暗号資産をめぐる混乱、相次ぐ米銀の破綻――。お金と銀行をめぐる事件のたねは尽きない。「経済学の書棚」第6回前編は、史実の解明と同時に金融論の視点を取り入れ、「現代から見た意義」を分析した『日本近代銀行制度の成立史』と、貨幣と信用を提供するシステム形成の経緯を歴史的な視点から検討した『信用貨幣の生成と展開』を紹介する。

「経済学の書棚」連載第6回は、お金と銀行の起源を探る4冊を紹介する
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金融論を取り入れた異色の金融史

 同志社大学の鹿野嘉昭教授は『 日本近代銀行制度の成立史 両替商から為替会社、国立銀行設立まで 』(東洋経済新報社/2023年2月刊)で、明治時代に銀行制度が発足する前後の動きを、様々な文献資料や統計データを活用しながら描写している。

『日本近代銀行制度の成立史』(鹿野嘉昭著)。富国強兵、殖産興業を支えた明治新政府の金融制度はどのように作られたのかを、ダイナミックかつ学術的に描き出した1冊
『日本近代銀行制度の成立史』(鹿野嘉昭著)。富国強兵、殖産興業を支えた明治新政府の金融制度はどのように作られたのかを、ダイナミックかつ学術的に描き出した1冊
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 史実の解明と同時に金融論の視点を取り入れ、「現代から見た意義」を分析しているのが特徴だ。鹿野氏は「現代的過ぎて、経済史ではない」という批判もあるかもしれないと予想しつつ、「そこに本書の特色があり、その意味で、やや異色の金融史として位置づけられる」と解説している。

 分析の出発点は江戸時代の大坂で活動していた両替商。両替商は金銀銭貨の両替のほか、商人や大名などを主な取引相手として預金の受け入れ、手形の発行・決済、金銭の貸し付けなどを営む個人経営の金融機関であり、初期の銀行業者としての姿を示していた。

 ただ、株仲間に代表される前近代的な商取引の慣行にしたがって債権管理や審査・監視体制を構築していたために、大坂における商業の盛衰の影響を強く受けた。18世紀後半以降、地方資本の成長に伴う大坂の地位低下と資金需要の減退とともに経営・財務内容が悪化し、やがて姿を消した。

短命に終わった明治初期の為替会社

 次の主役は、明治政府が殖産興業政策を遂行するための資金提供機関として東京、大阪、京都など全国8都市に設立した「為替会社」。内外産業の振興と間接税の増収を狙いとする「通商司」の下部組織の位置づけだった。

 政府は資金調達の手段として兌換(だかん)銀行券の発行権を付与したものの、兌換準備率を規制しなかった事情もあり、為替会社は兌換準備を上回る為替会社札を発行し、創設後1年たたないうちに兌換準備率が大きく低下した。

 通商司は株仲間という旧来の仕組みを前提とし、全国の商品流通網を政府の掌中に収めようとする統制色が濃い組織であり、その外側に勃興した生産や流通の動きを捉えきれないまま、時代の流れに取り残された。

 明治政府は1871(明治4)年、通商司を廃止し、翌72年の国立銀行条例で為替会社は紙幣を発行できなくなった。環境が激変する中で、為替会社が通商会社を介して、あるいは直接実行した貸し付けの多くが不良債権となり、業務の継続が困難となる。政府は為替会社を清算せざるを得なくなった。それでも、為替会社は「我が国銀行の嚆矢(こうし)」、「近代発券銀行の濫觴(らんしょう)」と称されるという。

 日本の近代銀行制度の礎となったのは、国立銀行条例の公布である。「国立銀行」は、民間が出資・経営する株式会社組織の金融機関。預金・貸し出しの取り扱いに加え、法貨と同様の決済手段として流通する兌換銀行券を発行することができた。

伊藤博文が求めた米国流の銀行制度

 国立銀行の創設に際し、大蔵官僚であった伊藤博文と吉田清成との間で激しい論争が起きた。伊藤は米国流の国法銀行制度(国法銀行が発行する銀行券を、金銀貨に加えて政府紙幣とも兌換できる制度)を模範とするよう求め、吉田は英国流の正金銀行制度(銀行券を正貨=金貨と兌換できる制度)の導入を提案した。最後は大蔵大輔の井上馨が伊藤の提案を選択したとされている。銀行論争に関しては様々な議論があり、鹿野氏は論争の内容や井上の決断の背景を独自の視点で論じている。

 さらに、条例制定によって発足した国立銀行4行の経営はどのような状況だったのか、1876(明治9)年の条例改正は不可避だったのか、に焦点を当てている。

 1871~72年にかけて多くの富豪が銀行の設立を希望していたにもかかわらず、国立銀行の創設が4行にとどまったのは、収益性が低いと判断したためだ。そこで政府は国立銀行条例の改正に踏み切り、金兌換の廃止、銀行券の発行枠拡大に加え、金禄公債による資本金の払い込みを認めた。国立銀行の資金不足は解消し、収益性も大きく改善して全国各地で設立が相次ぎ、合計153行となった。国立銀行は殖産興業の資金を供給する使命を果たし、日本経済の発展に寄与した。

 鹿野氏は「本書で見出した知見が、近代銀行制度の整備過程および国立銀行の経営状況に関する研究において新たな地平を開拓することを期待したい」と記している。

二層構造の銀行システムを導入した日本

 早稲田大学教授の鎮目雅人編『 信用貨幣の生成と展開 近世~現代の歴史実証 』(慶応義塾大学出版会/2020年8月刊)は10人の研究者による共著。貨幣の起源から説き起こし、貨幣と信用を提供するシステム形成の経緯を歴史的な視点から検討している。

『信用貨幣の生成と展開 近世~現代の歴史実証』(鎮目雅人編)。ヨーロッパで発展した「専業銀行」中心史観のレンズを外し、アジアの視点から独自の発展を遂げた「信用貨幣」の本質に迫る
『信用貨幣の生成と展開 近世~現代の歴史実証』(鎮目雅人編)。ヨーロッパで発展した「専業銀行」中心史観のレンズを外し、アジアの視点から独自の発展を遂げた「信用貨幣」の本質に迫る
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 日本では、1870年代から19世紀末にかけての約30年間にヨーロッパ型の二層構造の専業銀行システムがおおむね確立した。中央銀行が金融政策を通じて自らの負債である外部貨幣を供給し、銀行部門の信用創造を通じて乗数倍だけ経済全体に波及していくシステムである。

 このシステムは安定した貨幣需要を前提としているが、こうした「ヨーロッパのレンズ」をいったん外し、それぞれの地域の歴史的な経験に即して貨幣と信用システムを見つめ直してみると、全く別の姿が浮かび上がってくるという。

 古代の日本では、中国から輸入した銭貨と並行して米や布などが貨幣に準ずるモノとして使われていた。10世紀半ばに国家が銭貨発行を停止した後は、これらの商品貨幣が銭貨に代わる地位を占めた。歴史をひもとくと、貨幣と貨幣でないモノの境界はあいまいだ。

 中国、インドと日本を比べてみると、日本では19世紀後半から政府主導で欧米型の金融システムへの移行が急速に進展したが、中国やインドでは、商人を主体とする伝統的な金融システムが根強く残存した。

 現代では暗号資産など新しい形態の貨幣の出現が既存の決済システムや通貨秩序への挑戦として捉えられているが、こうした動きは必ずしも新しいものではなく、近世以前の世界への先祖返りともいえる側面を持つと分析している。

(後編へ続く)