生まれる。失業の原因は、投資者階級の安全性を求める「貨幣愛」にあるというのが、『一般理論』の根底にあるケインズの認識だという。

 ケインズ自身は企業家階級の立場に立っていた。不完全雇用の下では「非自発的失業」という形に集約された労働者と資本家の階級の相違が生まれるが、政府の介入によって完全雇用が実現すれば労資間の問題は解決する。労資の関係を階級対立として把握したカール・マルクスとは異なり、ケインズは修正資本主義者だったと分析している。

生涯にわたり「直観と知性」を重視

 ケインズ理論の背景にはどんな思想や信条があるのか。若きケインズはケンブリッジのキングス・カレッジで出会った哲学者、G・E・ムーアの『倫理学原理』(1903年刊)を「魂を奪うばかりの書物だ。倫理学に関するもっとも偉大な書物だ」と評し、生涯にわたって「直観と知性」を重視する姿勢を貫いた。

 ムーアは当時の英国を支配していた、快楽と苦痛を合計した総量を測り、プラスが多いものが善だとする功利主義哲学を批判した。何が善かは説明不可能であり、善はそれ自身のためにあるべきだ。それを知るには人間の直観に頼るしかないと説くムーアを、ケインズも入会した学生の秘密グループのメンバーは絶対視し、自分自身の直観をとぎすまし、自分の理性だけに従って善悪の判断を下す人間が生まれた。

 ただ、ケインズは年齢を重ねるにつれ、既存の道徳を破壊する側から、社会をうまく統治するためにその必要を認める側になったと伊東氏は解釈している。

 東京大学名誉教授の吉川洋著『 ケインズ 時代と経済学 』(ちくま新書/1995年6月刊)は、ケインズが残した著作の概略を時系列で紹介しつつ、「経済学者としてのケインズ」の歩みをたどる解説書だ。

『ケインズ 時代と経済学』(吉川洋著)。ケインズが残した著作の概略を時系列で紹介しつつ、「経済学者としてのケインズ」の歩みをたどる解説書
『ケインズ 時代と経済学』(吉川洋著)。ケインズが残した著作の概略を時系列で紹介しつつ、「経済学者としてのケインズ」の歩みをたどる解説書
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 『インドの通貨と金融』(1913年刊)、『平和の経済的帰結』(1919年刊)、『確率論』(1921年刊)、『貨幣改革論』(1923年刊)、『貨幣論』(1930年刊)、『一般理論』(1936年刊)と出版を重ねる過程で、ケインズの思考がどのように変化したのかを解明している。

 『インドの通貨と金融』の刊行年は、ケインズが30歳になった年である。吉川氏によると、すでにその経済学は抽象的な理論、制度とその歴史的背景、細部にわたる計数という三つの全く異なるものを絶妙に組み合わせた成熟した経済学だった。

 ケインズは「経済学が進歩し有用でありつづけるために、新しい経済学を構築しようとする者にとって書くべきものは、大部な学術書ではなく、むしろ時論的なパンフレットなのだ」と記した。この言葉通り、多様な媒体に数多くの時論を寄せる一方で、『貨幣論』や『一般理論』といった大著も残した。

 吉川氏は「一つの理論、一つの原理をあらゆる情況に盲目的に適用しようとする態度をケインズはとらない」、「生涯を通して経済学者という範疇(はんちゅう)を超え続けた点で、ケインズは20世紀の生んだ他の偉大な経済学者たちと明らかに異なる存在であった」と強調しつつ、ケインズを「20世紀最大の経済学者」と高く評価している。

一つの理論・原理に固執せず

 ケインズの代表作は『一般理論』であり、ケインズ政策とは財政赤字を伴う公共投資だと理解している人は多いだろう。それはケインズ政策の一面ではあるが、「それのみを切り取ってケインズを理解してしまうと、彼が生涯を通じて取り組んだ活動のほとんどを見落としてしまいかねない」。

 根井雅弘・京都大学教授は『 今こそ読みたいケインズ 』(インターナショナル新書/2022年12月刊)でこう指摘し、ケインズがパンフレットの形で出した『自由放任の終焉』(1926年刊)をまず、取り上げる。ケインズはこのパンフレットで個人主義や自由放任の思想の源泉を整理し、その思想が台頭してきた背景を叙述している。「それが特殊な状況下でのみ黄金時代を築いた歴史的な産物であったことを論証し、彼が生きた20世紀においてはもはや色褪(あ)せた思想になったことを看破した」。そこから修正資本主義を目指すケインズの苦闘が始まり、10年後に『一般理論』として結実したと根井氏はみている。

『今こそ読みたいケインズ』(根井雅弘著)。二つの大戦を経験し、インフレ、大量失業、国際通貨危機と格闘したケインズの知恵に学びたいとした1冊
『今こそ読みたいケインズ』(根井雅弘著)。二つの大戦を経験し、インフレ、大量失業、国際通貨危機と格闘したケインズの知恵に学びたいとした1冊
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 これに続き、1920年代以降のケインズの活動を振り返る。ケインズは英国産業の将来に深い関心を寄せ、綿業の再編問題に熱心に取り組んだ。産業調整や産業政策の分野でも重要な示唆を残したという。

『一般理論』の「長期的含意」

 この点を踏まえ、『一般理論』をどう読めばよいのか。『一般理論』は「短期の想定」(資本設備、人口、技術が所与)を置いているが、その背後に「長期的含意」が隠されていると解釈できるのではないか、と根井氏は主張する。不況を数年では片が付かない長期的な問題として捉え、非自発的失業が長きにわたって消滅しない「合理的基礎」を追究したのである。「短期の想定」は有効需要に焦点を合わせるための工夫だった。

 ところが、「短期の想定」は誤解の源となった。「長期的」に市場メカニズムが有効に働き始めれば、「有効需要の原理」も要らなくなるというケインズ革命の意義を否定しかねない方向への道を拓いたからだ。根井氏は『一般理論』には、「古典派」の伝統に比較的忠実な部分と、その伝統とは断絶したようにみえる部分があり、『一般理論』を正確に理解するためにはその両方に通じておかねばならないと注意を喚起している。

 ケインズは今も世界中の人々を刺激し、世界経済を動かしている。改めてケインズの生涯をたどってみる価値は十分にあるだろう。

いまこそ、最も偉大な経済思想家から学ぶべきとき

二つの世界大戦の時代を通じて、世界のあるべき秩序を求め、また母国を救うために奮闘、経済学に革命をもたらした知の巨人の伝説的伝記、待望の邦訳。ケインズ研究の第一人者が、研究、思想、政策、恋愛、生活、文化・外交活動にわたり、ケインズの全生涯、人間像を生き生きと描く。

ロバート・スキデルスキー著/村井章子訳/日本経済新聞出版/4950円(税込み)