なぜ日本の政策現場ではEBPM(Evidence Based Policy Making=証拠に基づく政策形成)が浸透しないのか。「経済学の書棚」第7回後編では、経済学者と現役の政策立案者が分野別にペアを組み、EBPMの現状と課題を明らかにした『EBPMの経済学』と、経済学をビジネスや政策の現場で有効活用するための方法論を提示する『そのビジネス、経済学でスケールできます。』、医学と経済学を題材に学際研究がEBPMの基盤になると説く『多数派の専横を防ぐ 意思決定理論とEBPM』を紹介する。

前編 「証拠に基づく政策形成『EBPM』をどう導入するかが分かる本」

「経済学の書棚」第7回後編は、経済学者と現役の政策立案者が分野別にペアを組み、EBPMの現状と課題を明らかにした書籍など3冊を紹介
「経済学の書棚」第7回後編は、経済学者と現役の政策立案者が分野別にペアを組み、EBPMの現状と課題を明らかにした書籍など3冊を紹介
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すれ違う研究者と政策立案者の認識

 EBPMに賛同する声が広がり、実践の手法に磨きがかかっているにもかかわらず、日本の政策現場では必ずしもEBPMが浸透しているとはいえない。どこに問題があるのだろうか。

 大橋弘編『 EBPMの経済学 エビデンスを重視した政策立案 』(東京大学出版会/2020年2月刊)は経済学者と現役の政策立案者が分野別にペアを組み、EBPMの現状と課題を明らかにしたユニークな書だ。

『EBPMの経済学 エビデンスを重視した政策立案』(大橋弘編)。経済学者と現役の政策立案者が、EBPMに求められる取り組みを6つの政策分野において論じる
『EBPMの経済学 エビデンスを重視した政策立案』(大橋弘編)。経済学者と現役の政策立案者が、EBPMに求められる取り組みを6つの政策分野において論じる
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 分析の対象は教育政策、労働政策、医療・介護政策、交通・社会資本政策、課税政策、電力政策と幅広い。EBPMを政策の現場で実行しようとすると様々な問題が発生し、一朝一夕には進まない実態を浮き彫りにしている。研究者と政策立案者の間に認識のずれが生まれ、なかなか足並みがそろわない。

 例えば、教育政策を担う文部科学省の担当者は、「計量経済学の手法を援用した教育政策の研究の中には、因果推論のための高度なテクニックなどの議論に終始し、分析の基となるデータの性質やクオリティに関心が薄いものが散見される」と指摘する。政策の投入要素や現場の実態をできるだけ忠実に数値化して分析し、その結果を正確に解釈することが必要だと注文を付けた上で、教育政策に有用なエビデンスを産出するためには、経済学に加えて、認知科学、教育学、法学といった分野を横断した学際的な研究が必要だと提案している。

 政策をテーマにした研究に取り組み、論文を執筆する経済学者は多いものの、政策の担当者から見ると、EBPMに活用できる研究はあまりないとの不満は多い。

 この点について編者の大橋弘氏は「複雑な現実の中から、理論と整合するような事象をきれいに切り取ってきて、理論の含意を検証するのがミクロ経済学の実証論文での典型的なアプローチの一つだが、全体像を無視した的外れの政策立案をもたらしかねず、ステークホルダー(利害関係者)の理解を得るのも難しい。EBPMは学術論文の執筆とは似て非なるものと肝に銘じるべきだ」と研究者に意識改革を求めている。

 同時に、政策担当者がEBPMに対するプラスの体験を積み重ねることが重要であり、EBPMの視点を政策現場の日常業務に埋め込む必要があると唱えている。その上で、EBPMの取り組みが至らないところに予算が回らないシステム、政治主導による政策決定にEBPMが欠かせなくなるような仕組みを考えるべきだと結んでいる。

 EBPMの先進国とされる米国でも、研究者と政策立案者の意見がかみ合わない場面は珍しくない。米シカゴ大学のジョン・A・リスト教授は『 そのビジネス、経済学でスケールできます。 』(高遠裕子訳/東洋経済新報社/2023年1月刊)で、経済学をビジネスや政策の現場で有効活用するための方法論を提示している。

『そのビジネス、経済学でスケールできます。』(ジョン・A・リスト著)。ウーバーでチーフ・エコノミストも務めた行動経済学者が、ビジネスと政策決定のための経済学実装の知恵を公開
『そのビジネス、経済学でスケールできます。』(ジョン・A・リスト著)。ウーバーでチーフ・エコノミストも務めた行動経済学者が、ビジネスと政策決定のための経済学実装の知恵を公開
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 リスト氏が目指す「スケール化」とは、アイデアを適用する範囲を顧客、学生や市民など小人数のグループから、はるかに大規模なグループに拡大し、望ましい成果をあげること。専門とする行動経済学のフィールドワークなど、経済学を活用して積み上げた知見を「スケール化」できるかどうかでビジネスの成否は決まる。米ライドシェア最大手、ウーバーテクノロジーズのチーフ・エコノミストを務めた経験をはじめ、経済学の知見をビジネスの最前線で生かしてきた様々な事例を盛り込んでいる。

リスト氏が目撃した官僚の実態

 リスト氏は2002~03年、米大統領経済諮問委員会のシニア・エコノミストも務め、連邦政府の政策やプログラムの費用便益分析を柱とするチームの一員として活動した。「政策立案は一つの巨大なフィールド実験」とみるリスト氏はビジネスの世界で培ったノウハウを政策現場に生かそうとした。

 リスト氏は、政策立案者が意思決定するときに参照しているのは平均データであると気づく。実際には、ある政策がスケールアップするにつれ、便益は大幅に低下する。重要なのは、政策を実行するための支出の限界効用(最後の1単位の支出による政策効果)である。政府支出の限界効用を算出すれば、政府機関は残りの予算を1ドル当たりのプラス効果がより大きい他の政策に効率的に再配分できると考えた。

 しかし、リスト氏の提案は受け入れられなかった。多額の資金を再配分するには、時間と労力がかかり、政治的コンセンサスも必要だったからだ。「政府の官僚はただ動きが鈍いだけではなく、不合理で欲深いのを嫌というほど見てきた。その性質上、各機関が心配しているのは、みずからの生き残りだけで、それは予算がどれだけもらえるかにかかっている。その結果、効率(予算をどれだけ効率的に使うか)は二の次で、政治的な保身が第一の文化が出来上がっていた」と挫折した経験を率直に綴っている。

 学際研究がEBPMの基盤になると説くのは郡山幸雄・宮木幸一著『 多数派の専横を防ぐ 意思決定理論とEBPM 』(日本経済新聞出版/2023年3月刊)である。

『多数派の専横を防ぐ 意思決定理論とEBPM』(郡山幸雄・宮木幸一著)。少数派も取りこぼさない、誰からも納得できる合意形成を科学的論拠から解説
『多数派の専横を防ぐ 意思決定理論とEBPM』(郡山幸雄・宮木幸一著)。少数派も取りこぼさない、誰からも納得できる合意形成を科学的論拠から解説
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 20世紀後半から医学の領域では、科学的な根拠に基づいて治療方針を決めようとするEBM(Evidence Based Medicine)の考え方が普及した。EBMを実行するために医学領域で発展したランダム化比較試験(RCT)の研究デザインは、やがて政治や経済学の領域に波及し、EBPMの概念が広がり始めた。

 一方、医療の現場では、生活習慣病の予防などに行動経済学のナッジの手法を活用する動きが広がりつつある。

医学と経済学の「共通言語」に期待

 郡山氏と宮木氏は「こうした学際的な研究事例は、本質的に優れた研究手法は学問領域を超えるという好例だ」と説き、医学と経済学の共通点は、いろいろな立場の人やステークホルダー、専門家、行政スタッフ、政治家などが嚙み合った議論をするための科学的な「共通言語」になりうると期待を寄せる。

 ただ、最善のデータを集めて適切に統合・理解した上で社会に実装しようとするとき、エビデンスだけで単純に結論は出ないと読者に注意を喚起している。研究者や政策立案者に限らず、様々な立場のステークホルダーがエビデンスを正しく理解し、どのように社会実装するのか熟議することが肝要で、その議論の基盤となる「共通言語」がデータを見る目や科学的なリテラシーではないかとの見方を示している。

 研究者、行政官、政治家、市民ら様々な立場のステークホルダーがEBPMの実現に向けて「共通言語」で熟議する――。

 こうした理想を実現するためには何が必要なのか。今回、紹介した5冊の著者はいずれも、EBPMを推進するためにはステークホルダー間のコミュニケーションが重要だと訴えている。EBPMを夢物語に終わらせてはならないという著者たちの思いを読者はどう受け止めるだろうか。

多数決は社会を幸せにするのか?

ランダム化比較試験、因果推論、ゲーム理論、マジョリティ・ジャッジメント……。少数派も取りこぼさない、誰からも納得できる合意形成を科学的論拠から解説。医療と経済学の共通点から解決策を探る。

郡山幸雄、宮木幸一著/日本経済新聞出版/2640円(税込み)